1969年の東京大学には、その年に入学した新入生が一人もいませんでした。東大紛争の影響で、昭和44年度の入学試験そのものが中止されたためです。
その原因をたどると、テレビ映像で知られる安田講堂の攻防だけでは終わりません。医学部の研修医問題、学生処分、1968年6月の警察力導入、全学スト、大河内一男総長の辞任、加藤一郎総長代行と七学部代表団の交渉、1969年1月の封鎖解除、そして入試中止と大学改革までが一続きにつながっています。
| 時期 | 出来事 | 紛争への影響 |
|---|---|---|
| 1968年1月29日 | 医学部学生が研修医問題でストライキ | 医学部内の対立が本格化 |
| 1968年3月 | 安田講堂での統一卒業式が中止 | 大学全体の行事に影響 |
| 1968年6月17日 | 大学側が機動隊を導入 | 反発が全学へ広がる転換点 |
| 1968年11月5日 | 大河内一男総長が退任、加藤一郎が総長事務取扱 | 執行部が交渉による収拾へ動く |
| 1969年1月10日 | 七学部代表団との確認書が成立 | 大学側と学生代表の合意形成が進む |
| 1969年1月18~19日 | 安田講堂などの封鎖解除 | 機動隊との攻防が全国に中継 |
| 1969年度 | 東京大学の入学試験が中止 | その年の学部新入生が不在となる |

東大紛争は安田講堂から始まったのではない
発端は医学部の研修医問題
東大紛争の発端には、医学部卒業後の臨床研修制度をめぐる対立がありました。当時は、医学部卒業後に1年間のインターンを行う制度がありました。無給で診療に携わる実態への批判が強まり、医学部学生は無給インターン制度の廃止を求めました。
インターン制度に代わって厚生省が示した登録医制度にも反対運動が起こります。学生側にとって争点は給与の有無だけではなく、卒業後の身分、研修が教育なのか労働なのか、臨床研修を誰がどのように管理するのかという問題でした。卒業後すぐに直面する制度だったため、医学部学生の運動は長期化しました。
1968年1月、医学部学生がストライキへ
東京大学文学部の公式年表は、1968年1月に医学部学生が研修医問題でストライキを実施し、これを「東大紛争の発端」と記しています。東京大学文書館の資料群も、1968年1月29日の医学部学生ストライキを起点の一つとして伝えています。
学生処分が全学問題になる
対立を全学へ広げた直接の争点が、医学部による学生・研修生らへの処分でした。1968年3月、医学部では退学4名を含む計17名への処分が発表されます。処分の重さに加え、事実認定と手続きのあり方も大きな争点になりました。『東京大学百年史』も、この経過の中で「不在学生処分の問題」を独立して挙げています。
その後の1969年1月10日の「確認書」で大学当局は、医学部処分について、本人から事情を聴く手続きを経ず、紛争の当事者である医学部教授会の判定だけで一方的に行われた点を認めました。さらに処分を白紙撤回したことを再確認し、処分によって名誉と人権を傷つけられた学生に謝罪する内容も盛り込まれました。研修医制度をめぐる対立に、「大学は誰を、どのような手続きで処分できるのか」という大学運営と自治の問題が重なったのです。
1968年6月には処分撤回を求める学生らが安田講堂を占拠し、6月17日に大学側が機動隊を導入して封鎖を解除しました。この警察力導入への反発が他学部へ広がり、7月には安田講堂が再び占拠され、10月には全学部が無期限ストライキに入ります。新左翼系、民青系、一般学生など立場や要求は異なりましたが、医学部の一問題は大学全体の意思決定と自治をめぐる紛争へ変わりました。
卒業式中止、安田講堂占拠、そして最初の機動隊導入
1968年3月、統一卒業式が中止
1968年3月、紛争の影響で大講堂、通称・安田講堂で予定されていた統一卒業式が中止されました。各学部で分散して卒業式が行われ、大学全体の行事に紛争の影響が表面化します。
6月15日、学生が大講堂を占拠
医学部学生の処分問題をめぐる対立が続く中、1968年6月15日、学生が大講堂を占拠しました。安田講堂は東京大学の公式名称では「大講堂」です。大学の象徴的建物が封鎖されたことで、執行部は対応を迫られました。
6月17日、大学が機動隊を導入
6月17日、大学側は警察力を導入し、占拠した学生を排除しました。1969年1月の安田講堂攻防より半年以上前に、すでに機動隊が学内へ入っています。
この判断は紛争を収めるよりも反発を強める結果となりました。7月には大講堂が再び封鎖され、争点は医学部だけでなく「大学は学生との対立に警察力を使うのか」という大学自治の問題へ広がります。10月には全学部が無期限ストライキに入る段階まで紛争が拡大しました。
大河内一男総長はなぜ辞任したのか
紛争の全学化
第18代総長の大河内一男は、1963年12月14日から1968年11月5日まで東京大学総長を務めました。医学部から始まった対立が全学へ広がる過程で、総長として警察力導入や学生処分への対応を担いました。
大学執行部への批判
紛争が長期化すると、学生側からはもちろん、学内の教員からも大学執行部の対応に批判が集まりました。6月17日の警察力導入は特に大きな転換点となり、執行部と学生の信頼関係をさらに損ないました。
1968年11月、総長辞任
大河内は1968年11月5日で総長を退きます。東京大学法学部の沿革も、同月の大河内総長辞任を受けて法学部長人事が動いたことを記録しています。辞任は、紛争が全学化して大学執行部が統治能力を問われる中で起きたものでした。
加藤一郎――総長代行が紛争収拾を担う
総長代行への就任
大河内の辞任後、法学部教授の加藤一郎が1968年11月5日から1969年4月1日まで総長事務取扱として大学運営を担いました。東京大学公式資料は、加藤を「総長代行として東大紛争を収拾」した人物として紹介しています。
七学部代表団との交渉
加藤が進めたのは、警察力だけに頼らず学生側との交渉を通じて紛争を収拾することでした。1969年1月には秩父宮ラグビー場で七学部集会が開かれ、大学側と七学部代表団との間で交渉が行われました。
七学部代表団は、学部ごとの学生代表を軸に構成された交渉相手です。全共闘と全学生は同じ集団ではなく、学生側にも複数の立場がありました。
「確認書」と大学改革
大学側と七学部代表団の交渉は、1969年1月10日の七学部集会で一つの区切りを迎え、「確認書」が成立しました。東京大学文書館には、この1月10日の確認書の複製に加え、加藤一郎の直筆原稿やメモ、未定稿など一連の関係資料が残っています。
確認書では、医学部の学生処分、警察力導入、大学運営や改革など、紛争を通じて争点となった問題について大学側と七学部代表団が確認を積み重ねました。これは全共闘との合意ではありません。学生側にも複数の立場がある中で、加藤執行部は交渉可能な代表団との合意を足場に収拾を進めました。その後も2月に第二次集会の確認書が作成され、改革をめぐる議論が続きます。
1969年1月18~19日、安田講堂封鎖解除
なぜ再び警察力が導入されたのか
交渉が進む一方で、安田講堂をはじめとする本郷キャンパスの建物には封鎖が残っていました。大学側は正常な教育・研究体制を回復するため、1969年1月18日に再び警察力を導入し、封鎖解除に踏み切ります。
安田講堂の攻防
1月18日から19日にかけて、安田講堂では学生と機動隊の激しい攻防が続きました。放水や催涙ガス、投石などを伴う光景はテレビで全国に中継され、東大紛争を象徴する映像として広く記憶されました。
「安田講堂事件」と「東大紛争」の違い
「安田講堂事件」は1969年1月18~19日の封鎖解除局面を指す呼び方です。東大紛争は、医学部研修医問題を発端に1968~1969年に展開した大学全体の紛争です。安田講堂の攻防はクライマックスの一つですが、東大紛争全体と同じ意味ではありません。
現在の安田講堂や本郷キャンパスの建築を現地で見たい場合は、東京大学本郷キャンパスの歴史散歩記事で赤門・安田講堂・三四郎池までまとめて紹介しています。建築としての安田講堂に関心があれば、東京建築祭2025のモデルコースも参考になります。
なぜ1969年度の東大入試は中止されたのか
入試実施をめぐる大学と文部省の動き
紛争が長期化し、教育・研究施設の封鎖が続く中で、1969年度入試を予定通り実施できるかが大学と政府の大きな問題になりました。東京大学は前年暮れにいったん入試中止を決めましたが、安田講堂などの封鎖解除後、1月20日の評議会では入試を復活させたいとの意思を決定します。加藤一郎総長代行は文部大臣との会見で再度の検討を求めました。
しかし政府は入試中止の方針を変えず、大学側は実施を事実上不可能と判断しました。1月21日、東京大学評議会は文部大臣宛ての抗議文を決定し、大学の最終的判断を尊重しなかったことは大学自治の原則に反すると表明しています。入試中止は、封鎖解除だけで自動的に決まったのではなく、大学側が再実施を模索した後、政府との折衝を経て確定したのです。
開学以来初の入試中止
こうして東京大学は昭和44年度の入学試験を実施しませんでした。受験生が受験を拒否したのではなく、制度上、東京大学の学部入試そのものが中止されたのです。
「1969年入学の東大生がいない」年
東京大学の公式広報は、東大紛争の影響で「1969年は新入生が存在しない年」だったと説明しています。例年なら春に入学する学部新入生がいなかったため、学生行事にも大きな影響が残りました。
この入試中止は、大学紛争がキャンパス内部の問題にとどまらず、高等教育制度と受験生に直接影響したことを象徴しています。
林健太郎と、紛争後の東京大学
文学部長としての紛争対応
林健太郎は東大紛争時の総長ではありません。西洋史学者として東京大学文学部に在籍し、紛争の最中には文学部長として学生との交渉に直面しました。
約170時間の団交
東京大学公式広報は、林について「文学部長時代、軟禁状態で170時間もの団交」を行った人物として紹介しています。長時間の交渉は、紛争が安田講堂だけで進んでいたのではなく、各学部の執行部と学生の間でも激しい対立と交渉が続いていたことを伝えます。
1973年、第20代総長へ
林は1973年に第20代東京大学総長へ就任しました。大河内、加藤、林を時系列で見ると、林は紛争を総長として指揮した人物ではなく、学部長として紛争に向き合い、その経験を経て後に総長となった人物です。
東大紛争は大学をどう変えたのか
大学改革の議論
加藤執行部は1969年1月、総長の諮問機関として「大学改革準備調査会」を発足させました。東京大学文書館に残る資料では、1月6日の第1回会合から活動が始まり、研究・教育組織、管理組織、総長制度、規則・処分など複数の専門分野で調査と検討が進められています。
同調査会は1969年中に覚書を重ね、学部・研究所の管理組織や大学運営など、紛争で表面化した制度上の問題を具体的な改革課題として扱いました。第一次報告書をまとめたのち、1970年1月には教官側の改革委員会が発足し、1971年7月には改革室が設置されます。東大紛争だけですべての改革が生まれたのではなく、戦後の大学制度が抱えていた課題や全国的な大学改革論議とも重なっていました。
| 時期 | 改革組織・動き | 役割 |
|---|---|---|
| 1969年1月 | 大学改革準備調査会 | 研究・教育組織、管理組織、総長制度、学内規律などを予備調査 |
| 1970年1月 | 改革委員会(教官) | 準備調査会の検討を引き継ぎ、具体的な改革課題を審議 |
| 1971年7月 | 改革室 | 改革実施案の作成を担う全学組織として設置 |
入試制度への影響
1969年度の入試中止後、東京大学は翌1970年度(昭和45年度)に新入生の受け入れを再開しました。『東京大学百年史』は、その後の入試改革について「四十五年度の臨時措置」「四十六年度要項」「足切りと一次・二次試験」といった項目を挙げています。入試は単に元へ戻ったのではなく、受験者選抜の方法や実施体制を見直す議論へつながりました。
安田講堂が卒業式会場へ戻るまで
安田講堂は紛争後、長く卒業式会場として使われませんでした。東京大学の総長告辞では、紛争以後およそ20年間、安田講堂で卒業式が行われなかった時期が語られています。現在は再び大学の式典会場として使われ、1968~69年とは異なる役割を担っています。
大河内・加藤・林、3人の立場を整理
| 人物 | 東大紛争期の立場 | 主な役割 |
|---|---|---|
| 大河内一男 | 第18代総長 | 紛争が医学部から全学へ拡大する中で大学執行を担い、1968年11月に辞任 |
| 加藤一郎 | 総長事務取扱 | 学生側との交渉、七学部代表団との確認、封鎖解除など収拾を担い、1969年4月に第19代総長 |
| 林健太郎 | 文学部長 | 文学部で学生との長時間交渉に直面し、1973年に第20代総長 |
まとめ
東大紛争は、医学部の研修医問題から始まりました。学生処分をめぐる対立、1968年3月の統一卒業式中止、6月17日の警察力導入を経て全学化し、大河内一男総長は11月に辞任します。後を担った加藤一郎は学生側との交渉を進め、七学部代表団との確認書や大学改革準備へ動きました。
1969年1月18~19日の安田講堂封鎖解除は、その長い過程のクライマックスです。同じ月には1969年度入試の中止も決まり、東京大学にはその年の新入生がいませんでした。紛争後の大学改革まで含めると、東大紛争は一つの建物をめぐる攻防ではなく、大学の意思決定、自治、学生との関係、入試制度まで揺さぶった出来事として理解できます。
東大紛争のよくある疑問
東大紛争と安田講堂事件は同じですか?
範囲が異なります。東大紛争は医学部の研修医問題を発端として1968~1969年に全学化した紛争全体を指します。安田講堂事件は、その中でも1969年1月18~19日に行われた封鎖解除と機動隊との攻防を指す呼び方です。
なぜ1969年度の東大入試は中止されたのですか?
紛争と建物封鎖が続く中で、大学はいったん昭和44年度入試の中止を決めました。封鎖解除後の1969年1月20日には大学側が入試復活を求めましたが、政府方針は変わらず、実施は事実上不可能となりました。受験生が受験しなかったのではなく、大学の学部入試そのものが実施されなかったためです。
1969年に入学した東大生は本当にいないのですか?
1969年度の学部入試が中止されたため、その年の学部新入生は存在しませんでした。東京大学の公式広報も1969年を「新入生が存在しない年」と説明しています。
東大紛争のときの総長は誰ですか?
紛争前半は第18代総長の大河内一男です。大河内が1968年11月5日に退任すると、加藤一郎が総長事務取扱として収拾を担い、1969年4月1日に第19代総長へ就任しました。林健太郎は紛争時には文学部長で、1973年に第20代総長となりました。

