徐福はどこへ行ったのか|始皇帝の不老不死探索と『地獄楽』

袁江が1708年に描いた海上の仙境・蓬莱島 世界史・国際関係
袁江「蓬莱仙島図」、1708年。故宮博物院所蔵/Wikimedia Commons/Public Domain Mark 1.0。

『地獄楽』で死罪人たちが送り込まれるのは、琉球のさらに先に浮かぶ神仙郷です。島の中心は蓬莱、中間は方丈、外側は瀛州と呼ばれ、不老不死をもたらす仙薬が探し求められます。

これらの名前は、秦の始皇帝が東方の海へ人々を送り出した古い記録につながります。派遣された方士が徐福です。史書が残した短い航海記録は、中国の神仙思想、日本各地の渡来伝承、現代の漫画・アニメへ姿を変えながら受け継がれました。

※作品後半の設定に触れます。

徐福を海へ送り出した始皇帝

紀元前221年、秦王政は戦国諸国を統一し、皇帝の称号を創設して始皇帝しこうていと称しました。巨大な帝国を築いた皇帝が次に求めたものの一つが、死を免れる方法です。

19世紀半ばに描かれた秦始皇帝の想像肖像
秦始皇帝の想像肖像、1850年頃。作者不詳/Wikimedia Commons/Public Domain Mark 1.0。

戦国時代から秦・漢代にかけて、占術、祭祀、医薬、仙人の術などに通じた者は方士ほうしと呼ばれました。東方の海には仙人が住み、老いを止める薬があるという語りが、斉や燕の海辺を中心に広がっていました。

紀元前219年、斉の方士徐福じょふくは始皇帝に上書します。海中には蓬莱・方丈・瀛洲という三つの神山があり、仙人が住んでいる。そこへ赴きたいという申し出でした。始皇帝は童男童女数千人を同行させ、徐福を海へ送り出しました。

掲載画像は1850年頃に制作された後世の想像肖像です。秦代から約2000年後に形成された始皇帝像を伝えます。

『史記』が記す徐福の航海

司馬遷しばせんの『史記しき』には、徐福じょふくの航海が複数の箇所に現れます。記述を並べると、始皇帝への進言から帰還しなかった結末までがつながります。

史料記されている内容
『史記』秦始皇本紀徐福が海中の三神山を語り、童男童女数千人を伴って仙人を探しに出たことを記します。のちに徐福は、大魚に行く手を阻まれたと始皇帝へ説明しました。
『史記』淮南衡山列伝徐福が童男童女、穀物の種、さまざまな技術者を伴って再び海へ出たことを記します。一行は「平原広沢」に至り、徐福はそこにとどまって王となり、帰還しなかったとされます。

『史記』が到着地に用いた表現は「平原広沢」です。日本列島との結びつきは、徐福の行方が具体的な地名で閉じられなかった空白に、後世の地域伝承が重なって生まれました。

徐福の旅には、皇帝の命令、数千人規模の移動、穀物の種、技術者という要素が含まれます。このため後世には、仙薬探索だけでなく、農耕や織物、医薬などを各地へ伝えた文化英雄としても語られるようになりました。これらは地域ごとに発達した伝承であり、『史記』の記述とは成立時期が異なります。

蓬莱・方丈・瀛洲とは何か

徐福じょふくが目指したのは、東方海上の三神山でした。

  • 蓬莱ほうらい
  • 方丈ほうじょう
  • 瀛洲えいしゅう

三神山には仙人が住み、不死の薬があると信じられました。海の彼方にある理想郷として語り継がれた場所です。蓬莱は三神山を代表する名となり、文学、庭園、絵画、祝賀の意匠へ広がりました。

袁江が1708年に描いた海上の仙境・蓬莱島
袁江「蓬莱仙島図」、1708年。故宮博物院所蔵/Wikimedia Commons/Public Domain Mark 1.0。

清代の画家袁江えんこうが1708年に描いた「蓬莱仙島図」には、雲海の上にそびえる山と楼閣が表現されています。後世に想像された蓬莱の仙境を伝える絵画です。

『史記』の表記は「瀛洲」です。『地獄楽』公式用語集では「瀛州」と表記され、神仙郷の外側に再配置されています。

神仙思想と道教はどうつながるのか

神仙思想しんせんしそうは、人が修行や薬によって仙人となり、長寿や不死へ至るという考えです。山岳、洞窟、海上の島は俗世から離れた仙境とされ、方士は仙人との交信、祭祀、医薬、占術などを担いました。

秦代の方士が活動した時代から数世紀を経て、後漢期以降に教団、経典、儀礼を備えた道教が発達します。道教は神仙思想、養生法、民間信仰、老荘思想などを取り込み、不死への道を体系化しました。

その方法は、後世に外丹がいたん内丹ないたんへ整理されます。

方法内容
外丹鉱物や金属などを炉で加熱・精製し、体外で丹薬を作ります。
内丹呼吸、瞑想、身体操作を通じ、精・気・神を体内で練り上げます。

秦代の徐福伝承と、後世に体系化された外丹・内丹には時間差があります。『地獄楽』は両者を一つの島の歴史へ組み込み、徐福の探索、仙薬の製造、天仙の修行を結びつけました。

後世の文人文化では、道教的な隠逸や養生の観念が琴や詩とも交わりました。関連する文化史は、中国古典音楽とは何か|琴・詩・文人で読む音の思想史で扱っています。

丹薬はなぜ水銀へ近づいたのか

外丹がいたん術で重要な材料となったのが、辰砂しんしゃです。辰砂は赤色の硫化水銀で、化学式はHgSです。顔料の朱としても使われ、鮮やかな色と変化しにくさから、生命力や永続性を連想させました。

赤色の硫化水銀鉱物である辰砂の標本
辰砂(硫化水銀)の鉱物標本。U.S. Geological Survey/Wikimedia Commons/Public Domain。

辰砂を加熱すると水銀を取り出せます。銀色の液体となった水銀は、硫黄と再び結びつくと赤い硫化水銀へ戻ります。赤い鉱物が流動する金属となり、再び赤い物質へ戻る変化は、死と再生を思わせました。

水銀の毒性は、元素水銀、無機水銀、有機水銀などの化学形態と摂取経路によって変わります。辰砂は水に溶けにくい一方、長期間の服用、高用量の摂取、加熱で生じる水銀蒸気への曝露は、神経や腎臓などを損なう危険を高めます。

不死を求めて作られた丹薬たんやくが、服用者の身体を傷つけることがありました。

日本各地に残る徐福伝承

史記しき』の「平原広沢」は、後世の人々が徐福じょふくの到着地を想像する余地を残しました。日本では海に面した地域を中心に、徐福上陸、仙薬探索、技術伝来、墓所の伝承が育ちました。

和歌山県新宮市

和歌山県新宮しんぐう市の徐福公園には、徐福の墓、徐福像、七人の重臣の碑、不老の池があります。園内には、市の木である天台烏薬てんだいうやくも植えられています。地域では、徐福がこの木を不老不死の霊薬として見いだしたと伝えます。

天保5年(1834年)、紀州藩の儒者が文を記した顕彰碑が作られましたが、海上輸送中に沈みました。残された書を基に、現在の碑が昭和15年(1940年)に建立されました。古代の渡来伝承が、江戸後期から近代の顕彰事業へ受け継がれた経緯を示します。

佐賀市諸富町と金立山

佐賀市諸富もろどみ町には、徐福が筑後川下流へ上陸したという伝承が残ります。上陸地とされる寺井津てらいつには記念碑群が立ち、片葉の葦や有明海の魚「えつ」にまつわる物語も語られています。

佐賀市諸富町寺井津に立つ徐福上陸地の記念碑群
佐賀市諸富町寺井津の徐福上陸地記念碑群、2017年1月27日。撮影:Pekachu/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

一行は北へ進み、金立きんりゅう山で仙薬を探したと伝えられます。金立神社では徐福が祭神の一柱となり、麓の金立公園には徐福長寿館と薬用植物園があります。地域伝承が神社、公園、資料施設、街歩きの経路へ形を変えた例です。

鹿児島県いちき串木野市

鹿児島県いちき串木野市生福せいふくの冠岳展望公園には、高さ6メートルの徐福石像が立っています。串木野市制施行50周年を記念し、2000年に建立されました。

鹿児島県いちき串木野市生福に立つ徐福像
いちき串木野市生福の徐福像、2023年12月17日。撮影:Tasps8080aux/Wikimedia Commons/CC0 1.0。

この像は、地域が徐福伝承を記念するために制作した現代の造形物です。各地の像、墓、上陸碑は、徐福を地域の祖先、技術の伝来者、日中交流の象徴として記憶してきた歴史を伝えます。

『地獄楽』は伝承をどう組み替えたのか

『地獄楽』公式用語集には、徐福じょふく神仙郷しんせんきょう、仙薬、蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛州えいしゅう内丹ないたん法、外丹がいたん法が掲載されています。作品は異なる時代に発達した神仙思想と道教用語を、一つの島の構造と不死研究へ組み替えています。

現実の史料・思想『地獄楽』での再構成
『史記』では蓬莱・方丈・瀛洲が東方海上の三神山として並びます。瀛州が外側、方丈が中間、蓬莱が中心という一つの島の階層になります。
徐福は始皇帝の命を受けて仙人と仙薬を探します。徐福の探索と島の不死研究が、天仙や仙薬の成り立ちへ結びつきます。
外丹と内丹は後世の道教で体系化されました。仙薬の精製と身体修行が、島に共存する二つの研究方法として描かれます。
史書は徐福の行方を「平原広沢」と記します。琉球のさらに先にある神仙郷という具体的な舞台が与えられます。
三神山は海上の仙境として語られます。花、人体、氣、宗教建築、実験施設が混ざる生物学的・宗教的な異界になります。

作品の島は、三神山、道教、仏教、仙薬、人体改造などを組み合わせた創作世界です。史書の短い記述に残された、徐福が帰らなかった先の空白を物語へ変えています。

今も歩ける徐福伝承の場所

徐福じょふく伝承は、現在の公園、神社、資料館、記念碑に残っています。

地域主な場所現地で分かること
和歌山県新宮しんぐう徐福公園、徐福の墓、顕彰碑熊野の徐福伝承、天台烏薬、近代の顕彰碑建立
佐賀市諸富もろどみ寺井津てらいつの上陸記念碑群、徐福サイクルロード筑後川下流の上陸伝承、片葉の葦、地域景観との結びつき
佐賀市金立きんりゅう金立神社、徐福長寿館、薬用植物園仙薬探索の伝承、祭神となった徐福、薬草文化
鹿児島県いちき串木野市生福せいふくの徐福像南九州に広がった徐福顕彰の姿

まとめ

徐福じょふくは、秦始皇帝しんのしこうていに東方海上の三神山を語り、数千人を伴って仙薬を探しに出た方士ほうしとして『史記しき』に記されました。史書の到着地は「平原広沢」にとどまり、その空白へ中国と日本の各地が物語を重ねました。

蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛洲えいしゅうは海上の仙境から絵画や庭園の意匠へ広がり、不死を求める技術は後世の外丹がいたん内丹ないたんへ体系化されました。辰砂しんしゃと水銀は、再生を思わせる変化と有害性を併せ持つ物質でした。

『地獄楽』は、徐福の航海、三神山、仙薬、内丹、外丹を一つの島へ集めています。史書に残された短い航海記録と、二千年以上にわたって積み重なった不老不死の想像力が、作品の神仙郷しんせんきょうを支えています。

参考文献

  1. 司馬遷『史記』「秦始皇本紀」中国哲学書電子化計画
  2. 司馬遷『史記』「淮南衡山列伝」中国哲学書電子化計画
  3. 中国哲学書電子化計画「徐福」
  4. 村松弘一「『徐福伝説』の来た道―秦徐福碑をめぐって」『物語研究』第25巻、2025年、88~111頁
  5. Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Religious Daoism”
  6. Liu J. et al., “Mercury in traditional medicines: Is cinnabar toxicologically similar to common mercurials?”
  7. Wang J. et al., “Mercury and Mercury-Containing Preparations: History of Use, Clinical Applications, Pharmacology, Toxicology, and Pharmacokinetics in Traditional Chinese Medicine”
  8. 『地獄楽』公式サイト「用語集」
  9. 新宮市「徐福~神々の地に宿る徐福伝説」
  10. 新宮市「新宮地区・徐福公園」
  11. 佐賀市「『えつ』にまつわる徐福伝説」
  12. 佐賀市「金立公園」
  13. 佐賀市「金立神社上宮」
  14. いちき串木野市総合観光サイト「冠岳展望公園(日本一の徐福石像)」
  15. Wikimedia Commons 各画像資料ページ(本文画像一覧に記載した各資料ページURL)