第32軍司令部壕とは?首里城地下の沖縄戦司令部と南部撤退を解説

1945年の首里に残る第32軍司令部壕内部

沖縄県那覇市の首里城地下には、沖縄戦の日本軍全体を指揮した巨大な地下司令部が残っています。

「第32軍司令部壕」です。

現在の沖縄県公式事業ページは、壕の延べ延長を「千数百メートル」としています。

那覇市資料では、地下約30mに南北へ延びる約390mの主坑を中心に、多数の枝坑が広がる構造と説明されています。

1945年の首里に残る第32軍司令部壕内部
1945年、首里の第32軍司令部壕内部。沖縄県公文書館所蔵。

ここに置かれた第32軍司令部は、沖縄本島を中心とする南西諸島の防衛を担った旧日本陸軍の軍司令部です。

牛島満司令官、長勇参謀長、八原博通高級参謀らが地下で作戦を指揮しました。

1945年4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸すると、第32軍は首里を中心に防衛戦を展開します。

しかし5月下旬、首里戦線を維持できなくなった第32軍は、約3万人の残存兵力とともに沖縄本島南部へ撤退しました。

南部にはすでに多数の住民が避難していました。

軍の撤退によって戦場そのものが住民の避難地域へ移り、沖縄戦の民間人犠牲をさらに拡大させる大きな要因となりました。

第32軍とは?

第32軍は、1944年3月22日、大本営直轄の沖縄守備軍として創設されました。

沖縄県公文書館によると、3月25日に福岡県で司令部が編成され、4月2日に那覇市安里の蚕種試験場へ配置されました。

当初の重要任務は、南西諸島の防衛強化と飛行場建設でした。

しかし1944年夏以降、サイパン・テニアンなどが米軍に占領され、日本本土と沖縄への進攻が現実化します。

沖縄は本土防衛の前面に位置する戦場として要塞化されていきました。

司令部は安里→津嘉山→首里へ移った

第32軍司令部は最初から首里城地下にいたわけではありません。

沖縄県公文書館の整理では、

1944年4月2日

那覇市安里の蚕種試験場

↓

4月22日

津嘉山(現在の南風原町津嘉山)

↓

12月3日

首里城地下の司令部壕

という順に移動しました。

戦争が沖縄へ近づくにつれ、地上施設からより強固な地下司令部へ移ったことが分かります。

誰が司令部壕を掘った?第2野戦築城隊と学徒兵

沖縄県の文献調査では、首里城地下の第32軍司令部壕の本格的な構築を担った部隊として「第2野戦築城隊」が確認されています。同隊は1944年7月23日に岡山の中部第52部隊で動員され、9月1日に那覇港へ到着、翌2日に第32軍の指揮下へ入りました。

首里城地下での司令部壕構築作業は12月9日から始まったと県の調査資料は整理しています。第32軍司令部そのものは12月3日に首里へ移っているため、司令部が移転した後も壕の拡張・整備が続いていたことになります。現在確認されている資料では、設計図や「完成日」を示す文書は見つかっておらず、証言にも差があるため、いつをもって完成とするかは確定していません。

掘削は機械化された大規模トンネル工事というより、人海戦術の比重が大きい作業でした。県の検討委員会資料に引用された証言では、兵士が削岩機や十字鍬で岩盤を掘り、掘り出した土砂を学徒兵がすくって坑外へ運びました。支給された資材も、つるはし、スコップ、もっこなど最小限の道具が中心だったと証言されています。

坑内は湧水で足首まで水につかる区画があり、蒸し暑い中で作業が続きました。落盤事故の危険もあり、砲爆撃が激しくなった後は壕外へ土砂を運び出す作業そのものが危険でした。1945年3月31日には、第32軍司令部の命令で鉄血勤皇隊に編成された沖縄師範学校の生徒200人以上が第2野戦築城隊へ編入され、司令部壕の構築作業にも投入されています。

この経緯から、第32軍司令部壕は「1944年12月に完成した地下司令部」ではなく、司令部が使用を始めた後も戦闘直前まで掘削・補強が続いた施設として見る必要があります。完成度の異なる区画、未発掘区間、崩落区間が現在まで残る背景にも、戦争末期の突貫工事という建設条件があります。

なぜ首里城の地下だった?

首里は沖縄本島南部の高地に位置し、那覇方面や中南部を見渡せる地形です。

さらに首里城周辺には地下陣地を構築できる地形がありました。

第32軍は首里を沖縄本島防衛の軍事的中枢としました。

その結果、琉球王国の政治・文化の中心だった首里城一帯が、日本軍の主要軍事拠点にもなります。

那覇市資料は、首里城地下に沖縄戦を指揮する司令部壕があったことを、首里一帯が激しい攻撃を受けた背景として説明しています。

戦前の首里には多くの文化財が集中していましたが、沖縄戦で首里城を含む歴史的景観は壊滅的な被害を受けました。

地下約30m、延べ千数百メートル

第32軍司令部壕の規模には、資料によって表現に多少の違いがあります。

沖縄県の現在の事業ページ:

延べ延長「千数百メートル」

沖縄県公文書館:

総延長「約1,000mと推定」

那覇市資料:

地下約30m、南北に貫通する約390mの主坑を中心に枝線を広げ、総延長千数百メートルほど

とされています。

「390m」は地下壕全体ではなく、主要な南北坑道の長さです。

5つの坑口が確認されている

那覇市資料では、第32軍司令部壕には5か所の坑口が確認されているとされています。

壕は単純な一本のトンネルではありません。

複数の入口と坑道を組み合わせ、司令部機能を地下に分散させた大規模施設でした。

現在の保存・公開事業でも「第1坑口」「第5坑口」という名称が使用されています。

2026年度には第1坑口で発掘調査が実施されました。

壕内には何があった?

米軍は1945年5月末、第32軍が首里から撤退した直後に司令部壕を調査しています。

沖縄県公文書館には、米軍の諜報報告書や壕内写真が残されています。

壕内には軍司令部として必要な、

  • 司令官関係区画
  • 参謀部
  • 作戦関係区画
  • 通信設備
  • 生活区画
  • 各種勤務区画

などが置かれていました。

現在、内部は崩落が進み、一般公開されていません。

そのため、戦後に米軍が残した写真・図面・諜報報告書は、当時の内部を知る重要資料となっています。

牛島満・長勇・八原博通

第32軍の作戦を理解するうえで重要な3人が、

  • 司令官 牛島満(うしじま みつる)
  • 参謀長 長勇(ちょう いさむ)
  • 高級参謀 八原博通(やはら ひろみち)

です。

1945年2月の第32軍幹部集合写真に写る牛島満・長勇・八原博通ら
1945年2月、米軍上陸前の第32軍関係者。沖縄県公文書館所蔵。

沖縄県公文書館が所蔵する1945年2月の集合写真には、大田実、牛島満、長勇、金山均、北郷格郎、八原博通らが写っています。

牛島満司令官

牛島満は第32軍司令官です。軍全体の最終的な指揮権を持ち、参謀部が作成した作戦案を承認しながら防衛戦を指揮しました。

長勇参謀長

長勇は参謀長として司令部の作戦指導に大きな影響を持ちました。

沖縄戦では積極的な攻勢を主張し、八原博通の持久戦方針と意見がぶつかる場面もありました。

1945年5月4日の総攻撃は大きな損害を出して失敗し、その後、第32軍は再び持久防御へ戻りました。

八原博通高級参謀

八原博通は第32軍の高級参謀で、作戦立案の中心人物でした。

八原は米軍の圧倒的な火力を正面から攻撃して撃破することは困難と考え、地下陣地などを利用して長期間抵抗する「持久戦」を重視しました。

戦闘が長期化し、島内各地が戦場となる中で住民被害も拡大しました。

4月1日、米軍が沖縄本島へ上陸

1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部西海岸へ上陸しました。

第32軍の主力は上陸海岸で決戦するのではなく、首里を中心とする沖縄本島南部の地下陣地帯で持久戦を行う方針でした。

米軍が南下すると、浦添・宜野湾・那覇・首里周辺で激戦となります。

首里を守る巨大な地下陣地帯

首里の北側から周辺には、地下壕、洞窟、陣地、トーチカなどが多数構築されました。

シュガーローフ、前田高地など、沖縄戦を代表する激戦地もこの首里防衛線を構成する地域です。

第32軍司令部壕は、この巨大な地下防御体系の最深部にある指揮中枢でした。

5月11日、首里防衛線への総攻撃

沖縄県公文書館によると、米軍は中部の日本軍防衛線を突破し、5月11日から第32軍司令部防衛線への総攻撃を開始しました。

激しい戦闘で日本軍の兵力・弾薬は消耗し、米軍は首里周辺へ迫りました。

首里で全滅する案と南部撤退案

首里戦線が崩壊しつつある中、第32軍司令部では今後の方針が検討されました。

最終的には沖縄本島南部へ撤退して戦闘を継続する方針が選ばれました。

沖縄県公文書館は、牛島司令官が本土防衛のため約3万人の残存兵力で米軍を引き留め、時間を稼ぐ「出血持久戦」を続けるため南部撤退を決定したと説明しています。

5月27日、首里から撤退開始

第32軍は1945年5月27日、首里から南部への撤退を開始しました。

戦場そのものが沖縄本島南部へ移動しました。

なぜ南部撤退で住民犠牲が増えた?

沖縄本島南部には、首里・那覇など北側から逃れてきた多数の住民が集まっていました。

日本軍が南部へ撤退すると、日本軍、避難住民、負傷兵、学徒、行政関係者などが狭い地域へ集中しました。

米軍も日本軍を追って南下し、住民が避難していた地域がそのまま最終戦場になりました。

沖縄県公文書館は、第32軍の南部撤退により住民の犠牲が増加したと明記しています。

首里司令部壕は米軍に調査された

第32軍撤退後、米軍は首里の司令部壕を調査し、写真・図面・諜報報告書を残しました。

これらは、戦後の崩落で確認しにくくなった壕内構造を復元する手がかりになっています。

戦後調査は1968年から続く|観光開発断念から保存・公開計画へ

第32軍司令部壕の保存・公開は、近年になって突然始まった事業ではありません。沖縄県公文書館によると、琉球政府時代の1968年度には沖縄観光開発事業団が壕を観光資源として開発できるか検討し、土木コンサルタントへ内部調査を委託しました。しかし安全対策や事業費のリスクが大きく、観光開発は断念されています。

本土復帰後の沖縄県は1992年度に予備調査を始め、1993年度に95m、1994年度に175mの試掘調査を行いました。1997年度には「第32軍司令部壕保存・公開基本計画」を策定し、以後は定期的な維持管理点検を続けています。ところが壕内では落盤やガスの滞留が確認され、地表陥没の懸念もあるため、一般公開には大きな技術的制約が残りました。

2012年度には専門家による地質・構造調査が行われ、将来の安全性と保存方法が改めて検討されました。壕の一部は軟弱な地層を通り、崩落した岩塊や土砂が坑道を塞いでいます。地下水の挙動も安全性に影響するため、単純に崩落部分を掘り直して支保工を入れれば公開できるという施設ではありません。

2019年の首里城火災後には、首里城地下に残る司令部壕の歴史的価値が再び大きく注目されました。沖縄県は2021年に保存・公開検討委員会を発足し、歴史・平和教育だけでなく、文化財、地盤工学、トンネル工学、建築、応用地質など複数分野の専門家を交えて公開可能性を検討しています。

2025年3月には新しい「第32軍司令部壕保存・公開基本計画」を策定しました。県は第5坑口、第1坑口、第1坑道の未発掘区間、既発掘区間、地下水への影響評価などを段階的に調査・整備する方針を示しています。80年以上前の地下壕を保存する事業は、戦争史の調査であると同時に、地質・土木・文化財保存を組み合わせた長期プロジェクトになっています。

司令部は摩文仁へ

首里から撤退した第32軍司令部は、沖縄本島南端の摩文仁周辺へ移動しました。

沖縄県糸満市摩文仁に残る第32軍最終司令部壕の入口
摩文仁の第32軍最終司令部壕入口。Doricono / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

この写真は首里城地下の司令部壕ではなく、第32軍が首里撤退後に最後の司令部を置いた摩文仁の洞窟壕入口です。

牛島・長の最期は6月22日か23日か

牛島満司令官と長勇参謀長の最期の日付は、資料によって6月22日と23日の両方が見られます。

沖縄県公文書館も「6月23日(もしくは22日)」と表現しています。

6月22日から23日にかけて牛島満・長勇らが摩文仁の司令部壕で最期を迎えたとみられ、日付には史料差があります。

6月23日ですべての戦闘が終わったわけではない

牛島・長らが最期を迎え、第32軍司令部としての組織的指揮は終わりました。

沖縄県公文書館が紹介する米軍資料では、米軍は6月21日に日本軍の組織的抵抗が終結し、6月22日に第10軍司令官が沖縄島の制圧を宣言したとしています。

その後も日本兵の抵抗や米軍の掃討戦が続き、住民も犠牲となりました。

首里の地下壕は現在入れる?

2026年9月現在、首里城地下の第32軍司令部壕は通常の観光施設として一般公開されていません。

内部は軟弱な地盤と長年の崩落によって安全性に大きな問題があります。

2025年、新しい保存・公開基本計画を策定

沖縄県は2025年3月、新しい「第32軍司令部壕保存・公開基本計画」を策定しました。計画の考え方は、千数百メートルある壕全体を一度に観光公開するのではなく、坑口・坑道ごとに安全性、文化財価値、調査状況を確認しながら段階的に整備するというものです。

2025年3月時点の整理では、第1坑口は試掘調査によって床面・柱・床板などが出土し、正確な坑口位置が特定されています。一方で天井部は崩落し、支柱・梁などの構造物の多くは失われていると推定されています。第1坑道のスロープ部も物理探査とボーリングで位置や床面とみられる地層が確認されましたが、一般立入りはできません。

公開整備で優先されているのが第5坑口周辺です。2025年度には急斜面にある第5坑口へ安全に到達するためのアクセス路と工事用道路の測量設計が発注され、県は斜面対策、建屋、坑道内部の工事を段階的に進める計画を示しています。公開は「坑口を開ける」だけではなく、斜面崩壊、見学者動線、地下水、文化財の保存を同時に解決する必要があります。

また県は、壕へ入れない人にも歴史を伝えるため、デジタル活用を並行して進めています。2026年度には第1坑口と周辺の掩蔽壕・無線通信所跡を対象とするデジタルジオラマ作成、史実に基づくガイド養成プログラムの作成・検証を事業化しました。現地公開、デジタル再現、ガイドによる解説を組み合わせて、司令部壕を首里城周辺の歴史学習へ組み込む構想です。

2026年、第1坑口を発掘

2026年度、沖縄県立埋蔵文化財センターは第32軍司令部壕の発掘調査を8月から9月に実施しています。

2026年8月30日には第1坑口の発掘現場で一般向け現地説明会が行われました。

壕内部の一般公開ではなく、文化財調査として第1坑口周辺の発掘成果を限定的に公開したものです。

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参考文献・確認先