多摩川台古墳群を歩く|宝萊山・亀甲山古墳からたどる古墳時代300年

東京都大田区の多摩川台公園には、古墳時代前期の大きな前方後円墳と、古墳時代後期の小規模な墳墓群が残っています。最も古い宝萊山古墳は4世紀前半、亀甲山古墳は4世紀後半、多摩川台第1〜8号墳は6世紀前半から7世紀中頃にかけての築造と考えられています。多摩川を望む台地を歩くと、首長の大きな墓から多数の小型古墳へと変わっていく様子を、約300年の時間の流れに沿って確かめられます。

多摩川台公園の古墳はどこにあるのか

多摩川台公園は東急多摩川線・東横線・目黒線の多摩川駅から近く、多摩川沿いの台地上を約750メートルにわたって延びています。駅寄りの亀甲山古墳と、北西側の宝萊山古墳の間に、多摩川台第1〜8号墳が並んでいます。公園入口近くには多摩川台公園古墳展示室もあります。

これらの古墳は、大田区の田園調布古墳群の一部です。世田谷区の野毛大塚古墳などがある野毛地域の古墳群も含め、広い範囲を荏原台古墳群と呼びます。「多摩川台古墳群」という狭い意味では、主に公園内の第1〜8号墳を指します。宝萊山古墳・亀甲山古墳は近接する別の古墳として区別します。

多摩川沿いの高台が選ばれた背景

古墳の並ぶ場所は、武蔵野台地の南端にあたる細長い高まりです。西側の多摩川沿いの低地との高低差は約30メートルあります。大田区教育委員会は、古墳時代のこの地域が河川交通と東京湾方面への往来を見渡す位置にあったことを、古墳立地の背景として挙げています。

大型の墳丘を台地の縁に築けば、川沿いを往来する人々からも目に入りやすくなります。古墳に必要な土砂・石材の調達や、台地の地盤条件も場所選びに関係しました。ただし、古墳時代の河道や船着き場を現代の地図の一点に特定できるわけではなく、河川交通との関係は地形や遺跡分布から考えるものです。

4世紀前半の宝萊山古墳|多摩川流域で最古級の大型古墳

宝萊山古墳(ほうらいさんこふん)は、大田区田園調布四丁目にある前方後円墳です。大田区の案内には「宝来山古墳」の表記も使われています。1952年に東京都の史跡に指定されました。1995〜1996年の確認調査によって、全長約97メートル、後円部の直径約52メートル・高さ約11メートル、前方部の幅約37メートル・高さ約8メートルと推定されました。

前方部は先端に向かって三味線の撥(ばち)のように広がる形をしています。前方部と後円部が接するくびれ部付近では、3世紀後半から4世紀前半に位置づけられる土器が見つかっています。墳形と出土土器などから、現在では4世紀前半の築造と推定されています。かつては4世紀後半の古墳と考えられていましたが、調査によって年代の見方が変わりました。

1934年、宅地造成中に発見された埋葬施設

1934年、宅地造成によって後円部が切り崩された際、粘土槨(ねんどかく)が見つかりました。粘土槨は、遺体を納める棺の周囲を粘土で覆って保護した埋葬施設です。調査では日本製の倣製四獣鏡1面、紡錘車形石製品1点、勾玉4点、管玉67点、丸玉173点、小玉391点、鉄刀片10点、槍形鉄器2点、刀子1点が確認されています。

鏡・玉類・武器を組み合わせて副葬したことは、被葬者が大きな権力や広域的な交流に関わっていた可能性を考える手掛かりです。大田区は初期のヤマト王権との関係を指摘しています。ただし、被葬者の名前や具体的な役職を記した文字史料は確認されていません。

損傷した墳丘をどのように調べたのか

宝萊山古墳は後円部が大きく損なわれ、もとの姿が分かりにくくなっています。1995〜1996年の調査は、史跡の保存を優先し、発掘範囲を必要最小限に抑えて行われました。墳丘の裾や地形、出土土器を確認することで、前方後円墳の規模と築造年代が見直されました。現在見える形を、そのまま築造当時の姿と考えず、推定復元の結果と照らし合わせる必要があります。

4世紀後半の亀甲山古墳|全長約107メートルの国指定史跡

亀甲山古墳(かめのこやまこふん)は、1928年に国の史跡に指定された前方後円墳です。測量調査に基づく全長は約107メートル、後円部の直径約66メートル・高さ約10メートル、前方部の幅約49.5メートル・高さ約7.5メートルです。東京都に残る古墳のなかでも最大級で、宝萊山古墳より一回り大きな墳丘を築いています。

後円部の南端には削られた部分がありますが、墳丘の多くが残されています。大型の前方後円墳でも、樹木が茂る現在の公園では全体の鍵穴形を地上から一度に見渡すことは難しく、墳丘の高さや裾の曲線、園路から見える地形を確かめるのが適しています。

内部の埋葬施設は本格的に発掘されていません。4世紀後半という築造年代は、墳丘の形状や宝萊山古墳との比較に基づく推定です。両古墳を同じ一族の歴代首長墓とみる考え方がありますが、親子関係や具体的な被葬者は分かっていません。

5世紀には野毛地域でも大型古墳が造られた

多摩川流域の古墳の分布は4世紀から7世紀まで同じ状態で続いたわけではありません。5世紀には、現在の世田谷区にある野毛大塚古墳など、野毛地域の大型古墳が重要な位置を占めるようになります。大田区教育委員会の資料でも、古墳時代中期に野毛大塚古墳や御岳山古墳などが目立つことが説明されています。

田園調布から野毛へ大型墳墓の築造地が移った背景には、地域の首長層や勢力関係の変化が想定されます。どの家系が交代したか、あるいは同じ系譜が移動したかは、墓の立地や副葬品だけで一意に決まるものではありません。

6〜7世紀の多摩川台第1〜8号墳|小型古墳が並ぶ時代

亀甲山古墳と宝萊山古墳の間に並ぶ墳丘は、以前は9基の円墳と考えられ、第1号墳から第9号墳まで番号が付けられていました。1987〜1991年の確認調査で、第1号墳と第2号墳は組み合わさった一つの前方後円墳であること、旧第8号墳は古墳ではなかったことが判明しました。旧第9号墳が現在の第8号墳に改められています。第1〜8号墳という番号を、そのまま独立した8基の古墳という数え方に置き換えると、調査成果を取り違えます。

第1・2号墳|後から組み合わされた全長39メートルの前方後円墳

先に造られた第2号墳を前方部として利用し、後から第1号墳を後円部に加えたことで、全長約39メートルの前方後円墳になったと考えられています。完成段階の時期は6世紀第3四半期後半ごろと推定されています。前方部の幅は約17メートル、後円部の幅は約19.5メートル、高さは約5メートルです。

第2号墳では竪穴式礫槨(たてあなしきれきかく)が確認されています。一方、第1号墳側には横穴式石室があります。異なる埋葬施設をもつ墳丘がつながった経過は、見た目の形だけで築造順を決められないことを教えてくれます。大田区の『多摩川台古墳群発掘調査報告書Ⅱ』には、第1・2号墳の範囲確認調査が収録されています。

第3〜8号墳|6世紀末から7世紀中頃に続いた築造

第3号墳から第8号墳までは直径約13〜20メートルの円墳です。調査成果をまとめた『東京の古墳』では、次のように編年されています。年代は出土遺物や墳丘の調査結果による推定です。

古墳推定築造時期規模
第1・2号墳(一体)6世紀第3四半期後半に前方後円墳として成立全長約39m
第3号墳6世紀末〜7世紀初頭直径約13〜14m
第4号墳7世紀第1四半期直径約18m
第5号墳6世紀末〜7世紀初頭直径約20.1m
第6号墳7世紀第1四半期直径約19.5m
第7号墳7世紀第2四半期直径約18m
第8号墳(旧第9号墳)7世紀中頃直径約16.5m
『東京の古墳』技術ノートNo.55、13ページの一覧を基に整理。第2号墳自体は6世紀第2四半期以前に先行して築造されたと考えられます。

第3号墳と第5号墳がほぼ同じ時期に造られ、続いて第4号墳と第6号墳、その後に第7号墳、最後に第8号墳が造られたという順序が想定されています。番号順と築造順は一致しません。番号は公園内での並びに基づく名称であり、築造年代の早い順を表したものではないためです。

第5〜7号墳|横穴式石室の向きがそろう

第5・6・7号墳では、横穴式石室がほぼ同じ方向に設けられています。この配置は複数の円墳を一定の計画のもとに築造した可能性を考える材料です。石室の入り口や内部は園路から通常は見えず、外から見える墳丘の形と、発掘によって明らかになった内部構造を分けて理解する必要があります。

埋葬施設と副葬品から分かること

竪穴式と横穴式の違い

竪穴式の埋葬施設は、墳丘上部から棺を納め、石などで覆って密閉する構造です。横穴式石室は遺体を安置する部屋に外部から出入りする通路を設けるため、後から人を葬る追葬にも対応できます。6〜7世紀に横穴式石室が広がったことは、同じ墓への複数回の埋葬や、埋葬を行う集団のあり方を考える材料となります。

宝萊山古墳の粘土槨、第2号墳の竪穴式礫槨、第1号墳などの横穴式石室を比較すると、埋葬方法が変化していったことが分かります。ただし、埋葬形式は地域や古墳によって違いがあり、すべての古墳が同じ順序で形式を取り替えたわけではありません。

武器・馬具・玉類・土器

多摩川台古墳群では、武器・武具、馬具、装身具、土師器、須恵器などが見つかっています。古墳の副葬品は、葬られた人物の社会的地位、儀礼、周辺地域との交流を考える資料です。土師器は主に素焼きの土器、須恵器は高温で焼成する硬質の土器です。どの古墳から何が出たかを細かく比較するには、個別の発掘調査報告書の遺物図版との照合が必要です。

大きな前方後円墳から群集墳へ

4世紀の宝萊山古墳と亀甲山古墳は、ともに全長約100メートルに達する大きな墓です。6〜7世紀には、これらより小さな円墳が同じ台地に次々と造られました。このように比較的小規模な古墳が一定の場所に集まったものを群集墳と呼びます。

墓を築くことができる人々の範囲が広がり、首長を中心とする集団の内部で社会的な役割が分かれていった可能性が考えられます。ただし、小型古墳のすべてを特定の職業集団の長の墓と判断するには個別の証拠が必要です。田園調布の大型古墳、野毛地域の5世紀の古墳、再び田園調布に集中する後期の古墳を一続きの地域史として捉えると、時期による墓の規模や立地の違いが明確になります。

現地で歩く順路|古墳展示室から宝萊山古墳へ

多摩川駅から公園に入り、古墳展示室、亀甲山古墳、多摩川台第1〜8号墳、宝萊山古墳の順に進むと、地形と墳丘を続けて観察できます。古墳群を築造年代順に歩くコースとは異なりますが、細長い公園を往復する距離を抑えられます。見学と説明を含めた所要時間の目安は約90〜120分です。坂道・階段があるため、参加者の歩行状況に合わせて調整します。

1.多摩川台公園古墳展示室

展示室は6世紀後半の横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部を切り取った姿をイメージして造られています。田園調布古墳群から出土した大刀・勾玉・埴輪などのレプリカもあり、実際の墳丘では見えない内部の様子を学べます。復元展示を特定の古墳から移築した実物の石室と取り違えないようにします。

2.亀甲山古墳

墳丘の裾をたどり、前方部と後円部の高低差や横への広がりを観察します。全長約107メートルという数値と見える範囲を比較すると、木々に隠れた墳丘の規模を捉えやすくなります。未発掘の埋葬施設について、確定した内部構造を示す説明は避けます。

3.第1・2号墳、第3〜8号墳

第1・2号墳では、最初は別々の円墳として数えられていた場所が、発掘で一体の前方後円墳と分かった経緯を紹介します。続く円墳では、それぞれの直径や高さ、古墳と古墳との間隔を見比べます。第5〜7号墳では、外からは見えない石室の向きが調査で確認されたことにも触れます。

4.宝萊山古墳

最後に4世紀前半へ時代をさかのぼり、宝萊山古墳を見ます。現在の墳丘が造成工事で損傷を受けていること、粘土槨や副葬品が発見されたこと、1990年代の調査で全長や形状が推定されたことを結び付けると、史跡の保存と考古学調査の関係を具体的に説明できます。

多摩川台公園古墳展示室の利用案内

  • 所在地:東京都大田区田園調布一丁目63番1号
  • アクセス:東急多摩川線「多摩川駅」から徒歩約5分(展示室への大田区公式案内)
  • 入室料:無料
  • 開室時間:9時〜16時30分(入室は16時まで)
  • 休室日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開室)、12月29日〜1月3日
  • 問い合わせ:多摩川台公園管理事務所 03-3721-1951

展示室の開室日や公園内の区域の開閉時間は異なります。公園の一部区域には季節による閉鎖時間が設定されています。見学前には大田区・多摩川台公園古墳展示室と大田区・多摩川台公園の案内をご確認ください。保存された墳丘では、立入制限や園路の表示に従って見学します。

参考資料・出典

築造年代と墳丘規模は調査報告や公的解説に基づく推定値を含みます。『多摩川台古墳群発掘調査報告書Ⅰ・Ⅱ』は書誌・内容案内を確認した資料であり、本文・遺物図版の全ページを直接照合したものではありません。