アラブ音楽を聴くと、西洋音楽のドレミでは説明しきれない細やかな音の揺れや、声が旋律の中を旅するような感覚に出会います。そこには、マカームと呼ばれる旋法、微分音、詩、即興、声を大切にする独自の音楽文化があります。
ただし、アラブ音楽を「中東っぽい音」「エキゾチックな旋律」とだけ受け取ってしまうと、大切なところを見落としてしまいます。アラブ音楽は、和音が次々に進む音楽というより、マカームという旋律の道を、声と楽器が細やかな音程・装飾・即興で旅する音楽です。
この記事では、アラブ音楽とマカームの基本を、初心者にも分かりやすく整理します。西洋音楽、日本音楽、インド音楽との比較も交えながら、「どこを聴けば面白いのか」が見えてくる入門ガイドにします。
- 30秒で分かる結論――アラブ音楽は「旋法と声」で時間を深める音楽
- アラブ音楽はなぜ西洋音楽と違って聴こえるのか
- マカームとは何か――音階ではなく「旋律の道」
- 微分音とは何か――ドレミの間に広がる音
- 即興の音楽――タクスィームで旋法を旅する
- 声と詩の文化――アラブ音楽はなぜ歌を重視するのか
- ウード、カーヌーン、ナイ――アラブ音楽を支える楽器
- 宮廷、都市、宗教――イスラム世界で音楽はどう育ったのか
- ウンム・クルスームと近代アラブ音楽――声が国民的記憶になる
- トルコ、ペルシア、地中海とのつながり
- 西洋音楽・日本音楽・インド音楽と比べると何が違うのか
- よくある誤解
- 現代とのつながり――YouTubeで聴く前に知っておきたいこと
- FAQ
- まとめ――アラブ音楽は、旋法と声で時間を深める音楽だった
- このテーマを続けて読む
- 参考文献・参考サイト
30秒で分かる結論――アラブ音楽は「旋法と声」で時間を深める音楽
| 観点 | ざっくり言うと | 聴くときの注目点 |
|---|---|---|
| マカーム | 単なる音階ではなく、旋律の進み方を含む体系 | どの音に戻るか、どこで緊張し、どこで落ち着くか |
| 微分音 | 西洋平均律の半音では表しにくい細かな音程 | ピアノの鍵盤の間をすべるような音の揺れ |
| 即興 | 気分まかせではなく、マカームの性格を示す演奏 | タクスィームで旋法の世界が少しずつ開くところ |
| 声と詩 | 歌詞、朗唱、装飾音、メリスマが中心にある | 一つの母音や言葉が長く伸び、感情を深めるところ |
| 歴史 | 宮廷、都市、宗教、民衆芸能、録音産業が交わって育った | カイロ、バグダード、アレッポ、ベイルートなど都市ごとの響き |
西洋クラシック音楽では、和声、楽譜、作曲家、オーケストラが大きな役割を果たしました。一方、アラブ音楽では、マカーム、詩、声、即興、演奏の場が大きな意味を持ちます。もちろんアラブ音楽にも作曲や楽譜はありますし、西洋音楽にも即興や旋法はあります。違いは「何を中心に音楽を組み立てるか」です。
アラブ音楽はなぜ西洋音楽と違って聴こえるのか
アラブ音楽が西洋音楽と違って聴こえる理由は、一つではありません。よく「四分音があるから」と説明されますが、それだけでは不十分です。
大きく分けると、次の四つが重なっています。
- 和音の進行よりも、旋律の進み方を重視する
- 平均律の鍵盤では表しにくい音程が使われる
- 声や楽器が、音をまっすぐ置くだけでなく、揺らし、飾り、伸ばす
- 楽譜どおりの再現よりも、伝統を身につけた演奏者の表現が大切にされる
西洋のピアノで「ド・レ・ミ」と弾くと、音の位置は鍵盤によってはっきり決まります。ところがアラブ音楽の演奏では、同じ「レ」と「ミ」のあいだに、地域やマカームごとの微妙な高さが現れます。これは適当に音を外しているのではなく、伝統的な音の位置や旋律の癖を、耳と身体で覚えているからです。
さらに、アラブ音楽では一つの旋律を複数の楽器がほぼ同じ方向に進みながら、微妙に装飾を変えて演奏することがあります。西洋の和声のように縦に積み重なるというより、一本の旋律をさまざまな声色で太くしていく感覚です。
マカームとは何か――音階ではなく「旋律の道」
マカーム(maqam、複数形 maqamat)は、アラブ音楽の中心にある旋法体系です。初心者向けには「アラブ音楽の音階」と説明されることもありますが、実際にはそれ以上のものです。
MaqamWorld は、アラブのマカームを、音階、典型的な旋律句、転調の可能性、装飾の規範、美的慣習を含む豊かな旋律の枠組みとして説明しています。つまりマカームとは、音の並びだけでなく、どこから始まり、どの音を大切にし、どんな道筋で進み、どこに落ち着くのかまで含む考え方です。
マカームを「旅」にたとえると
マカームを理解するには、地図にたとえると分かりやすいです。
- 音階は、使える道の一覧
- 中心音は、出発地や休憩地
- 終止音は、帰ってくる場所
- 典型的な旋律句は、よく通る道筋
- 転調は、別の町へ寄り道すること
- 装飾音は、歩き方や呼吸の癖
同じ音を使っていても、どの音を長く聞かせるか、どこで上昇するか、どこで下降して終わるかが違えば、音楽の表情は変わります。マカームは、単に「この七音を使いましょう」というルールではなく、旋律が時間の中でどう生きるかを示す仕組みです。
ジンス――マカームを作る小さな単位
アラブのマカームは、ジンス(jins、複数形 ajnas)と呼ばれる短い音のまとまりを組み合わせて説明されます。ジンスは三音、四音、五音ほどの小さな旋律単位で、マカームの性格を決める材料になります。
たとえば、あるマカームでは低い部分に特有のジンスがあり、途中から別のジンスへ移っていくことで、聴き手は「いま旋律の景色が変わった」と感じます。これは西洋音楽でいう転調に似た面もありますが、和声の機能で進むというより、旋律の重心と音程の色が変わる感覚に近いものです。
微分音とは何か――ドレミの間に広がる音
微分音とは、広い意味では「半音より細かい音程」や「西洋の十二平均律では表しにくい音程」を指します。ピアノの鍵盤を思い浮かべると、ドとド♯のあいだには鍵盤がありません。しかし、人間の声、ウード、ナイ、ヴァイオリンのような楽器は、その間の高さも出すことができます。
アラブ音楽を説明するとき、「四分音」という言葉がよく使われます。これは、半音をさらに二つに分けたような音程を指す便利な言い方です。ただし注意が必要です。アラブ音楽のすべてが、数学的にきれいな四分音でできているわけではありません。
実際の演奏では、地域、時代、流派、マカーム、演奏者によって、音の高さには微妙な幅があります。二十四平均律のような表記は学習や記譜の助けになりますが、伝統の細かなイントネーションは耳で学ばれてきました。ここを単純化しすぎると、「アラブ音楽=ピアノの鍵盤を二倍にした音楽」という誤解になってしまいます。
微分音は「変な音」ではなく、言葉のアクセントに近い
日本語でも、同じ「雨」と「飴」は音の高さの動きで意味が変わります。関西と関東ではアクセントの感じも違います。微分音も、乱れた音ではなく、音楽の言葉における発音や訛りのようなものだと考えると分かりやすくなります。
あるマカームで少し低めに感じる音は、単に低いのではなく、その旋法の色を作っています。声がその音へ向かうとき、聴き手は「暗い」「甘い」「切ない」「堂々としている」といった印象を受けます。感情表現は一つに固定できませんが、音程の細かさが表情を豊かにしていることは確かです。
即興の音楽――タクスィームで旋法を旅する
アラブ音楽の魅力を知るうえで、タクスィーム(taqsim、複数形 taqasim)は欠かせません。タクスィームは、楽器による旋律的な即興です。多くの場合、曲の前奏、曲中の間奏、独奏の見せ場として演奏されます。
ここでいう即興は、何でも自由に弾くことではありません。演奏者は、選んだマカームの音程、中心音、典型的な旋律句、上昇・下降の癖、転調の可能性を知ったうえで、その場で旋律を組み立てます。つまりタクスィームは、マカームの地図を見せながら、演奏者が実際に歩いてみせる時間です。
Smithsonian Folkways のエジプト音楽資料では、タクスィームを、歌の前にマカームを導入したり、曲中の休止として用いられたりする旋律的な器楽即興として紹介しています。声による即興的な表現は、ライヤーリー(layali)やマワール(mawwal)といった形で現れることがあります。
タクスィームで聴くポイント
タクスィームを聴くときは、「曲が始まる前の長い前置き」と思わないほうが楽しめます。むしろ、ここで演奏者は聴き手の耳を調律しています。
- 最初にどの音を中心に置くか
- 同じ短い旋律をどう言い換えるか
- 高い音へ上がるタイミングをどう作るか
- 別のマカームへ一瞬寄り道するか
- 最後にどの音へ戻って落ち着くか
タクスィームは、速さや技巧だけを見る音楽ではありません。ゆっくりした一音の揺れ、沈黙、息継ぎ、装飾の置き方に、演奏者の判断が現れます。
声と詩の文化――アラブ音楽はなぜ歌を重視するのか
アラブ音楽では、声がとても大きな位置を占めます。もちろん器楽だけの演奏もありますが、古典歌曲、民衆歌謡、宗教的な詠唱、映画音楽、ラジオ放送まで、言葉と声が音楽文化を強く支えてきました。
この背景には、アラビア語の詩の伝統があります。アラビア語圏では、詩は単なる文学ではなく、記憶、名誉、恋愛、信仰、政治、共同体の感情を運ぶ重要な表現でした。歌は、その詩を旋律と声によって共有する場でもありました。
メリスマ――一つの音節が長く旅をする
アラブ歌唱を聴くと、一つの言葉や母音が長く引き伸ばされ、その中で音が細かく動くことがあります。これを広くメリスマ的な歌唱と呼ぶことができます。
たとえば「愛」や「夜」のような言葉が、短く発音されて終わるのではなく、いくつもの音を通りながら伸びていく。すると、歌詞の意味だけでなく、言葉が声になってほどけていく時間そのものが表現になります。ここに装飾音、こぶし、息の強弱、微分音が重なります。
クルアーン朗唱との関係は慎重に考える
アラブ世界の声の文化を考えるとき、クルアーン朗唱の影響を無視することはできません。ただし、ここは慎重に扱う必要があります。イスラムの宗教的立場では、クルアーン朗唱を一般の「音楽」と同一視しない考え方もあります。
一方で、実際の朗唱には、美しい声、正確な発音、息の運び、抑揚、響きへの高度な感覚が求められます。タジュウィード(tajwid)と呼ばれる朗唱の規則は、文字を正しく発音し、休止や伸ばし方を整える知の体系です。したがって本記事では、クルアーン朗唱を「音楽」と断定するのではなく、アラブ世界における声、記憶、響きの文化を理解する重要な周辺領域として位置づけます。
ウード、カーヌーン、ナイ――アラブ音楽を支える楽器
アラブ音楽の伝統的な小編成合奏は、タフト(takht)と呼ばれます。MaqamWorld は、伝統的なタフトの主要な旋律楽器として、ウード、ナイ、カーヌーン、ヴァイオリンを挙げ、打楽器としてリクを紹介しています。場合によっては、タブラ、ダフ、ブズクなども加わります。
| 楽器 | 種類 | 役割 |
|---|---|---|
| ウード | フレットのない撥弦楽器 | 旋律、伴奏、作曲、タクスィームの中心になりやすい |
| カーヌーン | 台形の撥弦ツィター | 細かい音型と音程調整で合奏の音の基準を作る |
| ナイ | 葦の縦笛 | 息の音を含む柔らかな響きで旋律を歌う |
| ヴァイオリン | 擦弦楽器 | フレットがないため微妙な音程や装飾に対応しやすい |
| リク | 小型の枠太鼓 | 拍節、装飾的なリズム、合奏の推進力を作る |
| ダルブッカ | 杯形太鼓 | 明るい打音でリズムを支える |
ウード――フレットがないから歌える楽器
ウードは、アラブ音楽を代表する撥弦楽器です。丸みのある胴体、短いネック、フレットのない指板を持ちます。フレットがないため、ピアノやギターのように音の位置が固定されず、演奏者は指の位置で細かな音程を作れます。
この特徴が、マカームの微妙な音程や装飾を表現するうえで大きな意味を持ちます。ウードは歌手に寄り添う伴奏楽器でもあり、独奏でタクスィームを行う楽器でもあります。
カーヌーン――音の網を張る楽器
カーヌーンは、台形の板の上に多数の弦を張った楽器です。膝や台の上に置き、両手の指にはめた爪で弦をはじきます。左側には小さなレバーがあり、演奏中に音程を細かく変えることができます。
この仕組みによって、カーヌーンはマカームに応じた音程調整や転調に対応します。細やかな分散音型によって、旋律のまわりにきらめくような音の網を張る楽器です。
ナイ――息がそのまま旋律になる笛
ナイは、葦で作られた縦笛です。音を出すのが難しい楽器ですが、熟練した奏者は、息の強さ、角度、指のふさぎ方によって、非常に繊細な音色と音程を作ります。
ナイの魅力は、音が人間の呼吸に近いことです。完全に磨かれた金属的な音ではなく、息のざらつきや揺れを含むため、喜び、寂しさ、祈り、憧れのような感情を柔らかく表現できます。
宮廷、都市、宗教――イスラム世界で音楽はどう育ったのか
アラブ音楽は、砂漠の民謡がそのまま続いた単純な伝統ではありません。宮廷、都市、学問、宗教、民衆芸能、交易が交わる中で形を変えてきました。
中世イスラム世界では、バグダードを中心とするアッバース朝の宮廷文化が大きな役割を果たしました。詩人、歌手、楽器奏者、音楽理論家が集まり、ギリシア由来の学問、ペルシア文化、アラブの詩と歌が交差します。音楽は娯楽であると同時に、教養、権力、都市文化の一部でもありました。
西方では、アンダルスの音楽文化が北アフリカや地中海世界と結びつきました。東方では、ペルシア、トルコ、中央アジアの旋法文化と影響し合いました。ここで大切なのは、アラブ音楽、トルコ音楽、ペルシア音楽を一つに混ぜないことです。共通する旋法的な考え方はありますが、用語、調律、レパートリー、楽器、歌唱様式、歴史的中心地は異なります。
都市が音楽を育てる
アラブ音楽は、都市の文化としても発展しました。カイロ、アレクサンドリア、ベイルート、ダマスカス、アレッポ、バグダード、チュニス、フェズなどの都市は、それぞれ異なる歌や楽器、舞台文化を育てました。
都市には、宮廷や富裕層のサロン、宗教施設、劇場、カフェ、ラジオ局、レコード会社、映画産業が集まります。音楽家はそこで、古い詩を歌い、新しい歌詞を広め、民衆の旋律を洗練させ、近代的なメディアに乗せていきました。
シリアのアレッポに伝わるアル・クドゥード・アル・ハラビーヤは、宗教的な歌や娯楽の歌が都市文化の中で受け継がれてきた例です。UNESCO はこの伝統を、アレッポの伝統音楽として無形文化遺産の代表一覧表に記載しています。
ウンム・クルスームと近代アラブ音楽――声が国民的記憶になる
近代アラブ音楽を語るとき、エジプトの歌手ウンム・クルスーム(Umm Kulthum)は避けて通れません。彼女の歌は、単なるスター歌手のヒット曲ではなく、ラジオ、レコード、映画、国家、アラブ世界の聴衆を結びつけました。
ウンム・クルスームの長大な歌では、作曲された旋律がありながら、歌手が言葉を反復し、伸ばし、装飾し、聴衆の反応を受けながら時間を広げていきます。一曲が数十分、場合によってはさらに長く続くこともありました。聴き手は「次のサビを待つ」のではなく、一つの言葉が何度も違う表情で戻ってくる時間に浸ります。
作曲家ムハンマド・アブドゥルワッハーブは、西洋楽器や近代的な編成、映画音楽の感覚を取り入れながら、アラブ歌謡の形を変えました。レバノンのファイルーズは、ラフバーニー兄弟らとともに、レバントの詩情、舞台、放送文化を結びつけ、アラブ世界で広く聴かれる声となりました。シリアのサバーハ・ファフリーは、アレッポの歌唱伝統を現代に強く印象づけた歌手です。
ここで重要なのは、近代化が単に「西洋化」ではなかったことです。ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、アコーディオン、映画オーケストラのような要素が加わっても、マカーム、詩、声、即興、聴衆との関係は残り続けました。
トルコ、ペルシア、地中海とのつながり
アラブ音楽は、周辺世界と切り離された孤立した音楽ではありません。トルコのマカーム(makam)、ペルシア音楽のダストガー(dastgah)、ギリシアやバルカン、北アフリカ、地中海の音楽と長い交流があります。
| 文化圏 | 共通点 | 注意したい違い |
|---|---|---|
| アラブ音楽 | マカーム、詩、声、即興、都市歌謡 | 地域差が大きく、エジプト・レバント・イラク・マグリブで響きが異なる |
| トルコ古典音楽 | makam、微細な音程、宮廷・都市文化 | オスマン宮廷の理論、拍節法、レパートリーが独自に発達 |
| ペルシア古典音楽 | 旋法的思考、即興的展開、声の装飾 | ダストガーとラディーフを中心に学ぶ体系を持つ |
| ギリシア・地中海 | 楽器や旋律、都市歌謡の交流 | 言語、宗教、近代国家形成の違いで別の音楽文化へ展開 |
「中東音楽」とひとまとめにすると便利ですが、実際には、都市、言語、宗教、民族、国家、移民の歴史が複雑に重なっています。アラブ音楽を理解することは、周辺の音楽をすべて同じにすることではなく、似ているところと違うところを見分ける入口になります。
西洋音楽・日本音楽・インド音楽と比べると何が違うのか
アラブ音楽の特徴は、他の音楽と比べると見えやすくなります。ただし、比較は優劣をつけるためではありません。音楽が何を大切にしてきたかを見るための道具です。
| 音楽文化 | 中心になりやすい考え方 | アラブ音楽との比較 |
|---|---|---|
| 西洋クラシック音楽 | 和声、楽譜、作曲家、楽章構成、管弦楽 | アラブ音楽は和声進行より旋律展開と声の表情を重視しやすい |
| 日本の伝統音楽 | 間、語り、節回し、楽器ごとの音色、場の格式 | 声と言葉を重視する点で近いが、マカームの理論体系とは異なる |
| インド古典音楽 | ラーガ、ターラ、長い即興、師弟伝承 | 旋法と即興を重視する点は近いが、ラーガとマカームは同じものではない |
| アラブ音楽 | マカーム、詩、声、微分音、タクスィーム、都市歌謡 | 旋律の道を声と楽器でたどり、聴衆と時間を共有する |
西洋音楽に慣れている人は、アラブ音楽を聴くと「コード進行はどうなっているのか」と考えがちです。しかし、聴き方を少し変えてみてください。どの音が中心なのか。声はどの言葉を何度も繰り返すのか。楽器は歌のように息をしているか。タクスィームは、どのように緊張を作り、どこで落ち着くのか。そこに注目すると、別の秩序が見えてきます。
日本音楽に親しんでいる人なら、「間」や「節回し」を手がかりにできます。雅楽、声明、民謡、浪曲、長唄など、日本にも言葉と旋律が一体になった音楽は多くあります。サイト内では、声・歌・舞が一体となる日本の伝統芸能の見方として、神明雅楽・七夕の歌宴の記事も参考になります。
近代日本で西洋音楽が学校、レコード、ラジオ、映画を通じて広がった流れと比べるなら、日本近代音楽の歴史も対照になります。アラブ世界でも、ラジオ、映画、録音産業は音楽の広がり方を大きく変えました。
よくある誤解
誤解1:アラブ音楽は全部「四分音の音楽」である
四分音という説明は入口として便利ですが、実際の音程はもっと柔軟です。マカームによって微分音を強く感じるものもあれば、西洋の半音階に近く聴こえるものもあります。地域や演奏伝統によっても音程は変わります。
誤解2:マカームは西洋のモードと同じである
似ている部分はありますが、マカームは単なる音階名ではありません。中心音、典型的な旋律句、進行、転調、装飾、演奏慣習まで含む体系です。
誤解3:即興はその場の思いつきである
タクスィームは自由ですが、無秩序ではありません。演奏者はマカームの性格を守りながら、その場で道筋を作ります。伝統を知らないと自由に見え、知っていると判断の細かさが見えてきます。
誤解4:アラブ音楽、トルコ音楽、ペルシア音楽は同じである
歴史的な交流はありますが、同じではありません。似た用語や楽器があっても、理論、演奏法、言語、詩、レパートリーが異なります。
誤解5:宗教的な朗唱はすべて音楽である
外から聴くと音楽的に感じられる朗唱も、宗教的には音楽と同一視されない場合があります。アラブ世界の声の文化を考えるうえで重要ですが、信仰上の位置づけは慎重に扱う必要があります。
現代とのつながり――YouTubeで聴く前に知っておきたいこと
いまは、ウード独奏、タクスィーム、ウンム・クルスーム、ファイルーズ、サバーハ・ファフリー、マルセル・ハリーフェ、エジプト映画音楽、レバントの歌謡などを、動画や配信で簡単に聴けます。
ただし、最初から「正解」を探す必要はありません。次の順番で聴くと、違いが見えやすくなります。
- ウードやナイの短いタクスィームを聴く
- マカーム名が付いた演奏をいくつか比べる
- 歌ものを聴き、同じ言葉がどう繰り返されるかを見る
- ウンム・クルスームの長い歌を、数分ずつ分けて聴く
- エジプト、レバント、イラク、マグリブの違いを少しずつ聴き分ける
アラブ音楽は、一度で全体を理解する音楽ではありません。むしろ、同じ旋律が戻ってくるたびに少し違って聴こえ、同じマカームの中で景色が深まっていく音楽です。
FAQ
アラブ音楽とアラビア音楽は同じですか?
日本語では「アラブ音楽」「アラビア音楽」が近い意味で使われることがあります。ただし、アラブ音楽という場合は、アラビア語圏の多様な音楽文化を指すことが多く、エジプト、レバント、イラク、湾岸、マグリブなど地域差を含みます。
マカームはいくつありますか?
数え方によって異なります。基本的なマカーム、派生的なマカーム、地域的な名称をどう扱うかで数が変わります。初心者は、ラスト、バヤーティー、ヒジャーズ、ナハワンド、アジャム、サバ、シーカーなど、よく出る名前から聴くとよいでしょう。
ピアノでアラブ音楽は弾けますか?
一部のマカームや近代的な編曲はピアノでも演奏できます。ただし、微分音や細かな装飾を忠実に表すには限界があります。現代にはオリエンタル・キーボードのように微分音設定ができる楽器もあります。
アラブ音楽は悲しい音楽なのですか?
必ずしも悲しい音楽ではありません。日本人の耳には、微分音や装飾のために哀愁を感じやすい曲もありますが、祝祭的な曲、舞踊的な曲、宗教的な曲、恋愛歌、愛国歌、映画音楽など、表情は非常に幅広いです。
最初に何を聴けばよいですか?
短い入口としては、ウードやナイのタクスィームがおすすめです。その後、ウンム・クルスーム、ファイルーズ、サバーハ・ファフリーなどの歌を聴くと、マカーム、詩、声、聴衆の関係が見えやすくなります。
まとめ――アラブ音楽は、旋法と声で時間を深める音楽だった
アラブ音楽は、西洋音楽のドレミに少し変わった音を足しただけの音楽ではありません。マカームという旋律の道があり、微分音がその道の色を作り、タクスィームが道を実際に歩いてみせ、声と詩が時間を深めます。
和音が進んでドラマを作る西洋音楽に対し、アラブ音楽では、一つの旋律が何度も戻り、少しずつ表情を変え、聴き手の耳を遠くへ連れていきます。そこでは、作曲された曲と即興、楽器と声、宗教的な朗唱文化と都市の娯楽、宮廷と民衆、古典と近代メディアが重なっています。
「中東っぽい音」としてではなく、マカーム、声、詩、即興の高度な文化として聴くと、アラブ音楽はぐっと立体的に見えてきます。次にウードの一音や歌手の長いメリスマを聴いたとき、その音はもう単なる装飾ではなく、旋法の道を進む一歩として感じられるはずです。
このテーマを続けて読む
- 日本近代音楽の歴史|幕末の洋楽受容から滝廉太郎・古賀政男・歌謡曲まで
- 七夕の歌宴とは?神明雅楽・和歌披講・催馬楽・央宮楽を初心者向けに解説
- コーヒーの世界史|宗教・帝国・都市文化を動かした一杯の物語
- ゆる歴史散歩会のまるわかりガイド一覧
参考文献・参考サイト
- MaqamWorld “The Arabic Maqam”
- MaqamWorld “Arabic Musical Instruments”
- MaqamWorld “The Oud”
- MaqamWorld “The Qanun”
- MaqamWorld “The Nay”
- Smithsonian Folkways “Egypt: Taqâsîm and Layâlî: Cairo Tradition”
- UNESCO Intangible Cultural Heritage “Iraqi Maqam”
- UNESCO Intangible Cultural Heritage “Al-Qudoud al-Halabiya”
- UNESCO Intangible Cultural Heritage “Crafting and playing the Oud”
- Mohamed Ahmed, “Arabic Music Genre Identification,” 2024
- Barış Bozkurt, “An Open Research Dataset of the 1932 Cairo Congress of Arab Music,” 2025
- Johnny Farraj and Sami Abu Shumays, Inside Arabic Music: Arabic Maqam Performance and Theory in the 20th Century, Oxford University Press, 2019.
- Habib Hassan Touma, The Music of the Arabs, Amadeus Press, 1996.
- Virginia Danielson, The Voice of Egypt: Umm Kulthum, Arabic Song, and Egyptian Society in the Twentieth Century, University of Chicago Press, 1997.
- Scott L. Marcus, Music in Egypt: Experiencing Music, Expressing Culture, Oxford University Press, 2007.
