貧民窟・被差別部落・ドヤ街の違い|明治東京の三大貧民窟を正しく理解する

貧民窟・被差別部落・ドヤ街の違いを歴史資料風に示したアイキャッチ図

「貧民窟」「被差別部落」「ドヤ街」。どれも都市の貧困や差別、労働の問題と結びついて語られることがある言葉です。そのため、同じもののように混同されることがあります。

貧民窟は近代都市の貧困と不良住宅の問題、被差別部落は歴史的身分差別に由来する人権問題、ドヤ街・寄せ場は主に近現代の日雇い労働と簡易宿泊所の問題です。

本記事の立場

歴史上の用語は、当時の制度や社会状況を説明するために用います。現在の地域・住民・出身者への呼称とは区別します。地域名や出自に基づく差別は人権侵害です。現在の街は、震災、戦災、区画整理、再開発、福祉政策、産業構造の変化によって大きく変わっています。

最初に結論|貧民窟・被差別部落・ドヤ街は何が違うのか

用語主な意味由来中心となる問題注意点
貧民窟近代都市で低所得層が密集した不良住宅・都市貧困地域都市化、低賃金労働、低家賃住宅、流入人口都市貧困、住環境、衛生、労働現在の地域をそう呼ぶ言葉ではない
被差別部落歴史的身分差別に由来し、地域・出身・職業などをめぐる差別が続いてきた問題近世身分制と明治以降も残った差別構造出自差別、人権、結婚・就職差別、インターネット上の差別貧困地域と同一視してはいけない
ドヤ街・寄せ場日雇い労働者、簡易宿泊所、求人・労働市場が集まった地域戦後復興、高度成長、建設労働、単身労働者不安定労働、住居、福祉、医療、生活支援明治三大貧民窟とは時代も形成理由も異なる

貧民窟とは何か|明治東京で使われた「貧民」「細民」「下層社会」

貧民窟は、近代都市の中で低所得層が密集して暮らした地域を指す歴史的表現です。明治期の新聞、社会調査、探訪記では「貧民」「細民」「下層社会」などの言葉とともに使われました。

そこには、日雇い人足、人力車夫、屑拾い、職人、内職、工場労働者、芸人など、都市を支える多様な仕事に従事する人々が暮らしていました。低賃金、失業、病気、災害、地方からの流入、仕事場への近さ、低家賃の住宅が重なり、人々は都市の周縁に集まりました。

明治東京の三大貧民窟|鮫河橋・万年町・新網町

明治東京の貧民窟として特に知られたのが、四谷鮫河橋、下谷万年町、芝新網町です。社会事業史、都市史、明治期の探訪記でしばしば取り上げられ、「三大貧民窟」と呼ばれてきました。

四谷鮫河橋

四谷鮫河橋は、現在の新宿区若葉・南元町周辺、赤坂御所の北側付近にあたる地域として説明されます。明治東京の貧民窟としてとくに知られ、横山源之助や松原岩五郎らの記述にも登場します。

残飯業、日稼ぎ人足、人力車夫、貧民小学校などが記録されています。

鮫河橋の低地と現在の街路を現地でたどる場合は、信濃町〜四谷の裏路地をブラタモリ風にゆる散歩も参考になります。

下谷万年町

下谷万年町は、現在の上野駅から入谷・下谷周辺に関わる地域として語られます。上野駅に近く、低地、雑業、屑拾い、日雇い労働などの記述が見られます。

上野は、明治以降の鉄道、博覧会、公園、商業、労働者の移動が重なる場所でした。

芝新網町

芝新網町は、現在の港区浜松町・芝浦・新橋寄りの湾岸部に関わる地域として扱われます。海岸部、港湾、鉄道、労働市場、大道芸や雑業などの記述と結びつきます。

埋立、鉄道、港湾、都心の発展の裏側には、低賃金労働と不安定な住まいがありました。

穢多・非人とは何か|近世身分制と明治の解放令

江戸時代には、武士・百姓・町人などの身分秩序の外側に、差別された身分として扱われた人々がいました。

1871年、いわゆる解放令によって、制度上はこうした身分称が廃止されました。法令で身分呼称がなくなった後も、差別や経済的不利、結婚・就職をめぐる排除が続きました。

被差別部落と貧民窟は同じではない

被差別部落は、歴史的身分差別に由来する問題です。地域や出身、職業などをめぐる差別が、近代以降も結婚、就職、居住、インターネット上の情報拡散などの形で続いてきました。法務省も、部落差別は現在も存在する人権問題であると説明しています。

一方、貧民窟は、近代都市の貧困、不良住宅、低賃金労働、流入人口の問題です。貧困と差別が重なる場合はありますが、貧困地域と被差別部落を同一視すると、歴史的身分差別に由来する問題を見落とします。

そこに住む経緯は家系なのか|流入・仕事・住居・差別の違い

貧民窟には、地方から都市へ出てきた人、失業した人、病気で働けなくなった人、家賃の安い場所を選んだ人、職場に近い場所で暮らした人がいました。

貧困は世代を超えて続く場合があります。住環境、教育機会、病気、仕事の不安定さ、差別によって、家族単位で生活困難が固定化する場合もあります。都市貧困は、都市の労働市場、住宅問題、福祉政策とも深く関わっていました。

被差別部落では、出自や地域に基づく差別が中心にあります。都市貧困とは異なる歴史的経緯を持ちます。

山谷などのドヤ街・寄せ場とは何が違うのか

山谷は、戦後復興と高度成長期の建設労働を背景に、日雇い労働者、簡易宿泊所、寄せ場が集まった地域です。

東京都は山谷対策本部を設置し、関係区とともに簡易宿所等に居住する人々の雇用の安定、社会福祉、保健衛生の向上などを目的とする山谷対策を行ってきました。城北労働・福祉センターでは、日雇労働者への無料職業紹介や相談事業なども行われています。

ドヤ街は、都市貧困、不安定労働、住宅問題と関係します。しかし、明治三大貧民窟とは時代、形成理由、住民構成、行政施策の文脈が異なります。

三つの問題はどこで重なるのか

  • 都市の周縁に人が集まる
  • 安い住居や不安定な仕事と結びつく
  • 行政、新聞、社会調査の「まなざし」を受ける
  • 衛生、教育、福祉、治安の問題として語られる
  • 差別や偏見によって、地域のイメージが固定される

都市貧困、身分差別、日雇い労働は、それぞれ別の歴史を持ちながら、東京という都市の中で交差してきました。

在日コリアン集住地とは混同しない

なお、在日コリアン集住地の歴史は、貧民窟やドヤ街とは別の由来を持ちます。

在日コリアン集住地は、植民地支配、移住、戦後の法制度、民族教育、地域社会、商業、文化交流など複数の要因から形成されました。

現在の街をどう歩けばよいか

現在の街は、震災、戦災、区画整理、再開発によって大きく変化しています。地形、道路、駅、寺社、学校跡、港湾、案内板、資料館などに、過去の都市構造の痕跡が残ります。

よくある誤解

貧民窟と被差別部落は同じですか?

貧民窟は都市貧困と住環境の問題、被差別部落は歴史的身分差別に由来する人権問題です。両者は由来と中心となる問題が異なります。

明治三大貧民窟は現在もそのまま残っていますか?

いいえ。震災、戦災、区画整理、再開発、産業構造の変化によって、現在の街は大きく変わっています。歴史上の呼称を現在の地域に貼り付けることは避けるべきです。

山谷は明治三大貧民窟の一つですか?

違います。山谷は主に戦後復興・高度成長期の日雇い労働、寄せ場、簡易宿泊所の文脈で理解する地域です。明治東京の三大貧民窟とは時代も形成理由も異なります。

なぜこのテーマを歴史散歩で扱うのですか?

東京の近代化は、銀座や丸の内の発展とともに、労働者、移住者、生活困窮者、差別を受けた人々の暮らしによって支えられてきました。都市の成り立ちを正確に学ぶために扱います。

参考文献・参考資料

  1. 法務省「部落差別(同和問題)を解消しましょう」
  2. e-Gov法令検索「部落差別の解消の推進に関する法律」
  3. 東京都福祉局「山谷対策」
  4. 公益財団法人城北労働・福祉センター
  5. 国立国会図書館デジタルコレクション 横山源之助『日本之下層社会』
  6. 国立国会図書館デジタルコレクション 松原岩五郎『最暗黒之東京』
  7. 新宿区「新宿区史・記念誌」
  8. 台東区「台東区の歴史・文化財」