音羽絵図を徹底解説|護国寺・音羽通り・目白台を古地図で読む

嘉永6年(1853)の「音羽絵図」は、現在の文京区音羽、大塚、目白台、雑司が谷寄りの地域を描いた切絵図です。護国寺へ向かう参詣路を中心に、寺社、武家地、町人地、台地と谷の地形が重なります。現在の音羽通りがなぜ一直線に護国寺へ向かうのか、その理由を江戸の地図から読み解けます。

音羽絵図の基本情報

尾張屋清七が刊行した江戸切絵図の一枚で、国立国会図書館所蔵本は1853年の資料です。現在の文京区音羽・大塚・目白台周辺を中心に、護国寺とその門前、周辺の武家屋敷・寺社を描きます。

尾張屋版江戸切絵図「音羽絵図」
『音羽絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――護国寺へ向かう一本の道を探す

最もわかりやすい目印は護国寺ごこくじです。寺の正面から南西へ延びる道は、現在の音羽通りへつながります。寺院の門前を軸に町が形成されたため、現代の道路にも江戸の参詣路が強く残りました。

周囲には白い武家地、赤い寺社、灰色の町人地が入り混じります。大名小路のような政治中枢でも、日本橋のような商業中心でもなく、大寺院の門前と郊外的な武家地が結びついた地域です。

護国寺――五代将軍綱吉の時代に創建

文京区によると、護国寺は天和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉とくがわつなよしが生母桂昌院けいしょういんの願いにより創建した祈願寺です。のちには将軍家の武運長久を祈る寺となりました。

元禄期の本堂は現在も残り、国の重要文化財です。江戸切絵図の主要寺院を現在の建築まで連続して確認できる点で、護国寺は貴重な場所です。

音羽の町は門前に伸びた

音羽おとわの町は護国寺へ向かう道沿いに発達しました。寺院への参詣者が通る道には商いが生まれ、細長い町人地が街道に沿って形成されます。現在の音羽通り沿いの市街地にも、その線形が残っています。

一方、道の背後には台地が迫り、武家屋敷や寺社が配置されました。現在の音羽から目白台へ上がる坂道の多さは、江戸の土地利用にも影響しています。

目白台と高低差

音羽通りは谷地を通り、その周囲を小日向台や目白台が囲みます。切絵図では等高線はありませんが、坂名、寺社、道の曲がり方を追うと台地の縁が見えてきます。現在も護国寺から目白台方向へ歩くと急な上り坂が続きます。

台地上の広い屋敷地は、明治以降に邸宅、学校、公共施設などへ転用されました。地形が大きく改変されなかったため、現代の街路にも江戸の高低差が明瞭に残っています。

幕府の祈願寺から近代の墓所へ

明治維新後、護国寺は徳川将軍家との関係を離れ、一般の墓所も造成しました。文京区によると、三条実美、山県有朋、大隈重信ら近代日本の政治家の墓があります。

江戸の将軍家祈願寺が、明治以降には近代国家を担った人物の墓所を抱えるようになりました。一つの寺域に江戸政治と明治政治の記憶が重なっています。

現在に残る地図の骨格

護国寺の位置、音羽通り、目白台へ上がる坂、寺社の一部は現在も確認できます。東京メトロ有楽町線護国寺駅を出ると寺の正門が近く、そこから音羽通りを南へ進む道筋は切絵図と比較しやすい区間です。

関連する古地図:小日向絵図では音羽南側の神田上水と小日向台を、駒込絵図では護国寺北東側から駒込・染井方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料