その美術館、もとは何だった?世界と日本の有名美術館・博物館15選

ルーヴル宮殿のクール・カレ西側ファサード

ルーヴル美術館で《モナ・リザ》を見る人の足元には、中世の要塞の遺構が残っています。オルセー美術館の大時計は駅だった時代の名残で、テート・モダンの巨大な空間は発電所のタービンホールから生まれました。

有名な美術館・博物館の歴史をたどると、王宮、駅、発電所、病院、工場、学校など、現在とはまったく違う姿が現れます。建物だけでなく、王侯の私的コレクションが公開されたり、戦火を避けて収蔵品そのものが大移動したりした例もあります。

美術館・博物館の基本的な役割や鑑賞の考え方は、美術館・博物館で鑑賞するときのポイントでも紹介しています。ここでは展示作品の前に、その「入れ物」とコレクションが歩んだ歴史を見ていきます。

15館を一目で見る|もともとは何だった?

美術館・博物館国・都市前身・起点
ルーヴル美術館フランス・パリ要塞→王宮→美術館
オルセー美術館フランス・パリ万博の駅→美術館
テート・モダンイギリス・ロンドン発電所→現代美術館
ウフィツィ美術館イタリア・フィレンツェ行政官庁→宮廷コレクション→美術館
故宮博物院中国・北京皇帝の宮殿→博物院
エルミタージュ美術館ロシア・サンクトペテルブルク皇帝のコレクションと宮殿→国立博物館
国立故宮博物院台湾・台北北京の宮廷文物→戦火を避け大移動→台湾
ソフィア王妃芸術センタースペイン・マドリード病院→現代美術館
プラド美術館スペイン・マドリード自然史施設として建設→絵画彫刻博物館
大英博物館イギリス・ロンドン個人収集→貴族邸で公開→専用博物館
バチカン美術館バチカン市国教皇の古代彫刻収集→公共的な博物館
トプカプ宮殿トルコ・イスタンブールスルタンの宮殿→博物館
東京都庭園美術館日本・東京皇族邸→首相公邸→迎賓館→美術館
トヨタ産業技術記念館日本・名古屋織機の試験工場・紡織工場→博物館
京都国際マンガミュージアム日本・京都小学校→マンガ博物館

王や皇帝の場所が、みんなの博物館になった

ルーヴル美術館|要塞→王宮→革命後の美術館

ルーヴルの始まりは1190年ごろ、フィリップ2世がパリ防衛のために築いた要塞です。14世紀には王の居所となり、16世紀以降は歴代国王によって大規模な宮殿へ発展しました。

転換点はフランス革命です。1791年、国民議会はルーヴルを芸術のための施設とすることを決め、1793年に中央芸術博物館が開館しました。軍事施設から王権の象徴へ、さらに革命を経て市民が入る美術館へと役割を変えています。現在の展示作品の位置づけを時代の流れから見るなら、西洋美術史の流れを解説した記事もつながります。

故宮博物院(北京)|紫禁城→皇帝退去→博物院

北京の紫禁城は1420年に完成し、明・清の皇帝が暮らし、政治を行う宮殿でした。1912年に清朝が終わった後も、最後の皇帝プーイーはしばらく内廷に住み続けます。

1914年には外朝の一部で古物陳列所が開かれ、1924年にプーイーが紫禁城を退去しました。宮廷財産の調査を経て、1925年10月10日に故宮博物院が成立します。かつて皇帝と宮廷のために閉ざされていた空間が、王朝の終焉から13年をかけて公共の博物館へ変わりました。

エルミタージュ美術館|女帝の収集→公開美術館→冬宮も博物館へ

エルミタージュの創設年とされる1764年、女帝エカチェリーナ2世はベルリンの商人から225点の絵画を購入しました。これはロシアがヨーロッパの文化大国であることを示す宮廷コレクションでもありました。

19世紀には皇帝ニコライ1世のもとで新エルミタージュが建てられ、1852年に公開美術館となります。1917年の革命後には、皇帝の主要な住居だった冬宮も博物館の一部となりました。私的収集、帝政下の公開美術館、革命後の国立博物館という段階を重ねて現在の巨大複合施設ができています。

トプカプ宮殿|オスマン帝国の中枢→共和国の博物館

トプカプ宮殿は、コンスタンティノープル征服後の15世紀後半にメフメト2世が築きました。以後およそ400年間、オスマン帝国の行政・教育・芸術の中心であり、スルタンの居所でもありました。

19世紀半ばに王家の主要な居所がドルマバフチェ宮殿へ移ると、トプカプの役割は縮小します。オスマン帝国が終わり、トルコ共和国成立後の1924年4月3日に博物館化されました。帝国の宮廷空間が、新しい共和国の文化遺産として公開された例です。

東京都庭園美術館|皇族邸→首相公邸→迎賓館→美術館

東京都庭園美術館本館は1933年、朝香宮鳩彦やすひこ王夫妻の邸宅として完成しました。夫妻は滞欧中に1925年のパリ装飾芸術博覧会を訪れ、アンリ・ラパンやルネ・ラリックらフランスのデザイナーが内装に関わりました。

戦後の1947年から1954年までは吉田茂の外相・首相公邸となり、1955年からは国賓・公賓を迎える白金迎賓館として使われました。東京都が1981年に取得し、1983年に美術館として開館します。一つの建物に、皇族の生活、戦後政治、外交、美術館という異なる時代が重なっています。

東京都庭園美術館本館、旧朝香宮邸の外観
東京都庭園美術館本館は1933年完成の旧朝香宮邸です。戦後は吉田茂の外相・首相公邸や迎賓館を経て、1983年に美術館となりました。Photo: Wiiii / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

駅・発電所・病院・工場・学校が文化施設になった

オルセー美術館|1900年万博の駅→解体危機→美術館

オルセー駅は1900年のパリ万国博覧会に合わせて開業しました。パリ中心部へ長距離列車を乗り入れさせる最新鋭のターミナルで、地下線や電気牽引、エレベーターを備えていました。

やがて列車が長くなるとホームが対応できなくなり、1939年から長距離駅としての役目を失います。その後は捕虜関連施設、映画撮影、劇場などに使われ、取り壊してホテルを建てる計画まで浮上しました。1970年代に保存へ転じ、1986年にオルセー美術館として開館します。現在の大時計と大空間は、駅の記憶をそのまま展示空間へ取り込んだものです。

旧駅舎を利用したオルセー美術館の正面外観と大時計
1900年のパリ万博に合わせて建てられたオルセー駅。長距離駅としての役目を終え、1986年に美術館として開館しました。Photo: DiscoA340 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

テート・モダン|発電所→巨大な現代美術館

ロンドンのテート・モダンは、旧バンクサイド発電所を改修した現代美術館です。テートは1994年にこの建物を新館の場所として選び、国際設計競技でヘルツォーク&ド・ムーロンの案を採用しました。

2000年5月に開館した新しい美術館は、発電所のレンガ外壁や煙突、巨大なタービンホールを残しました。発電設備を収めるための巨大空間が、現代美術の大規模インスタレーションを受け止める場所へ転じています。

1985年頃のバンクサイド発電所、のちのテート・モダン
1985年頃のバンクサイド発電所。閉鎖後に改修され、2000年にテート・モダンとして開館しました。Photo: Cjc13 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

ソフィア王妃芸術センター|18世紀の病院→解体危機→現代美術館

マドリードのソフィア王妃芸術センター本館は旧病院です。カルロス3世の時代に建設され、1788年から病院として使われました。1965年の閉鎖後には建物の解体案もありましたが、1977年に歴史芸術記念物として保護されます。

1986年に芸術センターとして一部が使われ始め、1988年に国立美術館として制度化、1990年に現在の美術館として開館しました。1992年にはピカソ《ゲルニカ》を含む常設コレクションが本格的に公開されます。病院の中庭と長い廊下は、現代美術館となった現在も建物の来歴を伝えています。

トヨタ産業技術記念館|織機の試験工場→トヨタ発祥の地→博物館

名古屋のトヨタ産業技術記念館が建つ場所では、豊田佐吉とよださきちが1911年に自動織機を研究する試験工場を設けました。当初の試験工場は木造で、1914年に紡績工場が整備されるなかで赤レンガ建築へ発展します。

1926年には豊田自動織機製作所、1937年にはトヨタ自動車工業の設立総会がこの工場の事務棟で開かれました。戦時中の航空機部品生産、戦後の工場・倉庫利用を経て、歴史的建物を保存・活用し、1994年に記念館が開館しました。トヨタの歴史を展示する場所が、その企業が生まれていった現場そのものです。

トヨタ産業技術記念館の赤レンガ工場建築
トヨタ産業技術記念館は豊田佐吉が1911年に設けた試験工場の地にあります。赤レンガの工場建築を保存・活用し、1994年に開館しました。Photo: KKPCW(Kyu3) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

京都国際マンガミュージアム|明治の小学校→閉校→マンガ博物館

京都国際マンガミュージアムは旧龍池たついけ小学校を活用しています。龍池小学校は1869年、全国の「学制」公布より3年早く開校した京都の番組小学校の一つで、地域住民が建設費を出し合って作りました。

都心人口の減少と少子化を背景に1995年に統合・閉校し、2003年に京都精華大学が京都市へマンガミュージアム構想を提案しました。2006年に開館した現在の施設は、1928~37年に建てられた校舎の廊下、階段、旧校長室などを残しています。近代教育の場所が、マンガの収集・研究・教育を担う場所へ受け継がれました。

役所や自然史施設の計画から、美術館へ変わった

ウフィツィ美術館|「オフィス」から世界的美術館へ

「ウフィツィ」はイタリア語の「uffici」、すなわちオフィス・役所に由来します。16世紀、トスカーナ大公コジモ1世がフィレンツェの行政・司法機関を集めるため、ジョルジョ・ヴァザーリに建物を造らせました。

メディチ家は上階などをコレクション展示にも使い、1580年代には絵画、彫刻、宝石、珍しい自然物を収める「トリブーナ」が設けられます。やがて外部の訪問者にも公開され、1769年には一般公開の美術館となりました。行政を集約する建物の中に宮廷コレクションが入り、それが公共美術館へ育った例です。

プラド美術館|自然史施設として建てた建物が絵画館になった

現在のプラド美術館の建物は1785年、カルロス3世の命で建築家フアン・デ・ビジャヌエバが自然史陳列館のために設計しました。しかし建物が実際に博物館として開かれるまでに用途が変わります。

フェルナンド7世と王妃マリア・イサベルのもとで王室の絵画・彫刻を公開する方針となり、1819年11月に王立絵画彫刻博物館として開館しました。最初のカタログに載った作品は311点。自然史博物館だった建物の転用ではなく、自然史施設として建設された建物が開館前に進路を変えたという珍しい歴史です。

建物よりも、コレクションの誕生と移動がすごい博物館

大英博物館|個人コレクション→貴族邸→専用の巨大博物館

大英博物館の起点は、医師・博物学者ハンス・スローンが集めた膨大なコレクションです。1753年の議会法によって国立博物館が設立され、1759年に一般公開されました。

最初の展示場所は17世紀の貴族邸モンタギュー・ハウスでした。収蔵品が増えると1823年から旧邸宅の解体と新館建設が始まり、現在のギリシャ復興様式の建物へ置き換えられます。大英博物館自身は、世界初の国立公共博物館としてその成立を位置づけています。現在の建物そのものが元邸宅なのではなく、邸宅を使って始まった博物館が専用建築へ成長しました。

バチカン美術館|地中から現れた《ラオコーン》が収集史の節目に

1506年、ローマのエスクイリーノの丘で古代彫刻《ラオコーン群像》が発見されました。教皇ユリウス2世はこれを購入し、バチカンの彫刻庭園に展示します。《ベルヴェデーレのアポロン》などと並ぶ古代彫刻コレクションは、現在のバチカン美術館へつながる重要な核になりました。

1506年は現在の美術館が開館した年ではなく、収集史の大きな起点です。18世紀にはクレメンス14世とピウス6世のもとでピオ・クレメンティーノ美術館が整備され、古代美術を保存・研究し、より広く公開する近代的な博物館へ発展しました。

国立故宮博物院(台北)|戦火を避け、収蔵品が大陸から台湾へ渡った

台北の国立故宮博物院では、建物よりも収蔵品の移動史が際立ちます。日本軍の進出が北京へ迫った1933年、故宮博物院の文物13,427箱と64包が5回に分けて上海へ運び出されました。日中戦争が拡大すると、文物はさらに中国内陸部へ移されます。

戦後にいったん南京方面へ戻った後、国共内戦が激化し、1948~49年に選定された重要文物が3回に分けて台湾へ渡りました。台湾では倉庫や台中・霧峰の北溝で保管・整理され、1965年に台北の現在地で国立故宮博物院が開館します。北京に残った膨大な文物と、海を渡った選定品はその後、北京と台北それぞれの博物院に受け継がれました。

コレクションがどのように形成されたかを見ると、美術館の個性も違って見えます。日本の美術館については、「モネならポーラ、北斎なら島根」――美術館の得意分野をまとめた記事で、収集方針や寄贈が館の特色をどう作るのかを紹介しています。

建物そのものが、展示の前に歴史を語っている

オルセーの大時計、テート・モダンのタービンホール、東京都庭園美術館のアール・デコ内装、京都国際マンガミュージアムの学校廊下。いずれも前身の痕跡を消さず、現在の文化施設の一部として残しています。

一方で、ルーヴルや故宮のように政治体制の変化が公共化を進めた例、大英博物館やバチカンのように収集そのものから博物館が育った例、台北の故宮のように戦争によって収蔵品が移動した例もあります。美術館・博物館は作品を収める箱であると同時に、建物、制度、収集、保存の歴史が重なる場所です。

展示室を支える設計、照明、美術品輸送、収蔵管理など現在の仕事については、美術館・展覧会を支える企業の解説で詳しく紹介しています。

参考資料・公式サイト