千代ヶ崎砲台とは?東京湾要塞の歴史・地下施設・現在・今後

横須賀市の千代ヶ崎砲台跡に残る第一砲座

横須賀市西浦賀の高台には、明治時代に造られた沿岸砲台がほぼ一体の構造を保って残っています。地上には3つの砲座が並び、その背後にはレンガ造の隧道、弾薬庫、掩蔽部、地下交通路があります。

2026年現在、千代ヶ崎砲台跡は土曜日・日曜日・祝日を中心に無料公開され、地下施設はボランティアガイドツアーで見学できます。横須賀市は、砲座と弾薬庫などの地下施設を一体で見られる点を千代ヶ崎砲台の特徴として紹介しています。

この丘の海防史は明治時代より前に始まります。1811年には会津藩が平根山台場を築き、1837年のモリソン号事件では外国船への砲撃が行われました。その約80年後、明治政府は同じ地域に東京湾要塞の一部として千代ヶ崎砲台を建設しました。

江戸時代の台場、1892~1895年の近代砲台、戦後の開拓と海上自衛隊送信所、2015年の国史跡指定、2021年の一般公開まで、約200年にわたって土地の役割が変化してきました。

千代ヶ崎砲台とは|浦賀水道を守った東京湾要塞

名称千代ヶ崎砲台跡
所在地神奈川県横須賀市西浦賀6丁目
起工1892年
竣工1895年
所属東京湾要塞
海正面の主砲28cm榴弾砲3砲座6門
近接防御15cm臼砲4門、機関砲4門など
国史跡指定2015年3月10日
一般公開開始2021年10月23日
2026年の公開土・日・祝日を中心に無料公開
地下施設弾薬庫、掩蔽部、隧道、地下交通路など

千代ヶ崎砲台は、浦賀水道を通って東京湾へ入る艦船を想定した沿岸砲台です。海に向いた砲座だけでなく、近接する敵から砲台自体を守る防御施設も備えていました。

本体は地上の砲座、土塁、塁道と、地下・半地下の弾薬庫、掩蔽部、交通路を組み合わせた施設です。

1811年、会津藩が築いた平根山台場

浦賀周辺では、江戸時代から外国船への警戒が続いていました。1810年ごろ、幕府は会津藩に江戸湾沿岸の警備を命じ、1811年に平根山へ台場が築かれました。

台場は、海岸や高台に大砲を置いて海上を監視・防御する施設です。平根山台場は浦賀水道を見下ろす場所に置かれ、外国船の接近に備えました。

1821年には浦賀奉行所の直轄となります。浦賀は江戸湾へ入る船の監視と検査を担う要地で、平根山周辺はその海防体制の一角を占めました。

1811年に造られた施設は平根山台場です。1892年に起工した千代ヶ崎砲台とは別の施設ですが、同じ丘陵部が時代を越えて海防拠点として利用されました。

1837年モリソン号事件|平根山台場から外国船へ砲撃

1837年、アメリカ商船モリソン号が浦賀へ接近しました。当時の幕府は異国船打払令を運用しており、平根山台場からモリソン号へ砲撃が行われました。

モリソン号は日本人漂流民を送り届ける目的も持っていましたが、日本側にはその事情が十分伝わらないまま退去を迫られました。事件は、外国船への強硬な海防政策と、浦賀が江戸湾入口の重要地点だったことを示す出来事です。

砲撃を行ったのは平根山台場で、明治時代の千代ヶ崎砲台ではありません。1840年代後半には平根山台場を廃止し、千代ヶ崎方面へ新たな台場を整備する方針が検討されました。外国船来航が増えるにつれ、浦賀周辺の海防施設は配置と機能を変えていきます。

明治政府はなぜ東京湾要塞を造ったのか

明治政府成立後、東京は政治の中心となり、横須賀には海軍工廠と軍港が整備されました。外国艦隊が東京湾へ侵入する事態に備え、湾口から内湾にかけて砲台、堡塁、海堡を段階的に配置する東京湾要塞が建設されました。

堡塁は、土塁や砲、兵員施設を組み合わせて周囲を守る防御拠点です。海岸線の砲台だけでなく、島や高台、人工島を利用し、複数の火力で航路を制約する構想でした。

横須賀市は東京湾要塞について、20か所規模の砲台・堡塁・海堡が整備されたと紹介しています。千代ヶ崎は浦賀水道を見下ろす高台に位置し、湾口へ向かう艦船に対する防御線の一部となりました。

猿島砲台など明治10年代に造られた施設と、明治20年代後半の千代ヶ崎砲台を比べると、レンガ積みやコンクリート利用など築城技術の変化も確認できます。

1892~1895年|28cm榴弾砲6門の砲台

千代ヶ崎砲台は1892年に起工し、日清戦争中の1895年に竣工しました。海正面には28cm榴弾砲を置く3つの砲座があり、1砲座2門、合計6門を備える計画でした。

榴弾砲は、比較的高い角度で砲弾を撃ち、山なりの弾道で目標を攻撃する大砲です。千代ヶ崎では砲座を土塁で囲み、砲と兵員を防護しながら浦賀水道へ火力を向ける構造になっていました。

海正面の砲とは別に、15cm臼砲4門、機関砲4門などを備えた近接防御施設も設けられました。臼砲は短い砲身から高い角度で砲弾を撃つ砲で、砲台周辺へ接近する敵を想定した防御に使われます。

砲台の歴史を説明するとき、実戦で敵艦へ射撃したかどうかより、浦賀水道防衛のためにどのような火力と防護施設が配置されたかが重要です。横須賀市の調査と保存整備では、砲座、弾薬庫、塁道などの配置が具体的に確認されています。

砲台の地下世界|弾薬庫・掩蔽部・地下交通路

千代ヶ崎砲台には、第一~第三砲座、第一~第三弾薬庫、第一~第八掩蔽部、第一~第三隧道、高塁道、地下交通路、左翼観測所跡、観測所付属室、貯水所、貯水池、沈殿池、ろ過池、井戸、土塁、露天の塁道などがまとまって残ります。

掩蔽部は兵員や物資を敵の砲撃から守る防護空間です。塁道は砲台内部で砲座や各施設をつなぐ通路で、地上の露天部と地下・半地下部を結びます。

千代ヶ崎砲台跡の塁道と棲息掩蔽部
千代ヶ崎砲台跡の塁道と棲息掩蔽部。Quercus acuta / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

弾薬は砲撃を受けにくい位置で保管し、必要なときに通路を通して砲座へ運びます。兵員も掩蔽部へ入り、地上の砲座と地下施設を往復できるように計画されました。貯水施設や井戸は、砲台で人員が継続して活動するための基盤でした。

千代ヶ崎の地下施設は1890年代に砲台の一部として計画建設されたものです。日本各地の地下壕・地下軍事施設に多い太平洋戦争末期の急造地下壕や地下工場とは、建設時期も役割も異なります。

レンガを見ると築城技術の進歩が分かる

千代ヶ崎砲台跡で確認されるレンガの組積法は、横須賀市によるとすべてオランダ積みです。オランダ積みは、長い面を見せる段と短い面を見せる段を交互に積む方法で、明治期の建築・土木施設に広く用いられました。

確認されているレンガの製造元は小菅集治監に限られます。集治監は明治期の監獄施設で、小菅では囚人労働によるレンガ製造が行われ、軍事施設を含む近代建築・土木工事に供給されました。

千代ヶ崎では普通煉瓦と焼過煉瓦(やきすぎれんが)が用途によって使い分けられています。焼過煉瓦は高温で強く焼いたレンガで、吸水しにくい性質があります。横須賀市は、雨にさらされる壁面や隧道入口に、雨水への防水や帯水防止を目的として焼過煉瓦を使用したと説明しています。

曲がった塁道などでは斜架拱(しゃかきょう)と呼ばれるレンガアーチ技術も確認されています。通路が斜め・曲線で交わる部分でもアーチを成立させるための施工で、複雑な砲台内部をレンガで構築した技術を残しています。

猿島砲台と比べると建築材料の変化が分かる

猿島砲台と千代ヶ崎砲台は、2015年に一体で国史跡「東京湾要塞跡」に指定されました。建設時期の違いから、明治期の築城技術の変化を比較できます。

明治10年代に建設された猿島砲台では、主要なレンガ建造物にフランス積みが使われ、レンガと切石が主要材料でした。明治20年代後半の千代ヶ崎砲台ではオランダ積みが採用され、コンクリートも使われています。

千代ヶ崎では雨水の影響を受ける場所に焼過煉瓦を使うなど、材料を用途別に使い分けています。両砲台の比較は単純な優劣ではなく、約10年余りの間に材料、レンガ積み、コンクリート利用が変化した過程を示します。

明治の千代ヶ崎砲台と千代ヶ崎砲塔砲台は別施設

1892~1895年に建設された千代ヶ崎砲台は、28cm榴弾砲などを備えた明治期の沿岸砲台です。周辺には大正~昭和期に造られた千代ヶ崎砲塔砲台関係施設も分布します。

東京湾防衛線は時代とともに湾外側へ広がり、兵器と築城方法も変化しました。「千代ヶ崎砲台」と「千代ヶ崎砲塔砲台」は名称が似ていますが、建設時期、兵器、施設構成の異なる別施設です。

敗戦後は開拓・養豚、海上自衛隊送信所へ

敗戦後、千代ヶ崎砲台の土地は軍事施設としての役割を失いました。横須賀市の保存活用計画では、1952年に農林省から開拓者へ払い下げられ、一部が養豚場として利用されたことが記されています。

戦後の鉄不足の時期には、扉や金物などの鉄製品が取り外されました。砲台内部には、金属部材が失われた痕跡が残っています。左翼観測所も、この時期の開拓や土地利用の中で撤去・埋没した可能性が指摘されています。

1960年、海上自衛隊が土地を取得し、千代ヶ崎送信所として長期間利用しました。敗戦後の土地は、農業利用と自衛隊通信施設を経て、現在の文化財へつながっています。

2008年、海上自衛隊側から用途廃止に関する連絡があり、横須賀市は史跡として保存するための調整を進めました。

2015年国史跡、2021年一般公開|発掘と保存整備

千代ヶ崎砲台跡は2015年3月10日、猿島砲台跡とともに国史跡「東京湾要塞跡」に指定されました。横須賀市は、近代の軍事遺跡として初の国史跡指定と紹介しています。

指定後は保存活用計画と整備基本計画を策定し、発掘調査、安全対策、レンガやコンクリートの保存科学調査、砲座・観測所などの調査、ガイド育成を進めました。

横須賀市の千代ヶ崎砲台跡に残る第三砲座
千代ヶ崎砲台跡の第三砲座。Quercus acuta / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

2021年10月23日から土日祝日を中心とする一般公開が始まりました。公開後も発掘と保存整備は継続し、調査成果を現地説明やガイドへ反映しています。

横須賀市資料による入場者数は、2022年度9,692人、2023年度8,498人、2024年度20,248人です。2024年度の増加について、市はテレビ番組で紹介された影響を理由の一つに挙げています。

2026年現在の見学方法|地下施設はガイドツアーで見学

横須賀市が2026年6月29日に更新した案内では、千代ヶ崎砲台跡は土曜日、日曜日、祝日に無料公開されています。12月29日から1月3日は公開対象外です。

  • 入場料:無料
  • 個人見学:予約不要
  • 3月~9月:9:30~16:00、閉園16:30
  • 10月~2月:9:30~15:00、閉園15:30
  • 地下施設:ボランティアガイドツアーで見学
  • ガイド所要時間:45~60分程度
  • アクセス:浦賀駅から京急バス久19系統「燈明堂入口」下車、徒歩約15分

大雨、暴風、台風接近、降雪、熱中症特別警戒アラートなどで臨時休場となる場合があります。史跡は標高約65mの高台にあり、入口まで坂道があります。

地下施設の内部は自由通行ではなく、現地でガイドを依頼して見学する方式です。砲座、塁道、弾薬庫、掩蔽部を順に見ることで、地上と地下が一つの砲台として設計された構造を追えます。

横須賀に残る他の地下軍事施設との違い

横須賀・東京湾沿岸には、建設時期と用途の異なる地下軍事施設が残っています。貝山地下壕は太平洋戦争期の追浜海軍航空拠点に残る地下壕、旧海軍通信学校地下壕は久里浜の海軍通信教育施設に関係する地下壕です。

館山の赤山地下壕も海軍航空基地関係の大規模地下施設です。これらが主に太平洋戦争期、とくに戦争末期の航空・通信拠点の地下化と関係するのに対し、千代ヶ崎は1890年代に計画建設された近代要塞の地下補助施設です。

同じ「地下に入れる軍事遺跡」でも、年代、設計思想、地下へ移した機能を分けて見ることで、江戸末期から明治、太平洋戦争期までの軍事施設の変化を比較できます。

保存活用は公開後も続く

史跡は公開後も風雨、植物、地下水、材料の劣化などの影響を受けます。横須賀市の整備基本計画では、保存状態の評価、除草・清掃、施設点検、地域やガイドとの協力を継続する方針が示されています。

千代ヶ崎砲台では、砲座やレンガ施設を見せるだけでなく、発掘成果、平根山台場から続く海防史、戦後の土地利用まで含めて史跡を活用しています。2026年も一般公開とガイド活動が続き、保存と見学を並行させる運用が行われています。

参考文献・確認先

  1. 横須賀市「東京湾要塞跡(千代ヶ崎砲台跡)」
  2. 横須賀市「千代ヶ崎砲台跡の公開」
  3. 横須賀市「史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡・千代ヶ崎砲台跡 保存活用計画 第1章~第2章」
  4. 横須賀市「史跡東京湾要塞跡 保存活用計画 第3章~第10章」
  5. 横須賀市「史跡東京湾要塞跡整備基本計画」
  6. 横須賀市「文化振興の取り組みについて」