明和5年(1768)、京都の文化人を紹介する『平安人物志』が刊行されました。画家の部の筆頭は「西酔月」。現在は大西酔月として知られる江戸時代中期の画家で、円山応挙や伊藤若冲より先に記されています。
酔月は中国絵画に学び、山水画と人物画を得意としました。のちに四条派を開く呉春や、各地の風景を描いた淵上旭江が絵を学んだ師でもあります。作品の伝来は少ないものの、18世紀京都の画壇を知る史料に、その足跡が残っています。
大西酔月とはどのような画家だったのか
大西酔月は京都出身の画家で、字は希蟾、酔月は号です。師は望月玉蟾。山水や人物を描き、中国の元・明時代の絵画を学んだと伝わります。
『平安人物志』で円山応挙や伊藤若冲より前に掲載
『平安人物志』の「平安」は京都を指します。同書は学者、書家、画家などを分野ごとに紹介した人名録です。明和5年版の画家の部では、「西酔月」に続いて「藤応挙」「勝汝鈞」「池無名」「謝長庚」という名前が現れます。それぞれ現在の円山応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村に当たります。
酔月の項には、字「希蟾」と住所「蛸薬師室町西入丁」が記されています。現在の京都市中心部、蛸薬師通と室町通の交差点から西に入る一帯です。
画家の部の筆頭という掲載位置は、当時の京都画壇で酔月が重んじられていたことを伝えます。掲載順の選定基準は記されていません。
師・望月玉蟾と中国絵画の学習
望月玉蟾(1692〜1755)は京都で活動した画家です。土佐派と狩野派に関係する師から学び、伝統的な画法を幅広く身につけました。大西酔月はその門人として絵の修練を積み、山水や中国由来の人物画を制作しました。

玉蟾の《真珠庵蔵百鬼夜行絵巻図(模本)》には、器物が変じた妖怪などが夜の京都を行進する様子が描かれています。師の表現の幅を伝える作品で、メトロポリタン美術館が公開しています。酔月自身の作風は、残された作品をもとに検討されています。
呉春が最初に絵を学んだ師
呉春(1752〜1811)は、後に京都で四条派を開いた画家です。京都国立博物館の《芋畑図》の解説には、呉春が最初に大西酔月に学び、続いて与謝蕪村から俳諧と絵画を学んだとあります。
呉春は蕪村のもとで文人画や俳画に親しみ、蕪村の没後には円山応挙の写生的な画風に近づきました。自然や人物の姿を観察し、柔らかな筆致で描く四条派は、京都絵画の大きな流れとなります。

メトロポリタン美術館所蔵の《渓山探薬図》は、山中を馬で進む老人を描いた作品です。酔月の死去が伝わる時期より後に制作されたもので、呉春が後年に到達した画風を知る資料です。蕪村と呉春の作品をさらに詳しく知るには、関連記事「逸翁美術館コレクション|蕪村・呉春と小林一三の茶の湯」でも両者のつながりを紹介しています。
備前・備中で淵上旭江にも画法を教えた
酔月の足跡は京都の外にも残ります。岡山県立美術館の作家解説によると、淵上旭江(1753〜1816)は、備前・備中を訪れた大西酔月に画法を学びました。旭江は現在の岡山県玉野市に生まれ、後に長崎で中国の明・清時代の絵画を学び、各地を旅して絵を描きました。
旭江は寛政11年(1799)から諸国の名所を描いた木版画集『日本勝地山水奇観』を刊行し、享和2年(1802)には後編も出しました。その図の一部は後の歌川広重の名所絵にも利用されたと、岡山県立美術館は解説しています。
残された作品――高士騎牛図・林和靖図など
大西酔月の現存作品は少数です。2012年に千葉市美術館と三重県立美術館で開催された「蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち」では、次の4作品が出品目録に掲載されています。
- 《林和靖図》――中国北宋の隠者・林和靖を描いた作品。
- 《高士騎牛図》――牛に乗った高士を題材とする作品。京都府立総合資料館蔵・京都文化博物館管理として出品。
- 《龐居士・霊昭女図》――中国の仏教に関係する人物を題材とする作品。
- 《花鳥人物押絵貼屏風》――花鳥や人物を組み合わせた屏風。
国立文化財機構の平成29年度年報には、酔月の《雑画巻》も記録されています。紙本墨画の一巻で、縦29.1センチ、長さ834.2センチ。山水や花鳥などを次々と描き、弟子に与える絵手本だったと考えられています。室町時代の古い漢画に学んだ筆法を伝える作品です。
《高士騎牛図》については、野口剛による作品研究が『國華』第1335号(2007年)に掲載されています。画家本人の作品を検討するうえで重要な研究資料です。中国の古典的人物を描く酔月の制作は、江戸中期の京都で受け継がれた漢画の系譜と結びついています。
この時代には応挙の写生画、若冲の独創的な動植物画、池大雅や蕪村の文人画が京都で並び立っていました。画派の関係は「日本美術史と東京国立博物館」でも紹介しています。
1772年の名古屋客死説と後世の記録
国際日本文化研究センターの『平安人物志』関連資料には、酔月が明和9年(1772)に名古屋で客死したという記述があります。旅先で亡くなったとする伝承ですが、死因や墓所は伝わっていません。辞典類では生没年を不詳とする記載も続いています。
酔月の名前は近代にも残りました。東京文化財研究所の書画家人名データベースでは、1911年の『増補古今書画名家一覧』、1919年の『大正八年度帝国絵画番附』、1920年代の書画名家一覧などに掲載が確認できます。没後100年以上を経ても、過去の画人として名が受け継がれていたのです。

