2026年9月14日の夜、ゆる歴史散歩会では千駄木から田端を経て駒込へ歩きました。今回のルートの面白さは、寺社や鉄道スポットを個別に見るだけではなく、かつて不忍池へ向かって流れていた谷田川の跡をたどりながら、水辺・信仰・文学・鉄道が重なった田端の街を読むことにあります。
開催後追記:2026年9月14日の開催レポートと現地写真はこちら。以下の予習解説を残し、記事後半に当日の記録を追加しました。
この記事では、散歩前の予習として「現地で何を見ると面白いか」を中心に、谷田川跡、東覚寺の赤紙仁王、田端八幡神社と旧谷田橋、大龍寺、上田端八幡神社、第二中里踏切、中里用水架道橋を順番に紹介します。暗渠そのものが初めての方は、先に暗渠まるわかりガイドを読むと、道の曲がり方や低地の見方が分かりやすくなります。
今回のルート概要|千駄木から谷田川を遡って駒込へ
- 千駄木
- 谷田川跡・谷田川通り
- 東覚寺・赤紙仁王
- 田端八幡神社・旧谷田橋
- 大龍寺外観・上田端八幡神社
- 第二中里踏切
- 中里用水架道橋
- 駒込駅
北区によると、谷田川は現在の豊島市場・染井墓地方面から駒込、西ケ原、田端を通り、谷中と千駄木の間を流れて不忍池へ注いでいました。北区内では昭和7年から暗渠化が進み、現在は田端銀座・霜降銀座などの商店街や「谷田川通り」に旧流路の記憶が残っています。
今回は千駄木側から駒込へ向かうため、川の流れとは逆に、下流側から上流方向へ遡る歩き方になります。以前に上野・谷中側から歩いた藍染川・谷田川の暗渠を歩く歴史散歩とつなげて見ると、一つの水系として理解しやすくなります。
谷田川跡|見えない川を「道」と「低地」から読む
暗渠になった川は水面が見えません。そのため現地では、道の細さや曲がり、周辺との高低差、橋名などが手がかりになります。谷田川では旧流路の一部が現在の道路として残り、「川がなくなった」のではなく、都市の中で別の形に置き換わったことが分かります。
東覚寺の赤紙仁王|病気身代わりを願う田端の信仰
田端2丁目の東覚寺では、護摩堂前の一対の仁王像が赤紙仁王として知られています。東覚寺によれば、仁王像は寛永18年(1641)に道如宗海上人が田端八幡神社へ奉納したもので、明治初年の神仏分離の際に、別当寺だった東覚寺へ移されました。
特徴は、身体の悪い場所と同じ箇所に赤紙を貼り、病気の身代わりを願う信仰です。阿像から吽像の順に参拝し、願いが成就した際には草鞋を奉納する習わしがあります。赤紙で覆われた見た目の印象だけでなく、もともと神社に奉納されていた仁王像が、神仏分離を経て寺へ移ったという歴史を見ると、次の田端八幡神社とのつながりが分かります。

田端八幡神社と旧谷田橋|川の歴史と神仏習合が交差する場所
東覚寺のすぐ近くにある田端八幡神社は、東京都神社庁によると、文治5年(1189)に源頼朝が奥州からの帰路、この地に鶴岡八幡宮を勧請したことを起源とする伝承があります。
今回とくに注目したいのは、神社の由緒だけではありません。北区によると、谷田川が暗渠になった際、谷田橋そのものが田端八幡神社参道の第一鳥居前へ移設されています。川が地上から消えても、橋の部材が別の場所で残り続けているわけです。
さらに、先ほど見た赤紙仁王も元は田端八幡神社に奉納されていました。この一角では「谷田川の橋」「八幡神社」「赤紙仁王」「神仏分離」が数十メートルの範囲でつながります。今回のルートで最も情報密度の高い場所の一つです。

大龍寺と上田端八幡神社|田端の寺社と文士・芸術家
大龍寺は北区観光ホームページによると、創建年代は明らかではありませんが、天明年間(1781~1789)に中興され、大龍寺と改称したと伝えられます。墓地には正岡子規、陶芸家の板谷波山、柔道家の横山作次郎、宮廷音楽家E.H.ハウスらの墓があります。

ただし大龍寺の公開時間は9:30~16:00で、月曜日は休館です。9月14日は月曜日、しかも夜の散歩なので、今回は境内や墓地へ入る前提にはせず、外観から由緒や正岡子規との関係を確認する場所として扱います。
すぐ隣の上田端八幡神社は、江戸時代に田端村が上田端と下田端に分かれていた時代、上田端側の鎮守でした。北区によれば、別当寺は大龍寺でした。寺と神社を並べて見ることで、この地域でもかつて神社と寺院が密接に結びついていたことが分かります。境内にある大山祇神社については、神社への直接取材と愛媛県大三島の大山祇神社の史料をもとに、「日本総鎮守・大山祇神社とは?」で詳しく解説しています。

田端は明治末から大正・昭和初期にかけて多くの文士・芸術家が暮らした地域でもあります。別の角度から田端を歩いた記録は、田端~中里の崖線・鉄道・裏路地を歩く開催レポートも参考になります。
第二中里踏切|山手線と都市計画の現在進行形
第二中里踏切は北区中里2丁目にあり、北区の資料では区道北62号線とJR山手線が交差する踏切として記載されています。山手線の本線上に残る唯一の踏切として知られ、駒込~田端間の特徴的な鉄道景観です。
現在この周辺では、東京都が補助第92号線(中里)の整備を進めています。事業区間は中里三丁目~田端六丁目の約160mで、JR山手線上空を横断する橋梁を含む道路整備が行われています。事業期間は2030年3月31日までとされています。昔ながらの踏切と、立体交差へ移行しようとする現在の工事が同じ場所で見られる点が、この踏切の大きな見どころです。

中里用水架道橋|谷田川だった場所に残る明治の鉄道遺構
第二中里踏切から駒込方面へ進むと、谷田川通りがJR山手線・山手貨物線の下をくぐります。このガードが中里用水架道橋です。現在だけを見ると「道路の上にある普通の鉄道橋」に見えますが、この場所を理解する鍵は、もともと道路ではなく谷田川が流れていたことにあります。
「中里用水」とは何だったのか
現在の北区資料では、この場所を流れていた川は谷田川として説明されており、「中里用水」という別の独立した用水路があったことは確認できません。一方、山手線の橋梁史を調べた資料では、鉄道開通当初は谷田川を渡る橋として「中里用水橋梁」と呼ばれ、周辺の農地で水が利用されていたことから「用水」の名が付いた可能性が指摘されています。名称の詳しい由来は確定していません。
つまり、ここでいう「用水」は現在の谷田川通りの名前ではなく、鉄道が川をまたいでいた時代の記憶を残す名称と考えると分かりやすくなります。北区内の谷田川は昭和7年(1932)から暗渠化が進み、川の上が道路になりました。川を越えていた鉄道橋は、道路を越える「架道橋」として残ったわけです。
何が貴重なのか|1903年の山手線開業期まで遡る
池袋~田端間の鉄道は1903年(明治36)に開業しました。鉄道構造物を継続的に調査している資料では、中里用水架道橋の内側2線部分はこの開業時、外側2線部分は1924~1925年頃の複々線化に伴う増設と整理されています。現在も橋台には古い煉瓦積みが残り、明治期の鉄道構造物の姿を読み取れる場所です。
この橋が面白いのは、単に「古い煉瓦のガード」だからではありません。谷田川が地上を流れていた時代、1903年の鉄道開業、複々線化、川の暗渠化と道路化という100年以上の変化が、一つの構造物に重なっています。今回たどってきた谷田川の歴史と山手線の歴史が、ここで物理的に交差します。
現地で見るもの|煉瓦橋台と新旧構造の違い
- 煉瓦積みの橋台:明治期の鉄道橋らしい部分で、現在のコンクリート構造との違いが分かります。
- 4本の線路を支える構造の違い:開業時の線路と、複々線化で後から増えた線路が同じ場所に重なっています。
- 谷田川通りの位置:車道の真下が旧谷田川の流路です。「川の跡の上を道路が通り、その上を鉄道が越える」という三層の歴史になっています。
- 隣の中里第一隧道:細い人道トンネルは古い水路ではなく、1976年(昭和51)に中里用水架道橋の歩道として設けられた歩行者・自転車用通路です。明治期の煉瓦橋台と昭和期の歩行者通路が隣り合う点も見どころです。
「中里用水架道橋」という少し分かりにくい名前そのものが、ここに川があった時代の痕跡です。谷田川の暗渠をたどってきた散歩の終盤で見ることで、地上から消えた川が鉄道施設の名称と煉瓦橋台に残っていることが実感できます。
このルートの見方|川・信仰・鉄道を一つにつなげる
今回の散歩を一言で整理すると、谷田川という古い水の流れに沿って、田端の歴史を時代順ではなく「場所の重なり」で見るコースです。
- 谷田川跡:地形と水の記憶
- 東覚寺・田端八幡神社:神仏習合と神仏分離
- 大龍寺・上田端八幡神社:村の鎮守と寺院、近代の文士・芸術家
- 第二中里踏切・中里用水架道橋:近代鉄道、都市計画、谷田川の旧流路が重なる場所
一見すると別々のスポットですが、歩いてつなげることで、田端・中里・駒込が「川の低地」「寺社の立地」「鉄道の敷設」によって形づくられてきたことが見えてきます。
2026年9月14日開催レポート|涼しい夜に川の記憶と山手線をたどる
2026年9月14日(月)、ゆる歴史散歩会の「山手線唯一の踏切、川の記憶、田端の歴史を辿るナイトウォーク」を開催しました。千駄木から田端を経て駒込へ、谷田川の跡と寺社、鉄道の風景をつなぐ夜の散歩です。当日は涼しく、とても歩きやすい気候でした。昭和の面影が濃く残る街並みを楽しみながら、道の下にあった川や、今も残る橋を一つずつ確かめました。
以下は当日の現地写真と参加時の記録です。この記事の前半に残した予習解説と合わせて読むと、歴史の説明が、夜の街で実際に見えた景色と結びつきます。
- 開催日時:2026年9月14日(月)19:15〜20:45
- 参加者数:14名
- 出発・到着:ローソン千駄木不忍通店付近から駒込駅へ
- 主な見どころ:千駄木の路地、谷田川跡と区境、東覚寺の赤紙仁王、田端八幡神社と谷田橋、大龍寺外観、第二中里踏切、中里の鉄道ガード
千駄木の路地へ|店先の明かりと昭和の面影
千駄木のすずらん通りでは、入口のアーチと店先の明かりが夜の路地を照らしていました。大きな通りから細い道へ入ると、看板、鉢植え、建物の入口が近い距離で目に入ります。参加者と連れ立って歩く写真からも、生活の場をゆっくり巡る散歩の雰囲気が伝わります。


当日印象に残ったのは、昭和を色濃く感じさせる景色でした。理容店や飲食店の看板など、暮らしに結びついたものが並んでいます。建物の年代を外観だけで決めることはできませんが、昔ながらの店構えが続く道には、大通りとは違う落ち着きがありました。涼しい夜だったことも、こうした小さなものに目を向けながら歩くのにぴったりでした。


住所表示で区境を発見|見えない川を足元から考える
谷田川は、現在は地上に水面が見えない暗渠となった川です。北区の説明では、駒込や田端を通り、谷中と千駄木の間から上野の不忍池へ注いでいました。北区内では1932年(昭和7年)から暗渠化が進み、川の上に商店街や道路ができています。今回の散歩では、かつて川だった場所を自分たちが歩いていることを、道の形や周囲の景色から考えました。
とくに分かりやすかったのが住所表示です。現地では「北区田端一丁目」と「文京区千駄木四丁目」の表示が隣り合っており、区境であることを目で確かめられました。地図に引かれた線だけでなく、街の表示から境目が分かるのが面白いところです。川跡を歩く視点と住所を読む視点が重なることで、普段なら通り過ぎる場所が観察の対象になりました。

暗渠散歩では、現在の道だけを眺めるより、旧流路や地形と照らし合わせると理解が深まります。橋の名や曲がる道など、探す手がかりは暗渠まるわかりガイドでも紹介しています。
赤紙仁王と谷田橋|信仰と川の歴史が隣り合う
東覚寺の門前には、赤い紙に覆われた赤紙仁王が並んでいます。寺の公式説明によると、身体の悪い場所と同じ箇所に赤紙を貼って、病気の身代わりを願う信仰です。夜の写真でも、幾重にも重なった紙と一対の像がはっきり分かります。

この仁王像は1641年に田端八幡神社へ奉納され、明治初年の神仏分離の際に東覚寺へ移されたと伝えられています。現在は寺と神社が別の入口を持っていますが、歴史を知ると、隣り合う二つの場所のつながりが見えてきます。赤い紙の印象だけで終わらず、地域の信仰の移り変わりにも目を向けられる場所でした。
田端八幡神社の参道では、残されている谷田橋を見学しました。北区によると、川の暗渠化に伴って橋本体が参道の第一鳥居前へ移されています。いま目の前にある橋は、その下を昔の川が流れ続けているという意味ではなく、別の場所へ移されて残った川の記憶なのです。

参加者と橋を囲んでみると、川が見えなくなった街に実物が残されていることに歴史を感じました。道の曲がりや地名から想像する川と、目の前の橋。その両方を見られたことで、谷田川をたどる散歩の手応えが増しました。
大龍寺の門前で|田端と文学のつながり
大龍寺は、正岡子規の墓がある寺として知られています。北区の観光案内では、静かな寺に葬られることを望んでいた子規のために、武蔵野台地の端にあったこの寺が選ばれたと紹介されています。国立国会図書館は、子規を俳句と短歌の革新に取り組んだ人物として説明しています。

今回は夜の散歩なので、見学したのは外観です。山門のそばにある「子規居士之墓」の石標が、門の向こうにある文学の歴史を伝えていました。墓そのものを訪ねるのは、公開時間を確認したうえで昼間に改めて楽しみたいところです。

大龍寺に隣接する上田端八幡神社では、鳥居と奥へ続く参道を見学しました。北区の解説によると、江戸時代の田端村のうち上田端側の鎮守で、かつて大龍寺が神社の管理を担う別当寺でした。谷田橋のある田端八幡神社とは別の神社です。二つの八幡神社を歩いて巡ると、かつての村の区分と寺社の結びつきを比べられます。

田端では、文学だけでなく映画『天気の子』の話題でも盛り上がりました。参加者が知っている作品の話と、現地で学ぶ歴史が行き来するのも街歩きの楽しさです。今回はその会話も、田端という街を身近に感じるきっかけになりました。別の日に田端・中里を歩いた様子は、田端・中里の開催レポートでも紹介しています。
第二中里踏切で山手線を待つ|いつもの電車が見どころに
第二中里踏切は、駒込駅と田端駅の間にある山手線の踏切です。北区の散歩コースでも、山手線内で唯一残る踏切として紹介されています。現地の銘板には踏切の名称と「山手線」の文字があり、ここがどの線路なのかを確かめることができました。

踏切の前で山手線の通過を眺めると、普段は駅や車内から見ている電車が、街の風景の中をすぐ近くで横切ります。ごく普通の踏切のようでいて、山手線でここだけという背景を知ると、待つ時間も楽しみになります。当日も参加者は喜んでいて、列車が通る場面は散歩の印象に残るひとときになりました。

将来この景色がなくなるかもしれない、という話も関心を集めました。東京都は周辺で、山手線の上を渡る橋を含む補助第92号線の整備を進めています。ただし、道路事業の期間と踏切の廃止日は同じ意味ではありません。ここでは廃止時期を断定せず、2026年9月14日に見られた風景として記録します。
当日の第二中里踏切の様子を動画でも紹介します。写真と合わせて、山手線が街の中の踏切を通過する様子をご覧ください。
鉄道ガードをくぐって駒込へ|川の跡と煉瓦の壁
踏切から駒込方面へ進むと、谷田川通りが鉄道の下をくぐるガードに出ます。道路と線路が立体的に交差する場所で、橋台には煉瓦積みが残っています。早稲田大学の鉄道高架橋に関する調査でも、中里用水架道橋は煉瓦の橋台を持つ構造物として記録されています。


現地で見ると、煉瓦の部分と、その周囲の異なる材料の境目がよく分かりました。壁面の見た目だけから補修の年代まで決めることはできませんが、川跡の道、古い構造物、現在も走る列車を一緒に眺められるのが、この場所の魅力です。ここまでたどってきた水の歴史が、最後に鉄道の風景と重なりました。
隣の中里第一隧道は、人が通るための通路です。入口の表示や壁の装飾も写真に残しました。車道側のガードと歩行者通路が並んでいることを見比べると、鉄道の下をどう通り抜けるかという、街のつくりにも目が向きます。

最後は駒込駅東口へ。駅前やさつき通りには商店街の明かりが続いていました。涼しい夜に、路地の看板、住所表示、橋、踏切と、身近なものから歴史を見つけて歩けたのが今回の散歩の良さでした。同じ道でも、川の記憶を知ってから歩くと、目に留まるものが増えていきます。


これから参加してみたい方は、ゆる歴史散歩会のイベント一覧をご覧ください。周辺を別の視点で歩くなら、田端・中里の崖線と鉄道を巡ったレポートも参考になります。
関連して読みたい記事
TimeWalkで田端・駒込周辺の史跡を探す
今回のような街歩きでは、予定したスポット以外にも周辺に小さな史跡や寺社が点在しています。TimeWalkで現在地から歩ける史跡を地図で探すと、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを確認しながら、自分でも歴史散歩を楽しめます。
参考資料・公式サイト
- 東京都北区「北区を流れる河川」
- 東覚寺「赤紙仁王」
- 東京都神社庁「田端八幡神社」
- 東京都北区観光ホームページ「大龍寺」
- 東京都北区観光ホームページ「上田端八幡神社」
- 東京都建設局「補助第92号線(中里)」
- 東京とりっぷ「中里用水架道橋」
- 山手線が渡る橋・くぐる橋「中里用水架道橋」
- 山手線が渡る橋・くぐる橋「中里第一隧道架道橋」
開催レポートの追加参考資料
- つなげーと・2026年9月14日の開催情報(日時・人数・募集時の行程)
- 東京都北区観光ホームページ「東覚寺」(寺名の読み)
- 北区立図書館発行資料・2011年9月(赤紙仁王の読みと地域の信仰)
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像・正岡子規」
- 東京都北区「芥川龍之介の散歩道」(山手線唯一の踏切の紹介)
- 早稲田大学・和田将平「都内に現存する陸橋のデザインについての研究」2005年度中間発表(中里用水架道橋の煉瓦橋台)
- 国土交通省「トンネルと隧道の違い」(用語と読み)
当日の雰囲気・感想と写真は主催者の記録に基づきます。歴史的背景は上記の自治体・寺社・研究資料を参照しました。

