東京大学本郷キャンパスの正門をくぐると、安田講堂へ向かってまっすぐに銀杏並木が伸びています。秋の黄葉で知られるこの景色は、大学の歴史そのものと結びついています。東京大学の説明によれば、1906年頃、総長の濱尾新は「正門から入ったら万人自ら襟を正すような厳粛な雰囲気」にしたいと考え、農科大学の本多静六と相談して銀杏を配しました。
その並木が整えられた時代、東京帝国大学ではもう一人の総長、山川健次郎が大きな転機を迎えていました。会津戦争を白虎隊士として経験し、アメリカで物理学を学んだ山川は、東京大学初の日本人理学部教授となり、やがて総長に就任します。しかし1905年、戸水事件をめぐる大学と文部省の衝突のなかで辞任しました。その直後に再び総長となったのが濱尾です。
銀杏並木、二人の総長、戸水事件は別々の逸話ではありません。明治の東京大学が、国家の高等教育機関として制度を整え、本郷の空間を形づくりながら、教員人事を誰が決めるのかという「大学自治」の問題に直面していった一続きの歴史です。
帝国大学の誕生と、総長という役職
東京大学は1877(明治10)年、東京開成学校と東京医学校を基礎に発足しました。創立当初は法理文三学部と医学部にそれぞれ「綜理」が置かれ、1881年には全学を管理する「総理」が設けられます。現在まで続く「総長」という役職が生まれたのは、1886(明治19)年に東京大学が帝国大学となったときです。
1897(明治30)年、京都帝国大学の創設に伴い、それまで単に「帝国大学」と呼ばれていた大学は「東京帝国大学」へ改称されました。明治の東大史では、東京大学、帝国大学、東京帝国大学という三つの名称が続けて現れますが、大学の制度が段階的に組み替えられた結果です。
| 年 | 東京大学の動き |
|---|---|
| 1877年 | 東京大学が発足 |
| 1886年 | 帝国大学となり、総長制度が始まる |
| 1893年 | 濱尾新が第3代総長に就任 |
| 1897年 | 東京帝国大学へ改称 |
| 1901年 | 山川健次郎が第6代総長に就任 |
| 1905年 | 戸水事件で山川が辞任し、濱尾が第8代総長として再登板 |
| 1913年 | 山川が第9代総長として再登板 |
この制度の変化を二人の総長の経歴に重ねると、明治の東京大学がどのように形を整えたのかが見えやすくなります。
濱尾新――本郷キャンパスを形づくった「土木総長」

濱尾新は何者だったのか
濱尾新は1849年生まれ。東京大学創立期から大学運営に携わり、のちに帝国大学・東京帝国大学の総長を二度務めました。東京大学は濱尾を、構内整備を進めた「土木総長」と紹介しています。
この呼び名を最もよく実感できるのが現在の本郷キャンパスです。大学運営というと学部や制度の改革が思い浮かびますが、濱尾は大学の「場」そのものをどう見せるかにも強い関心を持っていました。
二度総長を務めた理由と在任時期
濱尾の最初の総長在任は1893~1897年で、第3代総長でした。1905年の戸水事件では教授人事をめぐって東京帝国大学と文部省の対立が深まり、第6代総長の山川健次郎が辞任します。後任の松井直吉も短期間で退き、その収拾局面で、総長経験者の濱尾が第8代総長として再登板しました。二度目の在任は1912年8月まで続きます。
濱尾の二期を合わせた在任期間は11年3か月に及びます。東京大学の歴代総長紹介では、山川健次郎に次ぐ歴代2位の長さとされています。明治末から大正初期の大学運営に、濱尾が長く関わったことが分かります。
銀杏並木と正門から大講堂へ伸びる軸線
濱尾の構想が最もはっきり残るのが、正門から東へ伸びる銀杏並木です。東京大学は、1906年頃に濱尾が本多静六と相談して銀杏を植えたと説明しています。高い木を正門側に置き、奥へ進むほど低くすることで、道を実際より長く見せる工夫も施されました。
濱尾はこの軸線の先に大講堂を置く構想も持っていました。現在そこに建つ安田講堂の完成は1925年で、銀杏並木の整備より約20年後です。現在の「正門―銀杏並木―安田講堂」という景観は、濱尾が整えた軸線を出発点とし、その後の建設と関東大震災後のキャンパス復興を経て形づくられました。
山川健次郎――会津からアメリカ留学、そして東大総長へ

白虎隊士として会津戦争を経験
山川健次郎は1854年、会津藩家老職の家に生まれました。東京大学文書館は、その経歴を「白虎隊士として会津戦争を経験」と記しています。会津戦争の敗北を経験した少年が、のちに帝国大学の総長となるため、「白虎隊から東大総長へ」と語られる人物です。
山川の経歴をたどる際は、白虎隊の悲劇的な逸話を膨らませるより、その後に科学者として歩んだ過程が重要です。会津戦争からわずか数年後、山川は海外で近代物理学を学ぶ道へ進みました。
イェール大学で物理学を学ぶ
1871(明治4)年、山川はアメリカへ渡り、イェール大学シェフィールド理学校で学びました。東京大学文書館の経歴では留学期間は1871~1875年。帰国後は東京開成学校教授補を経て、東京大学の教育に加わります。
当時の日本では、西洋の自然科学を大学で専門的に教える体制そのものが形成途上でした。山川は海外で学んだ物理学を大学教育へ持ち込み、研究者を育てる側へ回ります。この教育・研究組織を担った経験が、のちに大学全体を運営する立場へ進む土台になりました。
日本人初の東京大学物理学教授から総長へ
1879(明治12)年、山川は東京大学初の日本人理学部教授となりました。国立国会図書館は、X線発生の追試実験などを行い、物理学専門教育の草創期を支えた人物として紹介しています。1888年には日本初の理学博士となりました。
1901(明治34)年6月、山川は第6代東京帝国大学総長に就任します。当時の総長は官選でした。物理学の教育・研究体制を築く仕事から大学全体の運営へ役割を広げた山川は、総長として文部省と大学の関係を調整する立場に立ちます。その対立が最も鋭く表れたのが、1905年の戸水事件でした。
戸水事件――総長の辞任にまで発展した大学自治の争点
何が発端だったのか
戸水事件は、1905(明治38)年に東京帝国大学法科大学教授・戸水寛人の休職処分をきっかけとして、文部省と大学側が教授人事の権限をめぐって衝突した事件です。その背景には日露戦争前後の緊張した政治状況があり、戸水ら「七博士」は1903年に対露強硬論を公にし、戦争末期には講和条件をめぐって政府方針を批判しました。
教授の政治的発言への評価とともに、国が設置する帝国大学で教員人事を誰が決めるのかが争点となりました。文部省の権限、総長の責任、教授会の自律性が衝突し、戸水への処分を機に「大学自治」の問題が表面化します。
文部省による戸水寛人の休職と教授側の反発
1905(明治38)年、文部省は文官分限令を用いて戸水を休職処分としました。これに対し、東京帝国大学法科大学の教授たちは、教授の任免に関する手続きと大学の自律性が損なわれるとして強く反発します。京都帝国大学法科大学の教授たちも抗議し、問題は一大学の人事を超えて広がりました。
大学自治とは、大学が教育・研究や教員人事などの内部事項をどこまで自律的に決められるかという問題です。帝国大学は国の機関であり、総長も官選でした。その制度のもとで、文部大臣の権限と、総長・教授会の自治をどう両立させるかが問われました。
山川健次郎はなぜ辞任したのか
山川は、文部省と教授団の対立のただ中に置かれました。教授任免の手続きをめぐる抗議が拡大するなか、山川は1905年12月に辞表を提出し、総長を辞任します。その後も教授側の抵抗は続き、久保田譲文部大臣の辞職を経て、戸水は1906年に復職しました。
東京大学の『東京大学百年史 通史二』は、この戸水事件を「東京帝国大学最初の自治事件」と位置づけています。焦点は、戸水個人の政治的主張への賛否だけではなく、教員人事に対する政府と大学の権限関係でした。後の大学自治を考えるうえで、明治期に表面化した重要な争点です。
濱尾から山川へ――二人が交互に総長を務めた時代
1905年の山川健次郎辞任後、松井直吉が第7代総長となりましたが、在任はわずか13日でした。同年12月、第3代総長経験者の濱尾新が第8代として再び大学を率います。戸水事件で大学と文部省の関係が揺れた直後、すでに総長経験を持つ濱尾が戻ったことになります。
濱尾が1912年に退いた後、山川は九州帝国大学初代総長を経て、1913年5月に第9代東京帝国大学総長として復帰しました。山川の二期合計の在任期間は11年10か月で、東京大学の歴代総長として最長です。
山川の二度目の在任は大正期まで続き、1919年には総長公選制を制度化しました。教授全体の選挙で総長候補を選ぶ仕組みが整えられ、山川自身が東京大学史上初の公選総長に選ばれます。1905年に教員人事をめぐって表面化した自治の問題は、総長の選び方にもつながっていきました。
同じ時代に、濱尾は本郷の空間を整え、山川は大学の制度と自治をめぐる転機に立ち会いました。二人の総長史を並べると、明治から大正初期の東京大学が「建物や景観」と「組織や権限」の両面で形づくられたことが分かります。
今の本郷キャンパスで見られる二人の痕跡
銀杏並木
正門から安田講堂へ伸びる銀杏並木は、濱尾新の構想を現在の景観の中で最も直接にたどれる場所です。1906年頃に整えられた軸線は、後年の安田講堂建設や震災復興を経ても、本郷キャンパスの中心的な景観として残っています。
濱尾新像
濱尾新像は、安田講堂と三四郎池の間の道沿いにあります。東京大学は、像の視線の先に安田講堂がある位置関係を紹介しています。銀杏並木と合わせて歩くと、濱尾が構想した本郷の軸線を立体的に捉えられます。
山川健次郎像
山川健次郎の胸像は理学部1号館前にあります。物理学者として出発した山川の経歴を考えると、理学部の前に置かれていること自体が、総長になる以前の研究者としての姿を思い出させます。
現在の構内を歩くなら、赤門・安田講堂・三四郎池なども含めた東京大学本郷キャンパスの歴史散歩もあわせて見ると位置関係をつかみやすくなります。大学周辺の本郷の街まで歩く場合は、本郷歴史散歩ガイドで文学と学問の街の広がりをたどれます。入構方法や施設公開の条件は変わることがあるため、訪問時は東京大学の最新案内をご確認ください。
まとめ
明治の東京大学では、1886年の帝国大学成立によって総長制度が始まり、1897年には東京帝国大学へと改称されました。その組織を長く率いた濱尾新は本郷の銀杏並木と大講堂へ向かう軸線を整え、山川健次郎は物理学者から総長となって戸水事件と大学自治の問題に直面します。
1905年の山川辞任後に濱尾が再登板し、1913年には山川が再び総長へ戻りました。二人が交互に大学を率いた時代を追うと、現在の本郷キャンパスの景観と、大学の自律性をめぐる制度の歴史が一本につながります。

