『もののけ姫』の病者たちは誰か|ハンセン病の歴史と中世の病者

東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館の外観 戦争・記憶・人権
国立ハンセン病資料館。撮影:Waka77/Wikimedia Commons/CC0 1.0

タタラ場の奥では、全身に包帯を巻いた男たちが火縄銃を作っています。エボシ御前は工房を訪れ、彼らの仕事ぶりを見ながら病状を気遣います。

宮崎駿みやざき・はやお監督は2016年の講演で、多磨全生園たま・ぜんしょうえんに通った経験が『もののけ姫』の病者たちの描写につながったと語りました。映画の中では病名が明かされず、彼らは「病者」と呼ばれています。

タタラ場は、中世日本をそのまま再現した場所ではなく、当時のさまざまな要素を組み合わせた架空の共同体です。病者たちは鉄砲作りの技術者として働き、エボシ御前に意見を言い、仲間と冗談を交わします。彼らがどのような歴史を背負って描かれたのかを知るには、中世の病者の暮らし、近代日本の隔離政策、療養所で営まれた生活を順にたどることが大切です。

タタラ場の病者たちは誰か

タタラ場の病者たちは、顔や手足を包帯で覆い、奥の工房で鉄砲を作っています。映画の台詞に病名は出てきませんが、後年の宮崎駿みやざき・はやお監督の発言から、ハンセン病を念頭に描かれた人びとだと分かります。

宮崎監督は『もののけ姫』の構想を練るなかで、近隣の多磨全生園たま・ぜんしょうえんへ何度も足を運びました。資料室に残された生活道具や園内用の貨幣を見て、隔離された場所にも一人ひとりの暮らしがあったことを強く意識したと語っています。

同じ講演では、一遍上人絵伝いっぺんしょうにんえでんに描かれた多様な民衆や、ハンセン病患者と思われる人びとにも触れています。武士を中心にした時代劇ではなく、職人や女性、病者など、歴史の表舞台に登場しにくかった人びとを描こうとしたことが、タタラ場の構想につながりました。[1]

宮崎監督は、アシタカの腕に現れる痣を、自分では抑えられず身体を蝕んでいく運命として設定しました。そのような主人公を描く以上、ハンセン病の問題を避けることはできないと考えたそうです。病者たちは、身体に苦痛を抱えながらも働き、自分で判断し、仲間と生きる人物として描かれています。

ハンセン病とはどんな病気か

ハンセン病は、らい菌によって起こる慢性の感染症です。主に皮膚と末梢神経まっしょうしんけいが侵され、皮膚に斑点が現れたり、痛みや熱さを感じにくくなったりします。治療薬がなかった時代には、感覚を失った手足の傷が悪化し、変形や視力障害などの後遺症が残ることもありました。[2]

らい菌の感染力は弱く、現在の日本で感染し、発病する例はほとんどありません。複数の薬を組み合わせる多剤併用療法たざいへいようりょうほうが確立されており、早い段階で治療を始めれば、後遺症を残さずに治ります。厚生労働省の診療指針でも、通常の外来診療で対応でき、隔離や器具の特別な消毒は必要ないとされています。[2]

しかし、病気への恐怖と偏見は医学の進歩だけでは消えませんでした。身体の変化が外から分かりやすかったことに加え、家族に患者がいると「血筋の病気」だと誤解されたこと、国が感染の危険を過度に強調したことが重なったためです。患者本人だけでなく、家族まで差別や排除の対象になりました。

近代公衆衛生が治療と予防の仕組みを整えてきた歴史は、ワクチンの歴史|天然痘からmRNAまで、人類は感染症とどう戦ってきたかでも紹介しています。

中世の「癩」と病者の暮らし

中世の史料に出てくる「らい」は、当時の病名であると同時に、病者を社会の中で分ける言葉でもありました。現代の検査や診断基準が生まれる前の言葉なので、そのまま現在のハンセン病と同じ意味にはできません。史料に登場する病者については、記された症状や暮らし、周囲との関係を手がかりに考えます。

古代から近世にかけて、人びとは病気を、感染するもの、仏罰によるもの、けがれによるもの、家筋や血筋によるものなど、さまざまに捉えていました。家を離れて被差別者の集落へ移った人もいれば、寺社を巡って物乞いをした人、治癒を願って各地を歩いた人もいました。一方で、家族や地域とのつながりを保ちながら暮らした人や、病者を排除せずに支えた人もいました。[3]

12世紀の絵巻「病草紙やまいのそうし」には、さまざまな病気や身体の状態が描かれています。病者の苦しみだけでなく、周囲から嘲笑される様子や、治療を受ける場面もあり、当時の病者がどのように見られ、どのように暮らしていたのかを伝える貴重な史料です。[12]

鎌倉時代の僧忍性にんしょうが、ハンセン病患者を背負って町へ通ったという逸話は、『元亨釈書げんこうしゃくしょ』などに残されています。奈良には、忍性が病者を救うために設けたと伝わる北山十八間戸きたやまじゅうはっけんこがあります。現在の建物は江戸時代に再建されたものですが、中世の救済施設の歴史を伝える史跡として国の指定を受けています。[4][5]

寺院などによる救済は、病者に食事や住まいを与えました。その一方で、病者を社会の周縁に集める形になることもありました。中世の排除は宗教観や身分秩序、地域の慣行から生まれましたが、近代の隔離は法律、警察、行政、療養所を使った国家政策として進められました。この違いによって、病者の暮らしは大きく変わっていきます。

近代日本はなぜ隔離を続けたのか

1907年、「癩予防ニ関スル件」が成立しました。当初、収容の対象とされたのは、住まいや療養の手段を失い、屋外で暮らしていた患者です。患者を救護するという目的に加え、路上に病者がいる光景を「文明国」にふさわしくないと考える国の姿勢が、政策を後押ししました。[6]

1931年の法改正によって、本人の意思にかかわらず、すべての患者を隔離できる制度へと変わりました。各県から患者を見つけ出して療養所へ送る無癩県運動むらいけんうんどうが広がり、密告や警察による連行、家屋の大がかりな消毒が行われました。患者が出たことを周囲に知られた家族が、失業や離婚、一家離散に追い込まれる例もありました。[6]

療養所では、道路工事や農作業、看護、炊事、清掃など、多くの仕事を入所者が担いました。医療や生活物資が不足するなかで、監禁室への収容、断種手術、中絶などの人権侵害も起きています。隔離制度は患者を社会から遠ざけ、家族関係、結婚、出産、教育、仕事、さらには死後の遺骨まで左右しました。[6]

戦後、日本でも治療薬のプロミンが使われるようになり、ハンセン病は治る病気になりました。入所者は隔離の廃止を求めましたが、1953年に「らい予防法」が成立し、隔離政策は続きました。法律が廃止されたのは1996年です。2001年には熊本地方裁判所が国の政策による人権侵害を認め、国が控訴を断念したことで判決が確定しました。2008年にはハンセン病問題基本法が成立しています。[6]

出来事社会への影響
1907年「癩予防ニ関スル件」成立放浪患者を中心に公立療養所へ収容
1931年法改正全患者を対象とする強制隔離へ拡大
戦後プロミンが普及治療可能になっても隔離制度が継続
1953年「らい予防法」成立退所規定を欠く隔離が続く
1996年「らい予防法」廃止約90年続いた隔離政策が終了
2001年熊本地裁判決確定国の人権侵害を司法が認定
2008年ハンセン病問題基本法成立福祉、名誉回復、差別解消を法制化

ハンセン病療養所は医療と行政の制度にもとづいて設けられた施設で、強制収容所とは目的も歴史的背景も異なります。各国の隔離、収容、強制労働の制度については、強制収容所はナチスだけのものだったのか|世界史で見る隔離・収容・強制労働で比較しています。

多磨全生園で続いた生活

多磨全生園たま・ぜんしょうえんは1909年、連合府県立の全生病院ぜんせいびょういんとして現在の場所に開設されました。1941年に国へ移管され、国立療養所多磨全生園と改称されました。開設当初、患者が暮らす区域は、堀や土塁、板塀、垣根で囲まれていました。[7]

東京都東村山市の多磨全生園に並ぶ居住棟
多磨全生園の居住棟、2009年8月1日。撮影:Bryan MacKinnon/Wikimedia Commons/Public Domain

療養所の日常は、入所者の労働によって成り立っていました。入所者は道路を造り、畑を耕し、洗濯や看護を担い、病状の重い人を互いに介助しました。こうした「患者作業」は、自由に職業を選べる一般の雇用とは異なり、低い賃金や強制を伴うものでした。入所者同士の助け合いと、療養所側が必要な労働を入所者に担わせる仕組みが重なっていたのです。[8]

園内には住居や学校、礼拝施設が設けられ、自治会や文化活動も生まれました。隔離が長引くにつれて、外の社会から切り離された園内に、一つの生活圏が形づくられていきます。入所者は厳しい環境のなかで自治組織をつくり、処遇の改善や隔離の廃止を求めて活動を続けました。

園内だけで使われた通用券も、その生活を伝える資料の一つです。宮崎監督は全生園の資料室で、生活雑器とともに園内用の貨幣を見て強い衝撃を受けたと語っています。タタラ場の奥で仕事をしながら暮らす病者たちの姿には、隔離された場所で実際に営まれていた生活の記憶も重なっています。[1]

多磨全生園で使われた園内通用券
多磨全生園で使われた園内通用券(東村山ふるさと歴史館展示)。撮影:Asanagi/Wikimedia Commons/CC0 1.0

鉄砲を作る病者が描かれた意味

タタラ場の病者たちは、新しい石火矢いしびやの設計と製作を任されています。彼らは助けられるだけの存在ではなく、共同体の軍事力を支える技術者です。映画は病気の説明をする前に、彼らが知識や技術を持ち、冗談を言い、自分の考えを語る姿を見せています。

ただし、病者たちが鉄砲を作るという設定は、作品独自のものです。宮崎監督が講演で語ったのは、病者を描こうとした理由と、多磨全生園で見聞きしたことでした。映画の中で鉄砲作りを担わせたことで、病者たちは技術を生かし、共同体を守り、エボシ御前にも意見を言える立場を得ています。

仕事は彼らに居場所と発言力を与えています。しかし、その暮らしはエボシ御前の統治や武器の生産、周辺勢力との戦いによって支えられています。自分の技術で生きる強さと、権力に頼らなければ暮らせない危うさが、同じ工房の中にあります。

エボシ御前に重なる救済と支配

エボシ御前は、病者を救う人であると同時に、タタラ場を経営し、軍事を指揮し、自然を開発する支配者でもあります。病者の包帯を替え、仕事を与え、対等に言葉を交わします。売られてきた女性たちを引き取り、鉄の生産やタタラ場の防衛を任せています。

その一方で、エボシ御前は鉄を得るために山を切り開き、石火矢を増産し、敵対する集団や山の神と戦います。病者や女性を受け入れるタタラ場の暮らしは、資源の採取と武力によって支えられているのです。

病者たちがエボシ御前に感謝する姿からは、彼らが外の社会で受けてきた排除の厳しさが伝わります。同時に、生活のすべてが一人の統治者に左右される危うさも描かれています。宮崎監督も講演で、製鉄による自然の改変を含め、『もののけ姫』を単純な善悪では割り切れない物語として語っています。[1]

多磨全生園と国立ハンセン病資料館を訪ねる

多磨全生園たま・ぜんしょうえんと国立ハンセン病資料館は、東京都東村山市にあります。資料館の常設展示では、古代から近世の病者の歴史、近代の隔離政策、療養所での生活や患者作業、自治活動、裁判、尊厳回復までを順にたどることができます。[3]

東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館の外観
国立ハンセン病資料館。撮影:Waka77/Wikimedia Commons/CC0 1.0

2026年7月時点の開館時間は午前9時30分から午後4時30分までで、入館料は無料です。2026年12月1日から2027年3月31日までは、常設展示のリニューアル工事に伴う休館が予定されています。休館中も、多磨全生園の見学は続けられる予定です。開館日や見学条件の最新情報は、公式サイトに掲載されています。[9][10]

園内には、かつて隔離を支えた施設の跡と、入所者が築いた住まい、自治、文化、運動の記憶が残されています。宮崎監督が歩いた園内を訪れ、資料館の展示を見ることで、タタラ場の病者たちを作品の中だけでなく、現実の歴史と結びつけて考えることができます。

まとめ

『もののけ姫』の病者たちは、ハンセン病を念頭に描かれています。映画は病名を説明するよりも先に、彼らを働き、語り、技術を持つタタラ場の住民として登場させました。

中世には、仏罰、けがれ、感染、血筋など、病気に対するさまざまな考えが重なり、排除と救済の両方が行われました。近代日本では、それが法律による隔離政策へと変わり、治療薬が登場した後も1996年まで続きました。療養所では深刻な人権侵害が起きる一方、入所者自身が仕事や自治、文化活動を支え、隔離の廃止を求める運動を続けました。

タタラ場の鉄砲工房には、社会から追われた人が技術と居場所を得る希望があります。その一方で、彼らの生活がエボシ御前の権力に支えられている危うさもあります。エボシ御前による救済と山の破壊を同じ物語に描くことで、『もののけ姫』は病者たちを単なる救済の対象ではなく、矛盾を抱えた共同体をともに生きる人びととして描きました。

参考文献

  1. THINK NOW ハンセン病キャンペーン2016「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議 特別講演『全生園で出会ったこと』」
  2. 厚生労働省「ハンセン病トップ」
  3. 国立ハンセン病資料館「展示見学」
  4. 奈良国立博物館「忍性―救済に捧げた生涯―」
  5. 文化庁「国指定文化財等データベース 北山十八間戸」
  6. 国立ハンセン病資料館「ハンセン病問題について」
  7. 国立ハンセン病資料館「多磨全生園マップ」
  8. 国立ハンセン病資料館「『望郷の丘』―盲人会が遺した多磨全生園の歴史―」
  9. 国立ハンセン病資料館「ご来館のみなさまへ」
  10. 国立ハンセン病資料館「当館の常設展示リニューアルに伴う休館について」
  11. 金井清光『中世の癩者と差別』岩田書院、2003年
  12. e国宝「病草紙断簡」