根岸谷中辺絵図を徹底解説|谷中寺町・根岸・日暮里を古地図で読む

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の千住大橋・小塚原・円通寺周辺の拡大図

安政3年(1856)の尾張屋版「根岸谷中辺絵図」は、題名から想像する谷中・根岸の範囲を大きく越え、千住大橋、小塚原、西新井、田端、日暮里、千駄木、駒込、根津までを一枚に収めています。寺院名や村名に加え、「此辺一面根岸ト云」「此辺日暮里ト云」「此辺寺ノ庭中景至テ見事也」「百姓地植木屋多シ」といった文章的な注記、茶屋・植木屋・御鷹匠屋敷・梅屋敷なども記されます。幕末の江戸北郊を、交通、信仰、行楽、農村、園芸、幕府施設という複数の層から読める切絵図です。

根岸谷中辺絵図の基本情報

国立国会図書館所蔵本は尾張屋清七刊、安政3年(1856)の『〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図』です。国立国会図書館デジタルコレクションのPIDは1286677。CODH「江戸マップ」では尾張屋版28番として地名・寺社・施設・商店などが地点単位で翻刻されています。

尾張屋版江戸切絵図「根岸谷中辺絵図」
『根岸谷中辺絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

全体図では、上野の東叡山から谷中寺町へ続く寺院密集地、その北東に根岸・金杉方面の低地、北側に日暮里・道灌山、さらに田端・尾久・千住方面までが連続して描かれます。西側には千駄木、駒込、根津方面が入り、現在の行政区分では台東区だけでなく荒川区、北区、足立区、文京区にまたがる広域図として読めます。

根岸谷中辺絵図はどこまで描いているのか

CODH「江戸マップ」は、この一枚から238地点を抽出しています。内訳は寺社136、屋敷地36、町村字23、地名24、施設9、商店7、名所1、海川池2です。つまり題名にある根岸・谷中だけを拾った地図ではなく、寺社名を中心に、村名、屋敷主、渡場、茶屋、植木屋、坂、池、御林まで文字で記録した高密度な地域資料です。

北から文字を追うと、千住掃部宿、千住四丁目分、五軒茶屋、関原不動、「西荒井大師薬師道」、本木村、西新井大師堂に続き、「六アミタ木余如来性翁寺足立姫墓有 本木大田三島大明神」という長い注記が現れます。さらに「本木領大田トモ云」、宮城村、沼田村、「六アミタ二番 延命寺」、「トシマハタシミチ」、渡場、千住大橋へ続きます。参詣先だけでなく、巡礼の番付、墓の伝承、別称、道、渡河点まで一枚に書き込まれています。

田端方面では「早川ト云中田畑村」「田畑村早川ト云」「西行庵 普門寺 西国十一番札所」「西国二十九番丹後松尾寺移 東覚寺 九品仏仁王尊二番八幡宮」「興楽寺 六アミタ四番」と、地名・札所・巡礼番号・信仰対象が複合した文字が続きます。新堀村には「此辺足立群三十六ケ村組合新堀村 但シ下日暮ノ里ト云」、さらに「新日暮里ト云新堀村百姓家」「◯下谷中ト云」とあり、現在の地名だけでは見えない幕末の呼称の重なりを記録しています。

この広さが重要です。谷中の寺院群、根岸の名所、日暮里の眺望だけを個別に見ると、それぞれが独立した土地に見えます。全体図では、日光道中へ向かう交通、六阿弥陀などの巡礼、寺町の参詣、郊外の行楽、植木生産地が同じ道路網の中に並びます。江戸の人びとが歩いた「北郊」のまとまりを一枚で追える構成です。

千住大橋・小塚原・円通寺――江戸北東部への出口

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の千住大橋・小塚原・円通寺周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。千住大橋、小塚原町、円通寺など北東部の道筋と町場を確認できる範囲。

北東部では「千住大橋」が大きな交通の節になります。足立区の資料によれば、千住大橋は徳川家康の命で文禄年間に架けられ、のちに千住宿は日光道中最初の宿場として発展しました。根岸谷中辺絵図が刊行された安政3年には、江戸から千住を経て日光・奥州方面へ向かう街道交通の歴史がすでに二世紀以上積み重なっていました。

橋の南には「小塚原町」、その南側には「円通寺」「真養寺」「真正院」「公春院」などが記されます。さらに千住大橋の周辺には千住掃部宿や千住四丁目分があり、宿場、町、寺院、街道をひと続きの空間として示しています。

小塚原には江戸の刑場が置かれ、刑死者や無縁者の埋葬・供養という歴史が重なりました。荒川区の資料では、現在の延命寺に残る首切地蔵も刑死者の菩提を弔うためのものとされています。一方、切絵図で目立つ円通寺は、江戸時代に「下谷の三寺」の一つとされ、百体の観音像を安置したことから「百観音」と呼ばれました。荒川区の解説によれば観音堂は安政2年(1855)の大地震で倒壊しており、この切絵図刊行の前年に大きな被害を受けています。

円通寺の石造七重塔には、小塚原の地名を源義家の「四十八塚」に結びつける縁起が刻まれています。これは地名伝説として伝わった説明であり、刑場の成立史とは分けて読む必要があります。街道交通、寺院、供養、地名伝説が同じ小塚原に積み重なるため、この部分図は江戸北東部の歴史層を読む入口になります。

千住大橋は陸路と水運が接続する地点でもありました。足立区立郷土博物館は、千住宿が橋戸河岸を通じて米穀・野菜・陶器などを扱う流通の町として栄えたことを紹介しています。切絵図の北東端を読むと、谷中・根岸の世界がそのまま千住の宿場・流通圏へ接続していたことが分かります。

西新井大師・関原不動――江戸北郊の参詣圏

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の西新井大師・関原不動・五軒茶屋周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。西新井大師、関原不動、五軒茶屋、本木方面の寺社・道筋・村落を確認できる範囲。

千住のさらに北西側には「西新井大師堂」「関原不動」「五軒茶屋」が並びます。CODHの翻刻には「西新井大師薬師道」もあり、寺院名だけでなく、そこへ向かう道の目的まで明示されています。西新井大師は現在の五智山遍照院總持寺で、厄災消除の祈願寺として長い信仰を集めてきました。

足立区立郷土博物館は、西新井大師を江戸時代の足立を代表する名所の一つとして紹介しています。總持寺の正式名称は五智山遍照院總持寺。寺伝では天長3年(826)、疫病流行の際に空海が当地で祈祷し、観音像と自身の像を祀ったことを草創とします。慶長18年(1613)には西新井大師の僧侶が徳川家康の開いた真言宗の討論会に出席した記録もあり、近世初頭には有力寺院として認識されていました。

「五軒茶屋」という表記は、この切絵図の性格をよく表します。参詣者や旅人にとって、休息や飲食の場所も移動の目印でした。西新井大師堂、関原不動、薬師道、五軒茶屋を同じ部分図で読むと、北郊の道が信仰、行楽、休息を結ぶ経路だったことが具体的に見えてきます。西新井大師へ向かう道そのものが「薬師道」と記される点も、目的地への参詣が道路認識に組み込まれていたことを示します。

六阿弥陀・西行庵・東覚寺――田端方面の信仰ルート

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の六阿弥陀・西行庵・東覚寺・田端方面の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。六阿弥陀札所、西行庵、東覚寺など田端方面の巡礼・信仰空間を確認できる範囲。

田端から荒川沿いの北郊には、六阿弥陀信仰に関わる寺院が分布しました。北区立中央図書館の地域資料は、江戸時代に春秋の彼岸、六か所の阿弥陀仏を巡拝する「六阿弥陀詣」が流行したと説明しています。根岸谷中辺絵図にも「六阿弥陀一番 西福寺」「六阿弥陀二番 延命寺」などが明記され、巡礼圏そのものが地図上に現れます。

部分図では田端方面の東覚寺、西行庵なども位置関係を追えます。東覚寺には現在「赤紙仁王」と呼ばれる一対の石造金剛力士像が伝わります。北区によれば、寛永18年(1641)に僧・宗海が疫病を鎮めるために造立したと伝えられ、患部と同じ場所に赤紙を貼って病気平癒を願い、快癒後に草鞋を奉納する信仰が続いています。仁王像はもと田端八幡神社の参道にあり、明治初年の神仏分離に伴って東覚寺へ移されました。

1856年の切絵図と現在の配置を比較するとき、この「移動」は重要です。寺院名が現在も同じ場所に残っていても、境内の信仰対象まで幕末と同じ位置とは限りません。六阿弥陀の巡礼路、西行庵、東覚寺、田端の寺社を道に沿って追い、さらに明治初年の神仏分離による変化を重ねると、信仰空間が近世から近代へどう組み替えられたかまで考えられます。

新堀村・新日暮里・金杉村新田――町と農村の境界

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の新堀村・新日暮里・金杉村新田周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。新堀村、新日暮里、金杉村新田など日暮里北側の村落・新田景観を確認できる範囲。

日暮里周辺を「眺望の名所」だけで読むと、幕末の土地利用の半分を見落とします。部分図には新堀村、新日暮里、金杉村新田といった村落・新田の表記があり、寺町と市街地の外側に農村的な土地が広がっていたことを具体的に示します。地図上の「新日暮里」という表記も、現在の駅名から連想する日暮里像とは異なる地域区分を考える手掛かりです。

谷中の寺院密集地から少し北東へ目を移すだけで、土地の使われ方が大きく変化します。寺院境内、屋敷、村落、新田が隣り合い、江戸市街が一線で終わって農村へ切り替わるのではなく、異なる土地利用が入り組みながら外縁へ移行していました。根岸谷中辺絵図は、その都市と農村のグラデーションを読む史料でもあります。

根岸――笹乃雪・五行松・御隠殿・梅屋敷・芋坂

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の笹乃雪・五行松・御隠殿・梅屋敷・芋坂周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。笹の雪、不動尊五行松、根岸、御隠殿、梅屋敷、植木屋、芋坂を含む根岸の名所・生活空間。

根岸部分には「此辺一面根岸ト云」という注記があります。地域名を面として説明する書き込みで、地図製作者が読者へ「このあたり一帯が根岸」と案内しています。その周囲には御隠殿、梅屋敷、芋坂、植木屋などが記され、根岸の具体像は「静かな郊外」という一語よりはるかに豊かです。

御隠殿は輪王寺宮の別邸でした。台東区の史跡案内では、敷地は三千数百坪、老松の林と池を備えた庭園で、輪王寺宮が寛永寺本坊での公務の合間に休息する場所として使ったとされます。創建年代は明確ではないものの、宝暦3年(1753)の記録から同年までには存在していたと考えられています。慶応4年(1868)の上野戦争で焼失しました。安政3年の切絵図に御隠殿が描かれるのは、その焼失12年前の姿です。

根岸の豆富料理で知られる笹乃雪は、台東区公式観光情報によれば元禄4年(1691)創業と伝わります。創業地に根岸を選んだ背景には良質な湧き水があり、輪王寺宮との関係を伝える由緒も残ります。御隠殿と笹乃雪を同じ地域史の中で見ると、寛永寺・輪王寺宮を軸とする宗教世界が、別邸だけでなく根岸の食文化にも物語を残していることが分かります。

根岸は鶯でも名高い土地でした。台東区の『初音里鴬之記』碑は、弘化4年(1847)に根岸の梅園で鶯の鳴き声を競う啼合会が開かれたことを伝え、碑自体には嘉永元年(1848)・翌2年の銘があります。つまり安政3年の切絵図が刊行される十年ほど前、根岸では梅園と鶯を組み合わせた風雅な遊びが実際に行われていました。切絵図の梅屋敷という文字は、こうした幕末根岸の花木・鳥・行楽文化と重ねて読むことができます。

根岸の名松では御行の松も江戸名所図会や広重の錦絵に描かれました。台東区によれば初代は高さ13.63メートル、幹周り4.09メートル、樹齢約350年と推定され、輪王寺宮が松の下で行法を修したことを名の由来とする説があります。切絵図に見える五行松を含め、根岸では一本の老松そのものが名所となり得ました。御隠殿、梅屋敷、松、鶯、豆富料理、芋坂という異質な要素が近接することが、幕末根岸の文化的な密度を示します。

谷中寺町――天王寺・感応寺・七面延命院

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の天王寺・感応寺・谷中寺町・七面延命院周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。天王寺、神田感応寺、浄光寺、本行寺、七面延命院など谷中寺町の密集域を確認できる範囲。

谷中では寺院名の密度が一気に上がります。七面延命院、観音寺、瑞輪寺、妙法寺、延寿寺などが近接し、寺院の境内・墓地・門前が連なる寺町の空間を形成していました。明暦3年(1657)の大火後、江戸中心部から寺院が移転したことも谷中の寺町形成を加速させました。

天王寺の寺史は名称の変遷に注意が必要です。台東区文化財資料によれば、現在の天王寺はかつて感応寺と呼ばれ、元禄12年(1699)に日蓮宗から天台宗へ改宗し、天保4年(1833)に天王寺と改称しました。安政3年の切絵図は改称後の時代です。一方、谷中には別系統の感応寺も存在したため、「感応寺」という名を見たときは寺院の同定と年代を確認する必要があります。

旧感応寺(天王寺)は富突でも知られました。台東区に残る富興行関係史料は、江戸市民の人気を集めた富突の実態を伝えます。寺町は墓地と僧侶だけの空間ではなく、参詣、縁日、富興行、門前商業など多くの人が出入りする場所でした。切絵図の寺院密度は、その宗教都市としての規模を視覚的に示しています。

道灌山と日暮里――地図が「景至テ見事」と記した行楽地

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の道灌山・日暮里・寺庭景観・笠森稲荷周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。道灌山、『此辺日暮里ト云』、『此辺寺ノ庭中景至テ見事也』、笠森稲荷を含む日暮里・谷中北部の名所域。

日暮里部分には「此辺日暮里ト云」と地域名を説明する注記があります。さらに道灌山の近く、寺院が並ぶ一角に「此辺寺ノ庭中景至テ見事也」と書き込まれています。「このあたりの寺の庭の景色はたいへん見事だ」という、地図製作者による景観評価です。地名索引だけなら不要な文章を、尾張屋版切絵図はあえて地図の中に載せています。

この一文によって、日暮里が眺望・行楽地だったという後世の説明を、切絵図そのものの表現から確認できます。荒川区立図書館の地域案内では、道灌山は見晴らしがよく、秋田藩主の抱屋敷と見晴台があり、その見晴台は庶民にも開放されていたと紹介されています。三河島・尾久の田園、筑波山、日光連山、下総国府台まで望めたとされ、茶屋も置かれていました。

道灌山は眺望に加えて「虫聞き」の名所でもありました。江戸時代には薬草が豊富に採れ、秋には虫の声を楽しむ人々が集まったと荒川区立図書館は伝えます。視覚だけでなく、虫の音や季節の草木まで含めて郊外の自然を味わう場所だったことになります。寺院の庭を「景至テ見事」と評した切絵図の注記と合わせると、日暮里一帯が複数の景観体験を持つ行楽圏として理解できます。

笠森稲荷などの寺社をたどると、信仰の場と景勝地が同じ散策経路に重なります。地図を持つ人は道順だけでなく、「どこが見事か」「どこで休めるか」「何を拝むか」という情報まで受け取れました。尾張屋版切絵図の観光案内的な性格が、最も鮮明に表れる部分です。

238地点を通覧すると、この区画で追加して読む価値が高いのが「大円寺 笠森稲荷」と「御切手同心」です。台東区によれば、江戸時代の谷中には大円寺と福泉院の二つの笠森稲荷がありました。福泉院前の水茶屋「鍵屋」には評判の美人・笠森お仙がいたことで知られます。切絵図が「大円寺 笠森稲荷」と寺名と稲荷を一体で記すため、二つあった笠森稲荷のうち地図上の対象を区別できます。

さらに大円寺の北側には「御切手同心」が二か所記されています。後の谷中初音町四丁目にあたる地域は、かつて切手町とも呼ばれ、延宝年間以来、御切手同心の大縄地があったことに由来するとされます。寺院名が圧倒的に多い谷中で、幕府役人の集住地を示す文字が残る点は重要です。谷中寺町は寺院だけで構成された空間ではなく、幕府の役人地や町地を内部に抱えていました。

千駄木梅屋敷・団子坂――花と坂の行楽地

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の千駄木梅屋敷・団子坂・海蔵寺周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。千駄木梅屋敷、団子坂、海蔵寺など千駄木周辺の名所・寺社・坂道を確認できる範囲。

千駄木側では「千駄木梅屋敷」「団子坂」が明記されます。周囲の文字を細かく拾うと、善光寺前町、松平伊豆守、小笠原左京大夫抱屋敷、辻番、世尊院、専念寺、総禅寺、太田摂津守などが並び、寺町と武家屋敷地の間に梅屋敷と坂が位置していたことが分かります。

とりわけ海蔵寺の文字は情報量が多く、「日本一社疱瘡守湯尾大明神根元尾孫嫡子 海蔵寺」と記されます。単なる「海蔵寺」という寺名ではなく、疱瘡除けの信仰対象と由緒を同じ文字列の中に盛り込んでいます。切絵図が、著名な信仰対象については名称だけでなく効験や系譜まで読者に伝えようとしていた例として注目できます。

団子坂の園芸史は、1856年の切絵図と明治期の菊人形を時間軸でつなぐと面白さが増します。文京ふるさと歴史館によれば、菊を動物や景物の形に仕立てる菊細工は江戸後期に巣鴨・駒込周辺で流行し、幕末から明治初期に団子坂の植木屋が歌舞伎などの場面を菊人形に仕立てるようになりました。つまり切絵図刊行時の周辺には、後の菊人形興行を生み出す園芸文化の土壌がすでに存在していました。

明治9年(1876)からは木戸銭を取る興行となり、明治20~30年代には植惣・植梅・植重・種半などを含む多数の園が団子坂周辺に並びました。題材には歌舞伎だけでなく、その年の事件や戦争も選ばれ、菊人形は秋の娯楽と視覚的なニュース媒体を兼ねるほどの人気を得ました。明治44年(1911)を最後に団子坂での興行は終わります。

ただし、安政3年の地図から直接読めるのは「団子坂」「千駄木梅屋敷」、海蔵寺など周辺寺院・屋敷の配置です。切絵図に明治の菊人形興行を遡って書き込むことはできません。1856年の梅屋敷と園芸地帯、幕末以降の菊細工、明治の菊人形という順序で見ると、千駄木・駒込の園芸文化が巨大な都市娯楽へ成長した流れを追えます。

動坂・植木屋・御鷹匠屋敷――駒込・千駄木の土地利用

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の動坂・植木屋・御鷹匠屋敷・吉祥寺・光源寺大観音周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。動坂、植木屋の集中、御鷹匠屋敷、吉祥寺、光源寺大観音を含む千駄木・駒込側の一帯。

駒込・千駄木方面には「動坂ト云」「御鷹匠屋敷」「御鷹匠部屋」「吉祥寺」「光源寺大観音」が並びます。とりわけ目を引くのが「百姓地植木屋多シ」「植木屋多シ」という注記です。個々の植木屋を点で示すだけでなく、この一帯に植木屋が多いという土地利用の特徴を文章で説明しています。

江戸近郊の園芸文化を考えるうえで、「百姓地植木屋多シ」は強い史料情報です。切絵図の読者は、ここが農地であることに加え、植木生産・販売に関わる人々が集まる地域だと理解できました。団子坂の菊人形へつながる園芸文化も、こうした駒込・千駄木の植木屋の集積を背景に考えると位置づけやすくなります。

同じ部分図にある吉祥寺は、文京区によれば明暦3年(1657)の大火で水道橋付近から現在地へ移転し、曹洞宗の学問所「旃檀林」が置かれて多くの学僧が学んだ寺院です。切絵図上では植木屋の多い百姓地、御鷹匠屋敷、巨大な観音で知られた光源寺、学問寺としての吉祥寺が近接します。農業・園芸、幕府施設、寺院教育、参詣名所が一枚の部分図に同居する密度の高い地域です。

「御鷹匠屋敷」「御鷹匠部屋」という表記は、幕府の鷹に関わる人員・施設が郊外空間に置かれていたことを示す重要な手掛かりです。文京区の動坂遺跡では、縄文時代の遺構の上から江戸時代の遺構が発見され、その場所が8代将軍徳川吉宗の時代に復活した鷹匠の屋敷跡だったことが確認されています。地誌・絵図だけで知られていた鷹匠屋敷が、発掘調査によって考古学的にも裏付けられた例です。

駒込には「一富士二鷹三茄子」という土地の記憶もあります。文京区は、富士神社、鷹匠屋敷、この一帯で生産された駒込茄子を詠み込んだものとして紹介しています。切絵図の「百姓地植木屋多シ」と御鷹匠屋敷を同じ画面で見ると、富士信仰、幕府の鷹、野菜・植木の生産が近接した駒込の地域像が具体化します。

238地点を全体比較すると、この区画では「御鷹匠屋敷」だけでなく「御鷹匠部屋」まで別に登録されている点も拾う価値があります。さらに「イタダキ横丁」「内海屋敷」「動坂ト云」が並び、制度的な施設名、俗称的な横丁名、屋敷名、坂名が同じ地域の位置情報として併存しています。特に「百姓地植木屋多シ」と「植木屋多シ」が別地点に記されるため、植木屋が一点の店ではなく、この一帯の土地利用を特徴づけるほど広がっていたことを地図自身が強調しています。

光源寺は天正17年(1589)に神田で創建され、慶安元年(1648)に現在地へ移転しました。文京区によれば、境内には元禄10年(1697)造立の高さ約5メートルの十一面観音像がありました。切絵図の「光源寺大観音」は、現在地に移転した後、幕末の人びとが認識した大観音を具体的に記録したものです。旧像は東京大空襲で焼失し、現在の像は平成5年に再建されています。

元根津・上野御林・駒込御林跡地――寺町の外側にあった管理地

尾張屋版『根岸谷中辺絵図』の元根津・上野御林・駒込御林跡地周辺の拡大図
国立国会図書館デジタルコレクション『根岸谷中辺絵図』より。元根津、上野御林、駒込御林跡地など寺町南西側の土地利用を確認できる範囲。

南西側には「元根津ト云」の表記があります。その周囲を文字単位で見ると、板倉摂津守、辻番、大山茂十郎支配取に続き、「御宮上野御林寒松院」「上野御林東漸院持」「満足稲荷」「駒込御林跡地」「四ケン寺丁」「石不動 杉山」などが記されています。単に「御林」と一括できる空間ではなく、寺院との管理関係、すでに「跡地」と認識された場所、稲荷・不動などの信仰施設、町地が細かく入り組んでいました。

ここで特に重要なのは「駒込御林跡地」という語です。安政3年の時点で、地図製作者は現在の用途だけでなく「かつて御林だった」という過去の土地利用まで地名情報として残しています。「御宮上野御林寒松院」「上野御林東漸院持」のような管理主体を伴う表記と並べると、切絵図の文字が土地の現況だけでなく、管理権や土地利用の履歴まで伝えることが分かります。

元根津、上野御林、駒込御林跡地を一緒に見ると、谷中・根津・駒込の境界部が寺院だけで構成されていたわけではないことが分かります。林地、屋敷、百姓地、植木屋、寺院が隣接し、用途の異なる土地が細かく組み合わされていました。切絵図はその複雑な土地利用を色分けと文字情報で圧縮して伝えています。

切絵図に書き込まれた「景観評価」と「土地利用」

根岸谷中辺絵図の面白さは、固有名詞の多さだけではありません。「此辺一面根岸ト云」「此辺日暮里ト云」は地域の広がりを説明し、「此辺寺ノ庭中景至テ見事也」は景観を評価し、「百姓地植木屋多シ」は土地利用と生業を説明します。いずれも地図製作者が読者の理解を助けるために加えた文章です。

さらに「五軒茶屋」「梅屋敷」「千駄木梅屋敷」「光源寺大観音」「御鷹匠屋敷」のような表記を合わせると、地図から得られる情報は道と住所を超えます。休憩場所、花の名所、巨大な信仰対象、幕府に関係する施設、園芸地帯まで把握できます。尾張屋版切絵図は、移動のための地図であると同時に、江戸を歩く人へ土地の特徴を教える案内媒体でした。

寛永寺と谷中寺町――宗教都市の北側

谷中寺町の形成は上野寛永寺の存在と深く結びついています。寛永寺周辺の宗教空間、その北に続く谷中の寺院群、さらに根岸の御隠殿までを見ると、上野山内だけで完結しない広い宗教・生活圏が浮かびます。御隠殿と寛永寺を結ぶ移動も、輪王寺宮の日常の一部でした。

谷中では明暦3年(1657)の大火後の寺院移転も寺町形成に影響しました。現在の観音寺築地塀など、江戸末期の寺町景観を伝える要素も残っています。古地図上の寺院配置と現地の道筋・墓地・境内を重ねると、近世の空間構成を現在の街歩きで確かめられる場所が多くあります。

幕末から明治以降へ――鉄道と市街化が景観を変える

安政3年の切絵図が描くのは鉄道開通前の北郊です。明治になると鉄道が敷かれ、上野・日暮里は交通の拠点へ変化しました。寺院や墓地の多くは残る一方、農地や新田は市街化し、切絵図に見える都市外縁の景観は大きく変わります。

根岸では明治以降、正岡子規ら近代文学者の活動が新しい文化史を重ねました。子規庵は明治27年(1894)から子規が没する明治35年(1902)まで暮らした場所として知られます。これは1856年の切絵図より後の歴史です。江戸の御隠殿・梅屋敷・笹乃雪と、明治の子規庵を時間軸で分けると、根岸が名所・別邸の地から近代文学の舞台へ歴史を重ねた過程を追えます。

現在に残る地形・寺社・道筋

現在の街で古地図と対応しやすいのは、谷中の寺院群と墓地、観音寺築地塀、天王寺、日暮里から谷中へ上がる台地縁辺、団子坂・動坂などの坂道、根岸の御隠殿跡周辺です。寺院の境内や墓地は大規模な土地の改変を受けにくく、近世の街区を考える基準点になります。

一方、鉄道敷設や道路整備、市街化で地表の景観が変わった場所も多くあります。古地図散歩では、建物が現存するかだけでなく、坂の高低差、寺院境界、道の曲がり、台地と低地の位置関係を見ると、1856年の空間を現在の街に重ねやすくなります。

現在の日暮里から北へ延びる地域の歴史と都市開発は、日暮里・舎人ライナー完全ガイド|全13駅の歴史・開発・観光を途中下車でたどるでも紹介しています。

関連する古地図

下谷絵図では寛永寺・上野方面を、今戸箕輪浅草絵図では浅草北部・三ノ輪方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から、隣接地域を含む全図へ移動できます。

参考資料