下谷絵図を徹底解説|上野・寛永寺・不忍池を古地図で読む

嘉永4年(1851)の「下谷絵図」は、現在の上野、東上野、下谷周辺を描く切絵図です。上野の高台と低地、寛永寺の巨大寺域、不忍池、旗本・御家人屋敷、町人地が隣り合い、江戸北東部の都市構造を一枚で読むことができます。

下谷絵図の基本情報

尾張屋版の下谷絵図は国立国会図書館で1851年の資料として公開されています。東京都立図書館の同時期の切絵図解説では、現在の台東区上野、東上野、台東、元浅草、小島付近に旗本・御家人屋敷が多かったことが説明されています。

尾張屋版江戸切絵図「下谷絵図」
『下谷絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――上野の高台と下谷の低地を分ける

上野台地の西側には不忍池、南東には下谷の低地が広がります。切絵図では高低差そのものは強調されませんが、池、坂、寺域、道路を手掛かりにすると地形が見えてきます。現在の上野公園から御徒町へ下る高低差は、江戸時代の都市配置を理解する重要な手掛かりです。

寛永寺――江戸城の鬼門を守る大寺院

寛永寺かんえいじは寛永2年(1625)に創建された天台宗の寺院で、徳川将軍家の菩提寺の一つです。江戸城から見て北東の鬼門に位置し、上野の高台に広大な寺域を形成しました。現在の上野公園の大部分は、かつて寛永寺境内でした。

台東区が紹介する幕末の「東叡山之図」には、黒門、清水観音堂、大仏殿、根本中堂などが描かれています。現在の上野公園より寺院都市としての性格がはるかに強く、花見や参詣の名所でもありました。

不忍池と忍川

不忍池しのばずのいけは現在も残るため、古地図と現代地図を重ねる目印になります。池の東側からは忍川が流れ、上野広小路を横切っていました。台東区の発掘調査では、江戸時代の石組水路と三つの橋に関係する遺構が見つかっています。

中央の橋は将軍が寛永寺へ参詣するときに使い、左右に一般用の橋があったとされます。現在は川が暗渠化していますが、地下には江戸の水路施設が残っていました。地上から消えた水路を切絵図と発掘遺構がつないでいます。

下谷の武家地と町人地

下谷には旗本・御家人屋敷が多く、その間に町人地や寺社が入り込みます。上野の大寺院と日本橋・浅草方面の市街地の間に位置し、武家地と町場が混在する地域でした。

現在の御徒町という地名も、江戸時代の徒歩で勤務する幕臣「御徒」と結びつくとされます。周辺に幕臣の組屋敷が多かった歴史は、現代の地名にも残っています。

上野広小路――防火空間と盛り場

江戸の大火後、延焼を防ぐために各地へ広小路が設けられました。上野広小路もその一つで、寛永寺の門前に広い空間が確保されました。人通りの多い場所だったため、商いと見世物の場としても発展します。

現在の上野広小路から御徒町にかけて商業施設が集中する景観には、寺社参詣と人の流れによって生まれた江戸以来の中心性が重なります。

上野戦争で景観が一変する

慶応4年(1868)5月15日、彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で寛永寺の主要堂宇の多くが焼失しました。台東区所蔵資料には、焼失前の寛永寺境内の姿が伝えられています。幕末まで宗教都市だった上野は、戦争を境に大きく姿を変えました。

明治から現在へ――寺域が上野公園になる

1873年、上野は日本最初期の公園の一つとして指定されます。その後、博物館、動物園、美術館、学校などが集まり、寛永寺の広大な寺域は近代的な文化・教育地区へ変わりました。

不忍池、清水観音堂、上野東照宮などは現在にも残り、江戸の宗教空間と近代の公園が重なっています。下谷側は鉄道と商業の発展で高密度な市街地となりました。

関連する古地図:本郷湯島絵図では上野西側の本郷・湯島を、根岸谷中辺絵図では寛永寺北側の寺町と郊外を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料