江戸・日本橋を出て北へ進む日光街道は、馬喰町、浅草橋、蔵前、浅草、今戸、南千住を経て、最初の宿場である千住宿へ至ります。現在の町を歩いても、街道の起点、江戸城下の出入口、幕府の行政施設、浅草の芝居町、隅田川沿いの産業、江戸の北辺、宿場町という都市の層を一続きにたどれます。
日本橋から千住宿までは約9km。史跡へ寄り道しながら歩くと距離はさらに延びますが、日本橋から北千住までの一日散歩として組みやすい区間です。街道そのものを軸に、現在見られる史跡とその背景を南から順に紹介します。
日光街道とは|日本橋から千住宿へ続く江戸の幹線
日光街道は、江戸幕府が整備した五街道の一つです。江戸時代には「日光道中」とも呼ばれ、日本橋から千住、草加、越ヶ谷、粕壁、宇都宮などを経て日光へ向かいました。徳川家康を祀る日光東照宮への参詣や将軍の日光社参、参勤交代、物資輸送を支えた道です。
幕府は寛永元年(1624)から日光道中の整備を進め、翌寛永2年(1625)に千住宿が成立しました。千住宿は日本橋から最初の宿場で、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿とともに「江戸四宿」と呼ばれました。

日本橋|五街道の起点と江戸最大の商業地
日本国道路元標から歩き始める
現在の日本橋の中央には、日本の道路の起点を示す日本国道路元標があります。江戸時代の日本橋も五街道の起点で、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中へ向かう旅人や荷物がここから各地へ動きました。
江戸最初期の町割と本町の薬種問屋
徳川家康の江戸入府後、日本橋周辺では商人町の整備が進みました。日光街道が通る本町・大伝馬町周辺は、江戸の流通を支える商業地として発展します。
本町三丁目周辺には薬種問屋が集まり、江戸・東京の薬種集散市場として栄えました。享保7年(1722)から元文3年(1738)には近くに和薬種改会所が置かれ、和薬種の真偽や品質を検査しました。現在も日本橋本町には製薬会社や薬祖神社があり、薬の町の歴史が続いています。
日本橋本町の薬種問屋や薬祖神社は、日本橋のべったら市を歩く記事でも詳しく紹介しています。
馬喰町・浅草橋|江戸城下の出入口を抜ける
浜町川と関東郡代の屋敷
日本橋から北へ進むと、かつて水路が通っていた浜町川の跡を横切ります。その先の馬喰町には、明暦3年(1657)の大火後に関東郡代の屋敷が置かれました。関東郡代は幕府直轄領の支配や徴税、訴訟などを担い、街道沿いには江戸近郊を統治する行政拠点も置かれていました。
浅草見附は奥州方面へ向かう門だった
浅草見附は寛永13年(1636)に設けられた江戸城の見附の一つです。枡形門は浅草御門と呼ばれ、浅草観音や奥州方面へ往来する人々を監視しました。現在の浅草橋付近は、江戸の中心部から北へ向かう街道の節目でした。
蔵前|米蔵の町に残る図書館と天文台の記憶
浅草文庫|明治初期の官立図書館
浅草文庫は明治7年(1874)に創設された官立図書館です。和書・漢籍・洋書を合わせて11万~13万冊ともいわれる蔵書を持ち、明治14年(1881)に閉鎖されました。蔵書の一部は現在、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館などに受け継がれています。跡碑は榊神社境内にあります。
浅草天文台|江戸の町中で暦をつくった
天明2年(1782)、幕府の天文台が浅草片町裏へ移されました。ここで天文方が天体観測や暦の編纂を行い、高橋至時らは西洋天文学を取り入れた寛政暦の作成に携わりました。葛飾北斎の『富嶽百景』「鳥越の不二」にも観測施設が描かれています。
浅草|寺社参詣と芝居がつくった江戸の娯楽都市

雷門から浅草寺へ
街道から少し西へ入ると浅草寺です。浅草は浅草寺の門前町として大勢の参詣者を集め、江戸を代表する盛り場へ成長しました。現在の雷門周辺のにぎわいは、寺社参詣と商業が結びついて発展した浅草の歴史につながっています。

姥ヶ池に残る浅草の伝説
姥ヶ池は、かつて隅田川に通じていた池です。旅人を石枕で殺していた老婆と、その悪行を止めようとして命を落とした娘の伝説が残ります。池は明治24年(1891)に埋め立てられ、現在は花川戸公園に碑があります。
猿若町|江戸三座が集まった芝居町
天保の改革では江戸市中の芝居小屋が浅草へ移され、天保13年(1842)に中村座と市村座、翌年には河原崎座が移転しました。芝居小屋だけでなく芝居茶屋や商店も集まり、猿若町は江戸を代表する芝居町になります。

待乳山から隅田川を望んだ江戸の人々
待乳山聖天は浅草寺の支院・本龍院です。隅田川に近い小丘にあり、江戸時代には眺望の名所として浮世絵や詩歌に描かれました。街道を北へ進む途中で、浅草の繁華街から隅田川沿いの景観へ移る地点でもあります。
今戸|隅田川沿いに育った焼物の町
浅草からさらに北へ進む今戸は、江戸から明治にかけて今戸焼の生産地として知られました。瓦や日用品、土人形などが作られ、幕末には50軒を超える製造家があったと伝わります。川沿いの立地は、原料や製品を運ぶうえでも有利でした。

今戸神社には宝暦2年(1752)に今戸焼の職人たちが奉納した狛犬の台座が残り、地域産業と信仰の結びつきを伝えています。境内には新選組一番隊組長・沖田総司の終焉地とする伝承を伝える碑もあります。
南千住|江戸の北辺と小塚原の記憶
泪橋と小塚原刑場
浅草から南千住へ入ると、街道は江戸の周縁へ近づきます。思川に架かっていた泪橋は、小塚原刑場へ送られる罪人と家族が別れた場所として名が伝わりました。現在は川も橋も残りませんが、交差点名に「泪橋」が残っています。
小塚原刑場跡に建つ延命寺には、刑死者を弔うために造立された首切地蔵があります。南千住周辺の刑場と江戸の都市構造については、吉原遊郭跡を歩く記事でも周辺史とあわせて紹介しています。
素盞雄神社と芭蕉の句碑
素盞雄神社は南千住・三ノ輪周辺の広い地域の鎮守です。境内には松尾芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句碑、富士塚、庚申塔群などが残ります。千住大橋を前に、江戸の街道文化と地域信仰が重なる場所です。
千住大橋|橋を渡ると日光街道最初の宿場へ
千住大橋は文禄3年(1594)、徳川家康の命によって隅田川に架けられました。江戸幕府成立より前に完成し、その後の日光・奥州方面への交通を支えます。橋の北側に千住宿が成立すると、街道と水運が交わる交通・物流の要所になりました。

松尾芭蕉が『奥の細道』へ旅立った千住
元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は深川から船で隅田川を上り、千住で上陸しました。門人の河合曾良とともにここから陸路を進み、東北・北陸を巡る長い旅へ入ります。『奥の細道』には千住で「行春や鳥啼魚の目は泪」と詠んだ場面が置かれています。
芭蕉の旅全体と作品の構成は、『奥の細道』要約で詳しく紹介しています。
問屋場・貫目改所・本陣が支えた宿場
千住宿には元禄8年(1695)、人馬を手配する問屋場が設けられました。寛保3年(1743)には荷物の重量を検査する貫目改所が置かれます。次の貫目改所が宇都宮宿だったため、千住での検査は長い日光街道の輸送を支える重要な役割を担いました。
宿場には大名や公家などが利用する本陣もありました。市郎兵衛本陣は千住宿を代表する本陣で、千住・草加・越谷・粕壁・杉戸の五宿本陣の総代を務めたと伝わります。
千住宿の市場、本陣、問屋場、宿場町の暮らしをさらに詳しく知るなら、千住宿跡を北千住・千住大橋・南千住から歩く記事もあわせて楽しめます。
日本橋から北千住までの歴史散歩ルート
全地点を回ると寄り道が多くなるため、時間に合わせて浅草や南千住で区切ると歩きやすいルートです。街道の変化をつかむなら、日本橋、浅草見附、浅草寺・猿若町、今戸、泪橋、素盞雄神社、千住大橋、千住宿を軸にすると流れがつながります。
| 区間 | 主な見どころ | 歴史のテーマ |
|---|---|---|
| 日本橋 | 道路元標・本町 | 五街道の起点、商業と薬種問屋 |
| 馬喰町~浅草橋 | 郡代屋敷・浅草見附 | 幕府行政と江戸城下の出入口 |
| 蔵前 | 浅草文庫・浅草天文台 | 近代図書館と江戸の天文学 |
| 浅草 | 浅草寺・猿若町・待乳山 | 寺社参詣と芝居文化 |
| 今戸 | 今戸焼・今戸神社 | 隅田川沿いの窯業 |
| 南千住 | 泪橋・延命寺・素盞雄神社 | 江戸の北辺と地域信仰 |
| 千住 | 千住大橋・問屋場・本陣 | 宿場、物流、旅立ち |
浅草で休憩を入れると、日本橋からの前半と千住へ向かう後半を分けやすくなります。JR・都営浅草線の浅草橋駅、都営浅草線・大江戸線の蔵前駅、浅草駅、南千住駅、千住大橋駅などが街道の近くにあり、途中から歩くコースも組めます。

