「八百長」は、勝負の前に結果を打ち合わせ、表面上は真剣勝負のように装う行為を指す言葉として定着しています。現在の国語辞典では、相撲会所に出入りした八百屋の長兵衛、通称「八百長」が相撲の年寄と囲碁を打ち、勝敗を一勝一敗になるよう調整したという由来が紹介されています。
明治期の新聞と相撲史料をたどると、現在よく知られる説明とは少し違う姿が現れます。1901年の新聞記事が記す人物名は「斎藤長吉」で、1898年には「八百長」という語がすでに相撲の「申合せ勝負の符牒」として使われていました。1908年には帝国議会でも「八百長演説」という比喩が登場します。
現在の辞書が説明する「八百長」
デジタル大辞泉は「八百長」を、相撲会所に出入りしていた八百屋の長兵衛が、相撲の年寄と碁を打つ際、いつも一勝一敗になるよう手加減したことに由来すると説明しています。意味は二つあり、第一は前もって勝敗を打ち合わせる「なれあいの勝負」、第二は一般に、なれあいで物事を進めることです。
精選版『日本国語大辞典』も、八百屋の長兵衛が相撲の年寄を相手に「常に一勝一敗」になるよう手加減したという語源説を載せています。同辞典が採る競技用法の実例は1906年4月5日付『万朝報』、一般用法の実例は田岡嶺雲『明治叛臣伝』(1909年)です。
明治期の史料には、現在の辞書で定型化された説明とは異なる人物名や勝負の記録も残っています。
1898年には「申合せ勝負の符牒」として使われていた
新聞史料を調査している「閾ペディアことのは」は、1898年2月5日付『朝日新聞』の記事を紹介しています。花相撲の悪習を批判した記事で、「八百長」には括弧書きで「申合せ勝負の符牒」と説明が付けられています。
同じ記事では、力士が故意に倒れて相手に勝たせる行為と、八百長にして「預り」や「分」にする行為が書き分けられています。当時の「八百長」には、勝者を事前に決める行為に加え、申し合わせによって勝負を曖昧に収める行為も含まれていました。
精選版『日本国語大辞典』が競技用法の実例として採る1906年より8年前の例です。辞書の採録例は、辞書編集で確認・採用された文献上の実例です。語の成立時期を考える際は、さらに古い用例の有無も確認する必要があります。
1901年の死亡記事に現れる「八百長事斎藤長吉」
人物像を具体的に伝える史料が、1901年10月4日付『読売新聞』の「相撲社会の名物男死す」です。同記事は、東京相撲社会で有名だった「八百長事斎藤長吉」が71歳で亡くなったと報じています。
記事によれば、長吉は以前は呼出しを務め、その後は太鼓、木戸の仕事へ移り、大場所の土俵作りにも携わっていました。もとは回向院前で八百屋を営んでいたため、相撲社会で「八百長」と呼ばれたと記されています。晩年の住まいは、回向院内の水茶屋「島屋」でした。
現在の辞書に多い「八百屋の長兵衛」という名に対して、この同時代に近い死亡記事は「斎藤長吉」という実名を伝えています。記事には、呼出し、太鼓、木戸、土俵作りといった相撲社会での仕事も記録されています。
囲碁では「一勝一敗」より「勝を譲る」と記された
1901年の記事は、斎藤長吉の囲碁の腕前にも触れています。長吉は「先代伊勢の海五太夫」より四、五目ほど上手だったものの、二人が対局すると伊勢ノ海へ勝ちを譲ったとされています。そのため伊勢ノ海は自分が実力で勝ったと受け取っていた、という内容です。
記事が説明する相撲社会での語義は、「その場をごまかし、甘く繕う」ことでした。勝敗を必ず一勝一敗へ調整したという形では記されていません。
現在の辞書に定着した「常に一勝一敗」という説明と、1901年の記事にある「勝を譲る」という説明には差があります。少なくとも1901年の記事には「常に一勝一敗」という表現はありません。
伊勢ノ海五太夫は「初代」と書かれていない
語源紹介では、対局相手を「初代伊勢ノ海五太夫」とする例も見られます。1901年の記事の表現は「先代伊勢の海五太夫」です。
斎藤長吉は1901年に71歳で亡くなったと報じられており、18世紀に活動した初代伊勢ノ海を対局相手に置く年代関係は成立しません。人物を特定する際は、後世の呼称より1901年記事の「先代」という記述を優先する方が史料に沿っています。
1902年『日本相撲伝』で逸話がさらに詳しくなる
翌1902年6月、鎗田徳之助編『日本相撲伝』が刊行されました。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている132ページの相撲史料です。
同書に伝わる八百長の逸話では、伊勢ノ海と囲碁を打っていた八百長が、碁会所に来た本因坊に五目を置いて打つ場面が登場します。伊勢ノ海は、その実力を知って普段の対局で手加減されていたことに気づき、八百長の話を広めたとされます。
さらに『日本相撲伝』では、八百長の名が相撲社会で「賄賂」に関係する言葉として使われた経緯も語られています。1901年記事の「その場をごまかし甘く繕う」という説明と合わせると、明治期の語義は現在より広く、ごまかし、手加減、申し合わせ、利益を伴う取り計らいなどが重なっていました。
本因坊の個人名は、後世の資料で具体化されることがあります。今回確認した初期史料では、「本因坊」という記述まで確認しています。
1906年には競技用語、1908年には政治の比喩へ
精選版『日本国語大辞典』は、1906年4月5日付『万朝報』の「此の勝負の八百長」という例を、競技用法の実例として採っています。この時点で「八百長」は新聞読者に通じる勝負事の言葉になっていました。
さらに1908年1月28日、第24回帝国議会の衆議院本会議で望月小太郎が「八百長演説」という表現を使っています。国立国会図書館の帝国議会会議録で発言本文を確認できます。外交質問をめぐる発言の中で使われており、相撲や囲碁から離れた政治的な比喩として成立していました。
精選版『日本国語大辞典』が一般用法として採る『明治叛臣伝』は1909年刊です。帝国議会の1908年の例は、それより早い段階で「八百長」が勝負事の外へ広がっていたことを伝えます。
競馬にも広がった「八百長」
明治末の競馬でも「八百長」が問題になりました。馬事文化財団によると、1906年12月に馬券発売が黙許されると翌年から全国で競馬ブームが起こり、レースの八百長や払戻しをめぐる問題も発生しました。1908年10月、新刑法の施行に合わせて馬券発売は禁止されます。
相撲社会の符牒として記録された言葉が、明治40年代には競馬にも使われていました。競技の種類を越えて、不正な勝負や申し合わせを表す語として通用する範囲が広がった時期に当たります。
「八百長」の意味は明治期に段階的に広がった
確認できる史料を年代順に並べると、語の使われ方には幅があります。1898年の相撲記事では「申合せ勝負の符牒」、1901年の死亡記事では「その場をごまかし甘く繕う」こと、1902年の相撲史料では囲碁の手加減や賄賂にまつわる逸話が語られます。
その後、1906年には競技の不正な勝負を表す例が辞書に採られ、1908年には「八百長演説」として政治の比喩にも使われました。人物の通称から相撲社会の言葉へ、さらに競技一般と日常的な「なれあい」へ、意味の範囲が広がっていった経過を史料で追えます。
よくある疑問
八百長の本名は長兵衛ですか?
現在の辞書では「長兵衛」という説明が広く使われています。1901年10月4日付『読売新聞』の死亡記事は「八百長事斎藤長吉」と記しています。同記事には、長吉の年齢、相撲社会での仕事、回向院前で八百屋を営んだ経歴まで記されています。
「一勝一敗」の囲碁が語源ですか?
現在の辞書は「常に一勝一敗」と説明しています。1901年の記事は、長吉の方が上手で「伊勢の海へ勝を譲る」と記しています。少なくとも同記事から読み取れる逸話は、一勝一敗という定型とは異なります。
「八百長」の最古の用例は1898年ですか?
今回確認した公開情報では、1898年2月5日付『朝日新聞』の用例が早い例として報告されています。精選版『日本国語大辞典』の採録例は1906年です。さらに古い用例が見つかる余地は残るため、1898年は「現在確認できる早い例」と位置づけます。
関連する歴史散歩
斎藤長吉の記録に登場する回向院周辺は、江戸・明治の相撲文化と深く結びついた地域です。両国の町の歴史は、「両国〜清澄白河の歴史散歩|吉良邸跡・勝海舟・六間堀を歩く」でも紹介しています。
参考文献・参考サイト
- 国立国会図書館「日本相撲伝」(鎗田徳之助編、大黒屋画舗、1902年)
- 国立国会図書館「第24回帝国議会 衆議院 本会議 第5号 明治41年1月28日」
- コトバンク「八百長」(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典)
- 公益財団法人馬事文化財団「競馬の歴史」
- 閾ペディアことのは「八百長」(明治期新聞記事の調査・転載)
