戦争で東京大学はどう変わった?|矢内原忠雄・平賀譲・内田祥三・南原繁

海軍正装を着用した東京帝国大学総長・平賀譲

1937年、東京帝国大学を辞職した矢内原忠雄やないはら ただおは、14年後の1951年、東京大学総長に就任しました。その間、大学では平賀譲の総長就任と「平賀粛学」、第二工学部の設置、学徒出陣、敗戦、本郷キャンパスの接収回避、戦後の教育改革、新制東京大学の発足が続きます。

戦時下の東京大学では、教授人事、工学教育、学生動員、大学自治、キャンパスの維持をめぐって異なる判断が積み重なりました。1937年から1951年までを、矢内原、平賀譲、内田祥三、南原繁、そして再び矢内原という流れでたどります。

1937年から1951年までの流れ

東京大学で起きたこと
1937年矢内原忠雄が東京帝国大学を辞職
1938年平賀譲が第13代総長に就任
1939年平賀粛学で経済学部が大きく揺れる
1942年千葉に第二工学部が発足
1943年内田祥三が第14代総長に就任。学徒出陣が始まる
1945年敗戦。本郷キャンパスの接収を回避。南原繁が第15代総長に就任
1947年東京帝国大学から東京大学へ改称
1949年新制東京大学が発足。教養学部・教育学部を新設
1951年矢内原忠雄が第16代総長に就任

1937年、矢内原忠雄が東京帝国大学を去る

矢内原忠雄は何を研究していたのか

矢内原忠雄は、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当した研究者です。新渡戸稲造の後任として助教授となり、朝鮮、台湾、南洋群島などを調査し、1926年には『植民及植民政策』を刊行しました。植民地を国家の拡張政策だけで見るのではなく、現地社会や住民の生活を含めて検討したことが、後の日本の植民政策への批判につながります。

「国家の理想」と軍国主義批判

1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が拡大します。同年9月、矢内原は雑誌『中央公論』に論文「国家の理想」を発表しました。国家の目的を国民の人格的発展に置き、侵略や軍国主義を批判する内容で、掲載誌では削除処分を受けました。

東京大学の資料によれば、9月の「国家の理想」は当局の忌諱に触れて全文削除となり、その後も矢内原は軍国主義化する日本を批判しました。問題は経済学部内部の対立とも結びつき、11月の教授会では土方成美から矢内原をめぐる提案が出され、それに対する反論も交わされました。さらに新聞などによる東京帝国大学への攻撃が強まります。

なぜ辞職に追い込まれたのか

『東京大学百年史』は、経済学部内の対立、11月の教授会、学外の新聞論調、矢内原自身の演説、長与又郎総長の対応を経て辞職に至る流れを記しています。行政処分で一挙に大学から排除されたのではなく、論文削除と学内外の圧力が連鎖するなかで、矢内原は教授職を辞しました。東京大学教養学部の資料も、軍国主義化する日本への批判を続けた末に教授職を辞することを余儀なくされたと説明しています。

辞職後も矢内原は執筆や聖書研究を続けました。戦後、東京大学へ復帰するまで、教授職には戻りませんでした。

軍艦設計者・平賀譲が東大総長になる

海軍正装を着用した東京帝国大学総長・平賀譲
平賀譲(1878~1943)。東京大学柏図書館所蔵/Wikimedia Commons/CC BY 4.0。

海軍造船技術者から工学部長へ

平賀譲ひらが ゆずるは東京帝国大学造船学科を卒業後に海軍へ入り、イギリス留学を経て艦艇設計に長く携わりました。横須賀海軍工廠では戦艦山城や巡洋戦艦比叡などの新造にも関わり、のちに海軍造船中将まで進みます。東京帝国大学では工学部教授として後進を育て、1935年から1938年まで工学部長を務めました。

平賀には、海軍技術者、工学教育者、大学経営者という三つの顔がありました。1938年の総長就任後は経済学部の人事問題を処理する一方、戦時に急増した技術者需要へ対応する第二工学部の創設も推進します。軍艦設計の経験と大学での工学教育が、戦時期の大学運営のなかで接続しました。

一方、1941年10月には大学・専門学校などの修学年限が臨時に短縮されました。東京大学の公式資料では、政府が卒業の繰り上げを進めた際、平賀は大学教育の意義を損なうとして文部大臣に要請書を送ったことが紹介されています。戦時の工学教育拡大を進めながら、教育期間の短縮には異議を示したことになります。

大和型戦艦の設計も、多数の技術者による組織的な仕事でした。平賀を「戦艦大和の設計者」と一人に集約すると、海軍技術組織の実態を取り違えます。平賀の経歴を見るうえでは、個々の艦名よりも、海軍造船と大学工学教育の双方に長く関わった点が重要です。

1938年、総長就任

1938年、長与又郎総長の後任選びは難航しました。『東京大学百年史』によれば、最初に推薦された山田三良は文部省に受け入れられず、推薦をやり直した末に平賀が選ばれます。平賀は同年12月20日に第13代総長へ就任しました。

総長就任時、経済学部では自由主義者の河合栄治郎を中心とする側と、土方成美を中心とする側の対立が深刻化していました。平賀は就任直後から、この問題の処理を迫られます。

平賀粛学で経済学部はどうなったのか

河合栄治郎は自由主義の立場から国家主義を批判し、1938年には著書4冊が発禁処分となりました。一方、土方成美は経済学部内で河合と対立していました。平賀は学内の審査を進めたうえで、1939年1月、文部大臣に河合と土方の休職を求めます。河合は著書問題、土方は学部内紛の責任が理由とされました。

この処分を受け、河合派・土方派の双方から多くの教員が辞表を提出し、経済学部は大きく揺れました。一方、大内兵衛らは前年の第二次人民戦線事件で検挙され、起訴後に休職となった教員で、河合・土方の休職とは経緯が異なります。『東京大学百年史』でも、この二つは「教授グループ事件」と「平賀粛学」として分けて整理されています。

人物何が問題になったか平賀粛学との関係
河合栄治郎自由主義の立場から国家主義を批判。著書4冊が発禁1939年1月、平賀総長が文部大臣に休職を具状
土方成美経済学部内で河合派と対立し、学部内紛の責任を問われた河合と同時に休職を具状され、両派の辞職につながった
大内兵衛ら第二次人民戦線事件で検挙され、起訴後に休職同時期の経済学部問題だが、河合・土方の処分とは別経路

平賀粛学は、経済学部内部の対立、文部省の圧力、総長が持つ人事上の権限が重なった大学自治の危機でした。思想統制だけで説明すると、学部内対立と総長権限の問題が抜け落ちます。

第二工学部――戦時下で拡大した工学教育

なぜ第二工学部が必要とされたのか

日中戦争から太平洋戦争へ進むなか、重化学工業、航空、機械、電気などの分野で技術者需要が急増しました。東京帝国大学でも、既存の工学部だけでは工学教育の拡大に対応しにくくなります。平賀は工学教育の増強を進め、千葉県千葉市に第二工学部を設置する計画を推進しました。

1942年、千葉に開学

1942年3月24日、東京帝国大学官制の改正で第二工学部の設置が定められ、同年4月に発足しました。12月5日には開学式が行われています。本郷の工学部は第一工学部となり、第二工学部は千葉で教育研究を開始しました。

第二工学部は、土木工学、機械工学、船舶工学、航空機体学、航空原動機学、造兵学、電気工学、建築学、応用化学、冶金学の10学科で発足しました。航空・造兵から土木・建築・化学・冶金までを含む学科構成は、戦時に急増した技術者需要へ工学全体で対応する体制でした。

航空機体学科には、中島飛行機で戦闘機設計に携わった糸川英夫が1942年の第二工学部発足とともに着任し、教育研究に従事しました。敗戦後に航空研究が禁止されると、糸川は研究対象を音響学などへ移します。第二工学部の歩みには、戦時に拡張された技術研究が敗戦後に別の研究分野へ組み替えられていく過程も表れています。

戦後は生産技術研究所へ

敗戦後、第二工学部は新制大学への移行のなかで役割を終えます。1949年、第二工学部を母体として生産技術研究所が設置され、第二工学部は在学生の卒業を待って1951年に閉学しました。戦時に拡大された工学教育の施設と人材の一部は、戦後の生産技術研究へ引き継がれました。

内田祥三と学徒出陣――戦争末期の東京帝国大学

1943年、平賀の死去と内田祥三の総長就任

平賀は総長在任中の1943年2月17日に死去しました。翌3月12日、建築家で工学部教授の内田祥三うちだ よしかずが第14代総長に就任します。内田は関東大震災後の本郷キャンパス復興計画を担い、正門から安田講堂へ伸びる銀杏並木を軸に、現在「内田ゴシック」と呼ばれる建築群が並ぶ景観を形づくりました。安田講堂も内田と岸田日出刀の設計です。

建築家として大学の空間をつくった内田は、総長になるとその空間を戦争から守る判断も迫られました。東京大学の内田祥三資料では、敗戦前に帝都防衛司令部として東京帝国大学を使用したいという軍部の申し出を退け、敗戦後には連合国軍による本郷キャンパス接収を止めるため各方面へ働きかけた経緯が紹介されています。

安田講堂から戦地へ向かった学生たち

学生生活の戦時化は、1943年に突然始まったものではありません。1941年10月には大学・高校などの修業年限を6か月短縮する方針が決まり、東京帝国大学でも卒業期の繰り上げが進みました。1942年には臨時徴兵検査や夏季休業の廃止が行われ、1943年には軍事教練の必修化や勤労動員が進みます。

その延長上で、1943年9月に文科系学徒の徴兵猶予停止が決まり、同年秋から多くの学生が軍へ入りました。東京帝国大学では11月に安田講堂で出陣学徒の壮行会が行われ、学生たちは銀杏並木を通って正門から大学を出ました。

『東京大学百年史』には、この時期の入営休学者が2,884人に達したことが記録されています。理工系学生の入営は一定期間延期される一方、文科系では多くの学生が学業を中断しました。戦争末期には勤労動員も拡大し、通常の大学教育そのものが成立しにくくなります。

現在の安田講堂や銀杏並木を現地で見る場合は、東京大学本郷キャンパスを歴史散歩|赤門・安田講堂・三四郎池・ハチ公を巡るで建築とキャンパスの見どころをまとめています。

敗戦と本郷キャンパス接収問題

1945年8月の敗戦後、本郷キャンパスは占領軍の総司令部候補地となりました。都心に広い敷地があり、戦災による損傷も比較的少なかったためです。東京大学の公式資料では、内田総長と当時法学部長だった南原繁なんばら しげるが文部省とも連携して占領軍側へ働きかけ、教育・研究の場としてキャンパスを維持する必要性を訴えたとされています。

接収問題は1945年9月に回避され、GHQの本部は日比谷の第一生命館に置かれました。内田は戦争末期の総長であると同時に、敗戦直後には大学の物理的基盤を守る交渉にも当たったことになります。

南原繁――敗戦後の大学を作り直す

戦後最初の東京大学総長・南原繁の肖像
南原繁(1889~1974)の肖像。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」。

1945年12月、総長就任

内田の任期が終わった1945年12月14日、南原繁が第15代総長に就任しました。政治学者の南原は、戦時中から法学部で教育・研究に携わり、敗戦直後には大学の再建と教育制度改革の中心に入ります。

南原の改革は、占領軍の方針をそのまま受け入れるだけの過程ではありませんでした。日本側でも教育制度改革の議論が進み、南原は教育刷新委員会の副委員長、のち委員長として全国の教育改革に関与します。東京大学内部でも、旧制大学から新制大学への転換を具体化しました。

教育制度改革と新制大学

戦後の学校教育法によって、旧制高等学校・専門学校・大学を含む高等教育制度は大きく再編されました。東京大学では第一高等学校や東京高等学校などを組み込み、前期課程で一般教育を学んだ後、専門学部へ進む新しい仕組みがつくられます。

教養学部を独立学部として置いた意味

1949年の新制東京大学発足時、駒場に教養学部が設置されました。新入生を一つの学部に受け入れ、文系・理系を問わず一般教育を行う仕組みは、専門教育中心だった旧制帝国大学からの大きな転換です。

教養学部の初代学部長には、戦後復帰した矢内原忠雄が就任しました。1937年に大学を辞めた矢内原が、新制東京大学の入口にあたる学部の設計と運営を担ったことは、戦前と戦後の大学史をつなぐ出来事でした。

東京帝国大学から東京大学へ

大学名の変更と、新制大学の発足は別の出来事です。1947年9月30日に「東京帝国大学」から「東京大学」へ改称され、1949年5月31日に学校教育法にもとづく新制東京大学が発足しました。1947年は名称の転換、1949年は教育制度と組織の転換です。

新制大学では教養学部と教育学部が加わって9学部となり、戦前の帝国大学とは異なる教育体系が動き始めました。第二工学部を母体とする生産技術研究所の設置も同じ1949年です。

1951年、矢内原忠雄が総長として戻る

敗戦後、矢内原は東京大学教授へ復帰し、社会科学研究所長、経済学部長、教養学部長を歴任しました。そして1951年12月14日、南原繁の後任として第16代東京大学総長に就任します。

1937年に軍国主義批判を背景として辞職した教授が、戦後の制度改革を経た大学で総長となりました。東京大学の公式資料は、矢内原が総長時代にも大学自治と学問の自由を重視した人物として位置づけています。

総長就任翌年の1952年には、学内の演劇会に私服警察官が入っていたことからポポロ事件が起き、警察権と大学自治の境界が大きな争点になりました。東京大学の授業資料では、矢内原総長期を「ポポロ事件」「矢内原3原則」と結びつけて整理しています。戦前に学問の自由をめぐって大学を去った矢内原は、戦後には総長として大学自治を具体的な制度問題として扱う立場に置かれました。

同じ総長期には、学生への支援制度も整えられます。東京大学教養学部の記録では、1953年3月に学生相談所が開設されました。新制大学の発足後、大学自治を守るだけでなく、学生生活そのものを支える仕組みづくりも進められていました。

この14年間に変わったのは人物だけではありません。教授人事をめぐる大学自治、国家による科学技術動員、学生の徴兵と勤労動員、キャンパス接収問題、旧制から新制への教育制度改革が連続して起きました。矢内原の復帰と総長就任は、その制度変化の先にあります。

5人で見る戦時・戦後の東京大学

人物・在任期間大学で起きたこと
矢内原忠雄
1937年辞職
植民政策研究を背景に軍国主義を批判し、学内外の圧力が強まるなかで辞職。戦後まで教授職を離れました。
平賀譲
1938年12月20日~1943年2月17日
第13代総長。平賀粛学で総長権限を行使し、戦時の技術者需要に対応する第二工学部の創設を推進しました。
内田祥三
1943年3月12日~1945年12月14日
第14代総長。学徒出陣と勤労動員が進む大学を運営し、敗戦直後には南原繁らと本郷キャンパスの接収回避に動きました。
南原繁
1945年12月14日~1951年12月14日
第15代総長。戦後教育改革を進め、1947年の改称と1949年の新制東京大学発足を迎えました。
矢内原忠雄
1951年12月14日~1957年12月14日
第16代総長。戦後復帰後、社会科学研究所長、経済学部長、教養学部長を経て総長となり、大学自治と学問の自由を重視しました。

まとめ

1937年の矢内原忠雄辞職から1951年の総長就任まで、東京大学は戦争と敗戦のなかで制度そのものを変えました。平賀譲の時代には経済学部の人事問題と第二工学部の設置が進み、内田祥三の時代には学徒出陣と敗戦、本郷キャンパス接収問題が起きました。南原繁のもとでは旧制から新制への教育改革が進み、1947年の改称を経て1949年に新制東京大学が発足します。

戦前と戦後を分ける一本の線だけでは、この変化は捉えられません。大学は戦時体制に組み込まれながら、内部では人事、教育、研究、自治をめぐる対立と選択を続けました。その結果として、1937年に大学を去った矢内原が、1951年には新制東京大学の総長として戻ることになりました。

よくある疑問

平賀粛学とは何ですか?

1939年、平賀譲総長が経済学部の河合栄治郎と土方成美の休職を文部大臣に求め、その後、多くの教員が辞表を提出した一連の事件です。思想統制だけでなく、経済学部内部の対立、文部省の圧力、総長権限が重なって起きました。

東京帝国大学が東京大学になったのはいつですか?

名称が「東京帝国大学」から「東京大学」に変わったのは1947年9月30日です。学校教育法にもとづく新制東京大学の発足は1949年5月31日で、改称とは別の制度改革です。

第二工学部はなぜ作られたのですか?

戦時下に機械、電気、航空、土木、建築などの技術者需要が急増し、工学教育を拡大する必要が生じたためです。1942年に千葉で発足し、戦後は生産技術研究所へ人材と施設の一部が引き継がれました。

東京帝国大学の学徒出陣はいつ始まりましたか?

徴兵猶予の停止を受け、1943年秋から文科系学生を中心に入営が進みました。東京帝国大学では同年11月、安田講堂で出陣学徒の壮行会が行われ、学生たちは銀杏並木を通って正門から大学を出ました。

矢内原忠雄はなぜ辞職し、戦後に総長になったのですか?

矢内原は1937年、軍国主義批判を含む言論をめぐって学内外の圧力が強まるなかで東京帝国大学を辞職しました。敗戦後に教授へ復帰し、社会科学研究所長、経済学部長、教養学部長を経て、1951年に第16代総長へ就任しました。

この後の東京大学で起きた1968~69年の東大紛争は、東大紛争を歴代総長からたどる解説記事で、医学部研修医問題から安田講堂、入試中止まで時系列で紹介しています。

主な参考資料