映画を発明したのは誰?エジソン、ディクソン、リュミエール兄弟から日本映画の始まりまで

映画の撮影機、のぞき見式装置、スクリーン上映、活動弁士へと発明が受け継がれる様子を描いたイメージ

映画を発明したのは、エジソンでしょうか。リュミエール兄弟でしょうか。それとも、エジソン研究所で実験を担ったウィリアム・K・L・ディクソンでしょうか。

「映画」には、連続写真の撮影、フィルム送り、動く像の鑑賞、スクリーン投影、有料興行、継続的な作品製作まで、複数の段階が含まれます。

シリーズ「もう一人の発明者」第1弾として、先行技術、研究所の分業、投影機の競争、日本への伝来と独自の発展をたどります。

30秒で分かる結論|映画を発明したのは「一人」ではありません

映画の成立を大きく分けると、次のようになります。

動きを連続写真で分解する → 柔軟なフィルムに記録する → 撮影機で連続撮影する → 装置の中で動く像を見せる → スクリーンへ投影する → 観客を集めて興行する → 世界各地で撮影・上映する → 作品製作と映画館を産業化する

人物・組織主な役割
マイブリッジ、マレーら人や動物の運動を連続写真で分析し、動きを分解して記録する道を開いた
トーマス・エジソン研究課題を設定し、研究所・特許・製造・販売をまとめ、米国の映画事業を組織した
ウィリアム・K・L・ディクソンと研究所チーム撮影機キネトグラフと、のぞき見式キネトスコープの実験・具体化を中心的に担った
リュミエール兄弟撮影・プリント・投影を行えるシネマトグラフを開発し、集団で見る有料上映と国際展開を実現した
レイサム家、ジェンキンズ、アーマットら投影方式を競い、エジソン陣営がヴァイタスコープへ進むきっかけを作った
興行主、技師、撮影者、弁士、映画会社機械を一時の見世物から、継続する文化と産業へ変えた

個人用の動画装置を実用化した中心はエジソン研究所とディクソン、現在の映画館に近い集団上映を成立させた中心はリュミエール兄弟です。映画全体は、技術・興行・文化に関わる多くの人々によって成立しました。

映画は突然生まれなかった|写真、幻灯、運動研究の積み重ね

静止画を速く見せれば動いて見える

映画以前にも、絵や写真を連続して見せる回転のぞき絵、幻灯、投影装置がありました。少しずつ異なる像が続くと、人の目と脳は一つの連続した運動として受け取ります。

短い露光で連続撮影できる感光材料、長く巻ける柔軟なフィルム、フィルムを一こまずつ止めて進める機構、明るい光源、安定したレンズ、同じ規格で複製・上映する仕組みが必要でした。19世紀末にこれらがそろい、複数の開発者がほぼ同時期に「動く写真」へ到達しました。

マイブリッジとマレーは、動きを「見えるデータ」にした

エドワード・マイブリッジは、並べたカメラで人や動物の運動を連続撮影しました。フランスの生理学者エティエンヌ=ジュール・マレーは、クロノフォトグラフィと呼ばれる連続写真を用い、歩行、跳躍、鳥の飛行などを科学的に分析しました。

米国議会図書館は、二人を瞬間写真とクロノフォトグラフィの先駆者として紹介しています。動きを一連の静止画像へ分解し、再び連続して見せるという映画の前提を築きました。[1]

先行者の成果がそろうと、同時発明が起こる

写真家、化学会社、機械工、科学者、幻灯業者、蓄音機事業者は、それぞれ画像、材料、送り機構、興行の知識を蓄積しました。

その結果、米国、フランス、英国などで、撮影機や投影機の開発が短期間に重なりました。

エジソン研究所で何が起きたのか|構想したエジソン、具体化したディクソン

エジソンが示したのは「目のための蓄音機」という事業構想

トーマス・エジソンは1888年ごろ、蓄音機が音を保存・再生するように、動く像を記録して見せる装置を構想しました。大規模な研究所で課題を分け、試作、特許、製造、販売をつなげました。

ラトガース大学のエジソン文書研究所によれば、1892年までにエジソンとディクソンは、映画を撮るキネトグラフと、のぞき穴から一人で見るキネトスコープを具体化しました。1894年4月にはニューヨークで最初のキネトスコープ・パーラーが開業しています。[2]

ディクソンは研究所の「もう一人」ではなく、中心的な実験者だった

ウィリアム・ケネディ・ローリー・ディクソンは、同僚のウィリアム・ハイゼらと、フィルムの幅、送り方、シャッター、撮影速度、照明、撮影機と鑑賞機の組み合わせを試行錯誤しました。

米国議会図書館は、エジソン研究所による映画装置の仕事の大部分をディクソンが担ったと記しています。エジソンは研究資金、設備、方針、特許、製造・販売の組織を提供しました。[3]

ブラック・マリアは、撮影所という新しい職場を作った

エジソン研究所の敷地には、映画撮影用の建物「ブラック・マリア」が設けられました。初期の感光材料は多くの光を必要としたため、屋根を開け、太陽の向きに合わせて建物を動かす構造でした。

ここでダンス、曲芸、ボクシング、くしゃみなどの短い映像が作られ、キネトスコープへ供給されました。撮影場所、出演者、フィルム供給、販売カタログが整い、映画は小規模な産業になり始めます。米国国立公園局も、ディクソンを長とするチーム、キネトグラフ、キネトスコープ、ブラック・マリアの関係を紹介しています。[4]

キネトスコープは成功したが、現在の映画館とは違った

キネトスコープでは、箱の内部を高速で走るフィルムを一人ずつのぞきます。短い映像を見るたびに料金を払う仕組みは、蓄音機の試聴機とよく似ていました。

商業的には成功しましたが、一台で鑑賞できるのは一度に一人でした。大勢を一つのスクリーンの前へ集める映画館とは異なり、この違いが投影機競争につながりました。

スクリーン投影を発明したのは誰か|リュミエール兄弟だけではない競争

エジソンは投影式への移行が遅れた

キネトスコープが利益を上げていたため、エジソン陣営の投影式への移行は遅れました。その間に、ウッドヴィル・レイサムと息子たちは1895年4月にエイドロスコープを公開し、C・フランシス・ジェンキンズとトーマス・アーマットは同年9月にファントスコープを実演しました。

米国議会図書館によれば、アーマットの装置の権利を扱う事業者がエジソンへ接近し、エジソン社は製造とフィルム供給を引き受けました。装置は「エジソンの発明」であるヴァイタスコープとして宣伝され、1896年4月23日にニューヨークで劇場公開されました。[5]

リュミエール兄弟は、軽い機械と集団上映を結びつけた

フランスのオーギュスト・リュミエールとルイ・リュミエールは、写真乾板事業を営む家族企業でシネマトグラフを開発しました。特許は兄弟の名で1895年2月13日に取得され、リュミエール研究所は送り機構の原理を見いだした中心人物を弟ルイとしています。

シネマトグラフは手回しで、同じ装置を撮影、フィルムのプリント、投影に使えました。間欠送りによって像を明るく投影でき、1895年3月22日に限定的な公開実演、12月28日にパリのグラン・カフェで一般向けの有料上映が行われました。[6]

リュミエール兄弟の革新は「観客を発明した」ことだった

リュミエール兄弟は、軽量な装置、複数の短編、料金を払う観客、会場、世界へ派遣する技師を一つの仕組みにしました。

リュミエール社は1896年から、都市や国ごとに上映権を扱う事業者へ機材とフィルムを貸し、訓練した技師を送りました。技師の一部は現地を撮影し、そのフィルムは別の国の上映番組へ加わりました。[7]

ディクソンはエジソンを離れ、競争相手になった

ディクソンは1895年にエジソン研究所を離れ、アメリカン・ミュートスコープ社の設立に加わりました。同社は後にバイオグラフ社としてエジソン社の有力な競争相手になります。

結局、映画を発明したのは誰?|工程別に答えを変える

問い中心となる人物・組織注意点
動きを連続写真で研究したのは?マイブリッジ、マレーら映画興行を目的とした研究ではない
実用的な連続撮影機とのぞき見装置を作ったのは?エジソン研究所、ディクソン、ハイゼらエジソンの組織・資金・特許戦略と切り離せない
米国で個人鑑賞を事業化したのは?エジソン社と販売事業者キネトスコープはスクリーン投影ではない
投影機を早く公開したのは?レイサム家、ジェンキンズ、アーマット、リュミエール兄弟ら公開日、装置の完成度、有料興行など基準が異なる
現在の映画館に近い有料集団上映を定着させたのは?リュミエール兄弟と上映網装置だけでなく会場・番組・観客・技師が重要
ヴァイタスコープを発明したのは?ジェンキンズ、アーマットを中心とする系譜エジソン名で大きく宣伝・製造された
映画を産業にしたのは?撮影者、会社、興行主、映画館、配給、観客一人の発明者を決められない

映画は19世紀末の写真・化学・機械・興行が合流した集合的発明です。

発明された映画が、撮影所、配給、映画館、スターを束ねる巨大産業へ発展した過程は、ハリウッドの歴史|映画の街はなぜ生まれ、世界を動かす産業になったのかで詳しく解説しています。

なぜエジソンだけが有名になりやすいのか

エジソンは電球、蓄音機など多くの技術と結びついた大きなブランドでした。特許と会社名が記録に残り、装置や作品が「エジソン」の名で販売されたため、研究所の技術者や外部発明者の名前が見えにくくなりました。

エジソンは研究課題、資金、設備、製造、映画供給、権利保護をまとめ、映画事業を継続させました。

映画は日本へどう伝わったのか|輸入機械から活動写真文化へ

1896年、神戸でキネトスコープが公開された

日本で最初に広く知られる映画体験は、箱を一人ずつのぞく方式でした。神戸市によれば、1896年11月25日、神戸・花隈の神港倶楽部でキネトスコープが一般公開されました。観客は箱を一人ずつのぞき、短い動く写真を見ました。[8]

この公開を記念する映画記念碑が、現在の神戸・メリケンパークにあります。

1897年、投影式映画が複数の経路から入った

翌1897年には、ヴァイタスコープやシネマトグラフなどの投影式装置が大阪、京都、東京、横浜などで相次いで上映されました。関係者が別々の装置を持ち込み、試写、招待上映、一般公開、有料興行が短期間に重なりました。

国立映画アーカイブの常設展も、キネトスコープ、ヴァイタスコープ、シネマトグラフ、当時のポスターを並べ、複数の経路から伝来したことを示しています。[9]

稲畑勝太郎は、機械だけでなく国際的な上映事業を持ち帰った

京都の実業家・稲畑勝太郎は、フランス留学時代の縁からリュミエール兄弟と結びつき、シネマトグラフと技師コンスタン・ジレルを日本へ導きました。

後に発見された稲畑の書簡からは、当初持ち帰った三台に追加の一台を加え、合計四台を用いたこと、京都・大阪・東京などへ興行を広げようとしたこと、リュミエール社へ売上を送り、フィルムや機材の購入を交渉したことが分かります。映画伝来には契約、訓練、収益分配、都市間の展開が含まれていました。[10]

外国人技師が日本を撮り、日本人撮影者が続いた

リュミエール社のコンスタン・ジレルやガブリエル・ヴェールは、日本各地の風景や人々を撮影しました。国立映画アーカイブが公開する『明治の日本』は、日本で撮影された現存最古級の動く映像です。一部は日本人カメラマンの草分け・柴田常吉が撮影したともされます。[11]

柴田が1899年に撮影した歌舞伎『紅葉狩』は、日本人が撮影した現存最古の日本映画です。九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の演技を保存する目的もありました。[12]

活動弁士と楽士が、日本独自の「映画」を作った

日本では活動弁士が登場人物の台詞、筋書き、外国の風俗を説明し、楽士が場面に合わせて演奏しました。

映画館は人気弁士の名前を宣伝し、同じフィルムでも弁士と楽団によって印象が変わりました。国立映画アーカイブは、弁士の評判が映画館の人気を左右するほど重要だったと説明しています。[13]

講談、浪曲、歌舞伎、寄席、楽隊の文化がスクリーン上映と結びつき、日本独自の鑑賞方式が生まれました。

1903年、常設館が「いつでも映画を見られる街」を作った

1903年、東京・浅草に日本初の映画常設館とされる電気館が開業しました。国立映画アーカイブは、電気館を日本初の映画常設館として紹介しています。[14]

常設館には、毎日上映するフィルム、映写技師、弁士、楽士、宣伝、入場料、消防・電気設備が必要です。新作需要が増えると、撮影、現像、配給、映画会社、撮影所が育ちました。

その後の流れは、関連​​記事「国立映画アーカイブでたどる日本映画の歴史」で解説しています。

現在とのつながりと、現地で見られる場所

映画の発明はスマートフォン動画にも続いている

スマートフォン動画にも、連続する像の記録、一定速度での再生、音の同期、複製・配布、料金や権利の管理という映画発明期の課題が続いています。

キネトスコープの一人で短い動画を見る体験はスマートフォンの短尺動画に、シネマトグラフの大勢が同じ画面を見る体験は映画館に通じます。

現地で見られる場所

場所見られるつながり注意点
国立映画アーカイブ(東京・京橋)映画前史、初期映写機、日本への伝来、『紅葉狩』、活動弁士、映画会社資料展示替え、上映日、開館情報を公式サイトで確認
神戸・メリケンパーク映画記念碑1896年のキネトスコープ公開と神戸の映画史屋外碑。神港倶楽部の建物そのものではない
Thomas Edison National Historical Park(米国・ニュージャージー州)エジソン研究所、映画装置、ブラック・マリアの歴史公開施設と見学条件を事前確認
Musée Lumière(フランス・リヨン)シネマトグラフ、リュミエール家と工場、世界の撮影技師休館・改修・展示情報を公式サイトで確認

よくある疑問・誤解

エジソンは映画を盗んだだけなのですか?

ヴァイタスコープの元になった投影機はジェンキンズとアーマットの開発系譜にあり、エジソン名による宣伝が実際の功績を見えにくくしました。一方、キネトグラフとキネトスコープの研究、撮影所、フィルム供給、製造・販売、特許事業にはエジソン研究所が大きな役割を果たしました。[3][5]

ディクソンこそ唯一の本当の発明者ですか?

ディクソンはキネトグラフとキネトスコープを具体化した中心技術者です。ただし、先行する写真・運動研究、同僚の実験、エジソンの研究所、フィルム材料、機械製造、販売組織によって映画事業が成立しました。[3]

リュミエール兄弟が史上初めて映像をスクリーンへ映したのですか?

投影装置にはレイサム家、ジェンキンズ、アーマットら複数の先行者・競争者がいました。リュミエール兄弟は、撮影と投影ができる実用的な装置、複数作品の番組、有料の集団上映、技師とフィルムを世界へ送る事業を結びつけました。[5][6]

『列車の到着』を見た観客が逃げ出したという話は本当ですか?

『ラ・シオタ駅への列車の到着』は1895年12月28日の最初の有料上映プログラムに含まれておらず、観客の集団パニックも確かな同時代資料で裏づけにくい逸話です。

映画の誕生日はいつですか?

基準によって変わります。キネトスコープの公開や商業化では1893~1894年、現在の映画館に近い一般向け有料集団上映では、リュミエール兄弟がパリで上映した1895年12月28日が広く使われます。[2][6]

キネトスコープ、ヴァイタスコープ、シネマトグラフは何が違うのですか?

キネトスコープは一人でのぞく鑑賞装置です。ヴァイタスコープはスクリーンへ投影する装置で、ジェンキンズとアーマットの開発系譜をエジソン陣営が製造・宣伝しました。シネマトグラフはリュミエール兄弟の軽量な装置で、撮影、フィルムのプリント、投影に用いられました。[2][5][6]

日本で最初の映画は何ですか?

最初の一般公開された活動写真としては、1896年に神戸で公開されたキネトスコープが挙げられます。投影式映画は1897年に複数の装置と経路で紹介されました。日本で撮影された現存最古級の映像は外国人技師による『明治の日本』、日本人が撮影した現存最古の日本映画は柴田常吉の『紅葉狩』(1899年)です。[8][9][11][12]

まとめ|映画の発明者を一人に決めると、映画そのものが見えなくなる

エジソンは研究所と事業を率い、ディクソンは同僚とキネトグラフとキネトスコープを具体化しました。リュミエール兄弟はシネマトグラフと上映網によって集団上映を世界へ広げ、レイサム家、ジェンキンズ、アーマットらは投影方式を競いました。日本では、輸入商、実業家、外国人技師、興行主、撮影者、活動弁士、楽士、映画館が技術を受け取り、独自の活動写真文化を育てました。

シリーズ・関連記事

参考文献・参考サイト

  1. Library of Congress, “Animal Locomotion: From Antiquity to the 21st Century”
  2. Thomas A. Edison Papers, Rutgers University, “The Peephole Kinetoscope”
  3. Library of Congress, “History of Edison Motion Pictures”
  4. National Park Service, “Motion Pictures”
  5. Library of Congress, “Shift to Projectors and the Vitoscope”
  6. Institut Lumière, “Le Cinématographe Lumière”
  7. Institut Lumière, “Les films Lumière”
  8. 神戸市「神戸を知る 映画記念碑」
  9. 国立映画アーカイブ「NFAJコレクションでみる 日本映画の歴史」
  10. 長谷憲一郎・堀潤之「稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡4通の発見について」『映像学』101号
  11. 国立映画アーカイブ「明治期製作の映画」
  12. 国立映画アーカイブ「『紅葉狩』赤染色版の発掘と林又一郎コレクション」
  13. 国立映画アーカイブ「こども映画館 2023年の夏休み」
  14. 国立映画アーカイブ「日本の映画館」展プレスリリース
  15. Institut Lumière, “Musée Lumière”