上杉鷹山の改革を支えた金はどこから来た? 米沢藩と豪商たち

山形県米沢市の上杉神社

17歳で米沢藩主となった上杉鷹山は、倹約を徹底し、産業を育て、藩を立て直した「名君」として知られます。ところが、財政改革を実際の金の流れから見ると、もう一つの姿が現れます。

鷹山が受け継いだ米沢藩には巨額の借金がありました。藩が新しい産業を起こし、農村を復興しようとしても、元手となる現金が要ります。その資金を供給したのが、江戸、越後、酒田など藩領外の商人や豪農でした。

米沢藩の改革を「鷹山一人の倹約物語」から離して見ると、三谷三九郎、渡辺家、本間家といった金主、改革を実務で担った家臣、藩産物を生産した農民や職人まで、一つの経済圏が浮かび上がります。

シリーズ「本間家から見る東北史」|現在地:第3回 金融編

  1. 総合編:酒田本間家の260年
  2. 物流編:最上川・北前船・紅花と酒田
  3. 金融編:上杉鷹山・米沢藩と豪商(現在地)
  4. 戦争編:庄内藩・戊辰戦争と酒田商人
  5. 地主編:大地主本間家・小作争議・農地改革

鷹山が受け継いだ米沢藩は、なぜ財政難だったのか

米沢藩9代藩主上杉鷹山うえすぎ ようざんが家督を継いだのは1767年、17歳のときです。米沢市は当時の藩について、推定約20万両の借財を抱え「崩壊寸前」の状況だったと説明しています。

財政難には上杉家の歴史が関わっていました。上杉景勝は関ヶ原合戦後の1601年、会津120万石から米沢30万石へ減封されます。さらに1664年には15万石となりました。それでも大大名だった時代から続く大きな家臣団を抱え、米沢藩は領地の規模に対して重い人件費を負うことになります。

収入を急に増やせない藩が支出を維持すれば、足りない現金を借りる必要が生じます。鷹山の登場以前から、米沢藩は藩内外の商人、豪農、寺院など多くの金主から資金を調達していました。

鷹山の改革は「倹約」と「投資」を組み合わせた

高橋由一筆の上杉鷹山像
高橋由一筆「上杉鷹山像」(1881年、東京国立博物館所蔵、パブリックドメイン)

上杉鷹山うえすぎ ようざんは自らの生活費を削り、藩内の支出を抑えました。米沢市は、支出削減と同時に「倹約した資金と商人から借り入れた資金を元手に、新規の事業には大胆に投資した」と説明しています。

改革の柱には農村復興、養蚕、織物などの殖産、人材育成がありました。米沢ではもともと青苧が生産され、藩外へ売られていました。鷹山は原料のまま外へ出す商売から一歩進み、領内で織物に加工して付加価値を高める政策を進めます。現在の米沢織につながる産業です。

将来の収入を生み出す産業や農村へ金を投入する必要があり、その資金の一部を領外の金主が供給していました。

大名は商人から金を借りていた

江戸時代に大名へ資金を貸す取引は「大名貸だいみょうがし」と呼ばれます。貸し手には大坂や江戸の両替商、藩の特産品を扱う商人、地方の豪商、豪農などがいました。

藩には参勤交代、江戸屋敷、家臣への俸禄、幕府から命じられる工事や警備など、大量の現金が必要でした。一方、年貢は米で入ることが多く、収入の時期にも偏りがあります。そこで藩は、将来入る米や特産品を担保にしたり、長期間の返済を約束したりして商人から現金を調達しました。

金主側にも利益があります。利息を得るほか、藩の産物を江戸や上方で独占的に販売する権利を得ることもありました。金融と商品流通が一体になっていた点が、近代銀行から金を借りる仕組みとの大きな違いです。

米沢藩を支えた複数の金主

米沢藩財政の研究では、主要な領外金主として江戸の三谷家、越後の渡辺家・三輪家、酒田の本間家などが挙げられています。1832年の史料には75の金主が確認され、寺院を含む多様な貸し手が藩財政を支えていました。

金主ごとに役割も違います。長期間にわたり大口資金を供給する家があれば、商品を担保に短期資金を貸す家もありました。特産品の販売を引き受ける商人もいます。米沢藩は江戸、日本海側、越後など複数の市場から金を集めていました。

最大級の金主・三谷三九郎は、江戸で米沢の商品も売った

米沢藩の金主として特に大きな存在だったのが、江戸の本両替商三谷三九郎みたに さんくろう家です。大坂の鴻池と並び称された大商人で、米沢のほか秋田、会津など東北諸藩へ大名貸を行いました。

米沢藩は三谷家を非常に厚く遇し、金融史研究では米沢藩への「最大貢献金主」と位置づけられています。1790年には3万両規模の新規融資が確認され、1793年にはその借入について利率8%・15年賦への条件変更にも応じました。

三谷家は融資に加え、米沢藩産物の販売も担いました。1793年、米沢藩は領内で生産した横麻と呼ばれる織物を三谷家に売りさばかせました。蝋、青苧、絹織物など藩産物の江戸販売にも関わります。

鷹山の殖産政策では「何を作るか」と同時に「どこで誰が売るか」が重要でした。江戸に販売網を持つ大商人は、資金と販路の双方を提供できる存在でした。

越後の渡辺家――米沢藩の近くにいた長期金融の担い手

もう一つの重要な金主が越後の渡辺家わたなべけです。米沢街道につながる地域の豪農で、米沢藩との金融取引が詳しく残っています。本間家の短期融資とは性格が異なり、比較的長期の貸付を担いました。

米沢藩が借金の無利息化や長期返済を求めた時期には、渡辺家を含む多くの金主が新規貸付から距離を置きました。金主にとって大名貸は、返済能力を見極める商取引でもありました。

1794年には渡辺家が2000両の勧農資金融資に応じ、取引を再開します。本間家が長期支援に応じた後、有力金主が再び米沢藩へ資金を出す流れが生まれていました。

酒田本間家の貸付は「米や青苧を担保」にした

酒田の豪商・本間家と米沢藩の金融取引は1754年から確認できます。3代本間光丘ほんま みつおかが家督を継いだ年です。

本間家の記録「大帳類聚抄」を分析した研究によれば、初期の取引は長くても1年程度の短期貸付が中心でした。担保には米や青苧あおそなど米沢藩の産物が使われ、当初の金利は年15~18%程度でした。

1757年の取引は仕組みがよく分かります。酒田の御用商人の蔵に入った米沢藩の青苧100駄を担保に、本間家は600両を貸しました。期限は約11か月、金利は年18%相当で、翌年に元利が返済されています。

青苧は米沢から酒田へ運ばれる商品であると同時に、現金を借りるための信用にもなりました。最上川と酒田の物流が、そのまま金融の基盤として働いていたのです。米沢と酒田を結んだ物流については、「なぜ酒田は栄えた? 最上川・北前船・紅花がつないだ山形」で詳しく紹介しています。

900両を返すのに10年――改革初期の厳しい資金繰り

鷹山が藩主となった直後も、本間家からの借入は続きました。1768年に1000両、1769年には複数回で計3500両、1770年にも1000両など、短期資金を繰り返し調達しています。

象徴的なのが1772年の900両です。期限1年、年利18%の借入でしたが、予定通りには返せませんでした。元金の一部返済、借り換え、無利息の分割返済などを重ね、完済したのは1782年。約10年を要しています。

倹約令の後も、藩財政の好転には時間がかかりました。借金の条件を変更すれば当面の支払いは軽くなりますが、貸し手の側は新しい融資に慎重になります。財政再建には、藩が再び「貸しても返せる相手」と信用される必要がありました。

天明の飢饉で財政は再び悪化した

1780年代には天明の大飢饉が東北を襲い、米沢藩の財政も再び厳しくなります。救済のための支出が増え、農村の生産力が落ちれば、年貢収入も減ります。

米沢藩は長期貸付をしていた金主に対し、利息の軽減や返済期限の長期化を求めました。多くの金主は条件変更には応じたものの、その後の新規融資から離れていきます。

この時期、本間家は短期貸付をむしろ拡大しました。1790年には本間家との年間取引額が1万7000両余まで増えています。同じころ三谷家は3万両の大口融資に応じました。改革を継続する米沢藩の背後で、複数の金主が異なる形で資金をつないでいました。

莅戸善政が本間家に示した「返せる改革計画」

1791年、改革の中心に莅戸善政のぞき よしまさが復帰します。莅戸は本間家に対し、藩がどう再建するのかを示したうえで資金を求めました。

1793年、莅戸は財政再建計画を示したうえで、本間家に2500両の長期借入を要請します。短期貸付を中心にしてきた本間家にとって、長期資金を出すことは取引の性格を変える決断でした。

光丘は要請に応じ、さらに農村復興に使う「勧農資金」を提案しました。研究によれば、本間家から米沢藩へ年4%で貸し、藩が農民へ年8%で融資する仕組みでした。利ざやは藩が再融資に回し、資金を循環させます。

農民へ資金を回して生産力を回復させ、将来の藩財政につなげる金融でした。

1794年、米沢藩家老が最上川を下って酒田へ向かった

翌1794年、莅戸善政のぞき よしまさは酒田へ赴き、本間光丘を訪ねました。7月19日から8月9日に及ぶ旅で、本間家側には接待などの出費記録も残っています。

本間美術館には、この訪問を記録した『酒田往復記録』が伝わります。米沢の改革を担う家老が最上川を下り、酒田の一商家を訪問した事実は、藩と商人の力関係をよく表しています。

本間家の支援は続き、1794年以降は備籾代の献納、1796年には諸士救済資金3000両、1797年には沿岸防備の軍用金3000両、1798年には藩債年賦金5000両などが確認されています。

本間家と米沢藩の関係は、「酒田本間家とは? 北前船・米沢藩・戊辰戦争から見る豪商の260年」でも、庄内藩や北前船との関係を含めてたどっています。

借りた金は、米沢織など「稼ぐ産業」へ向かった

財政再建には、借金を返す収入源が必要です。米沢藩は農業の立て直しとともに、養蚕や織物などの産業を育てました。

米沢市によれば、鷹山は武士の婦女子に機織りを習得させ、先進地の小千谷から技術者を招いて指導に当たらせました。もともと原料として出荷していた青苧を領内で加工し、のちには養蚕を基礎とする絹織物へ発展します。

ここでも金主との関係が効きました。江戸の三谷家は米沢の織物を販売し、酒田の本間家は藩産物を担保に資金を供給します。生産、金融、流通、販売が一つの政策としてつながっていました。

鷹山が再興した藩校・興譲館では、改革を担う人材の育成も進みました。江戸時代の藩校で読まれた儒学の基本については、「四書五経とは何か|論語・孟子から江戸の藩校・武士の教養まで解説」で紹介しています。

鷹山の改革を支えたのは誰だったのか

米沢藩改革の中心に鷹山がいたことは確かです。ただ、財政の現場には竹俣当綱や莅戸善政ら家臣がいて、藩外には三谷家、渡辺家、本間家などの金主がいました。農村では農民が生産を立て直し、城下では職人や武士の家族が新しい産業を担いました。

金主は商取引として藩を支えました。本間家の初期貸付には年15~18%の利息があり、返済が滞れば新規融資を止めています。三谷家は藩産物の販売を引き受けました。藩と商人は互いの利益と信用を計算しながら関係を築いていました。

米沢藩が改革後半で取り戻した重要な資産が信用でした。再建計画を示し、生産へ資金を回し、返済の見通しを作ることで、一度離れた金主も再び資金を出すようになります。

米沢藩の財政改革は「城の外」まで見ると姿が変わる

米沢城の中では倹約令や産業政策が決められました。その政策を動かす現金は、江戸、越後、酒田からも来ていました。商品は米沢から酒田へ下り、江戸へ送られ、販売代金や融資が再び藩へ戻ります。

三谷三九郎を追えば江戸の金融市場へ、本間光丘を追えば酒田と最上川へ、渡辺家を追えば越後との地域金融へ視界が広がります。鷹山の改革は、江戸時代の広域な商業・金融ネットワークの中で進みました。

名君の逸話として知られる米沢藩改革は、金の流れを追うことで、商人、家臣、農民、職人がつながる具体的な経済史になります。

主な参考資料