東京23区最後の牧場。練馬「小泉牧場」が残った理由

練馬区大泉学園町の住宅街に、牛舎とサイロを備えた小泉牧場があります。練馬区は同牧場を「23区でたったひとつのぼくじょう」と紹介しています。1935年に現在地で開業し、都市化の中で周囲の牧場が消えていく中、2002年には東京23区で唯一の酪農牧場になりました。

小泉牧場の歴史には、東京の酪農そのものの変化が重なっています。明治期には都心にも牧場があり、人口増加と市街化によって外縁へ移動しました。戦後の練馬では住宅が急増し、牧場の臭いや牛の鳴き声をめぐって地域住民との対立も起きました。二代目の小泉與七さんは廃業を考えるほど孤立しますが、学校教育をきっかけに地域との関係を作り直します。

三代目の小泉勝さんは、さらに牧場を地域へ開きました。相続を乗り越えるため敷地を縮小し、2024年には牧場単独の牛乳を商品化します。小泉牧場が残った90年余りは、土地を守った歴史と同時に、都市の中で牧場の役割を作り直した歴史でもあります。

明治の東京は、牧場が珍しい都市ではなかった

現在の東京中心部から牧場を想像するのは難しくなりましたが、明治初期には都心にも酪農牧場がありました。農協共済総合研究所の調査は、港区に29戸、千代田区に14戸の牧場が存在した時期があったことを紹介しています。紀尾井町や麹町など、現在は官庁やオフィスが集まる地域にも牛がいました。

当時の牛乳は現在ほど長距離輸送に向いておらず、搾乳した場所と消費地の距離が重要でした。人口が集中する東京は大きな牛乳市場であり、消費者に近い場所で乳牛を飼う都市酪農が成立しました。

明治30年ごろから市街地が拡大すると、牧場は東京中心部から周辺地域へ移動します。搾乳機、冷却設備、保存技術、道路輸送が発達すると、牛乳を都市の近くで生産する必要も小さくなりました。都市の地価上昇と住宅化も加わり、酪農の中心は次第に郊外へ移ります。

1935年、獣医師・小泉藤八が大泉へ移った

現在の小泉牧場を開いたのは小泉藤八です。農協共済総合研究所の聞き取り調査によると、藤八は大学で獣医学を学び、獣医師となった後、現在の豊島区にあった親族の小泉牧場で修業しました。その後、1935年(昭和10年)に大泉で独立します。

三代目の小泉勝さんは2024年、家の酪農のルーツが岩手県岩泉町にあり、その後、豊島区巣鴨を経て大泉へ来たと説明しています。大泉へ移った当初は乳を搾る牧場より、牛を売買する家畜商の性格が強く、周辺の畑作農家と畜産を組み合わせる農家へ牛を供給していました。牛を少しずつ増やし、酪農を本業にしていきます。

1935年の大泉には畑が広がり、家畜を飼う農家も周囲にいました。その後の市街化で住宅街が牧場の周囲まで広がりました。

練馬の人口は10年で2.3倍、牧場の周囲が住宅地になった

戦後の練馬は急速に都市化しました。農協共済総合研究所の調査によると、練馬区の人口は1955年の17万3,950人から1965年には40万7,033人へ増え、10年間で約2.3倍になりました。同じ期間に経営耕地面積は1,866ヘクタールから1,215ヘクタールへ減少しています。

1967年の練馬区にはまだ10戸の酪農家がありました。1977年には8戸、1987年には2戸へ減り、2002年に小泉牧場だけが残ります。住宅地の拡大と地価上昇、牛乳の長距離輸送の発達、経営の大規模化が、都市の小規模牧場を減らしました。

小泉牧場にも住宅が迫りました。かつて周囲に数えるほどしかなかった家が増え、昭和50年代になると「臭い」「汚い」「牛の鳴き声がうるさい」といった苦情が寄せられます。区役所からも繰り返し対策を求められました。

二代目・小泉與七は、地域で孤立した

二代目の小泉與七さんが藤八から経営を継いだのは1981年です。同じころ下水道が整備され、糞尿を下水道へ流せるようになりました。與七さんは牛舎を頻繁に掃除し、臭いが少なくなるよう飼料を工夫し、糞尿を人目につきにくい場所へ置くなど対策を続けます。

それでも苦情は続きました。農協共済総合研究所の調査は、この時期の小泉牧場が地域で孤立し、與七さんが廃業を考えるほど追い込まれたことを記録しています。

郊外や山間地へ移転し、大規模化する選択も検討されました。しかし小泉家が蓄積してきたのは都市酪農の経験です。土地には相続税の納税猶予制度が関係し、従業員の雇用もありました。與七さんは先代から引き継いだ大泉で続ける道を選びます。

1985年、何度断っても来る教師が牧場を変えた

転機は1985年(昭和60年)に訪れました。東京学芸大学附属大泉小学校の教師が、5年生の社会科見学を小泉牧場で行いたいと申し込みます。地域との対立に疲れていた與七さんには、子どもを受け入れる余裕がありませんでした。

與七さんは断りました。それでも教師は何度も牧場へ来ました。熱意に押され、最後に見学を受け入れます。

当日、與七さんが目にしたのは長靴を履いた子どもたちでした。教師は事前に牧場での振る舞いと酪農について教え、子どもたちも勉強していました。その後、子どもたちは4、5回牧場へ通い、作業を体験します。学校の発表会に招かれた與七さんは、子どもたちから感想文を受け取りました。

地域から苦情を受け続けていた牧場に、別の関係が生まれました。子どもたちの質問に答えられず、與七さん自身が酪農の基礎を勉強し直すこともありました。牧場の仕事を外へ説明することが、地域との関係を作り直す作業になっていきます。

学校教育と福祉が、牧場と地域をつなぎ直した

1993年からは大泉小学校の情緒障害学級の児童を受け入れ、2000年には東京都の社会適応訓練事業にも協力しました。子どもが親と牧場へ来る姿が地域で見られるようになると、苦情も減っていったとされています。

2001年には大泉小学校3年生の「小泉牧場探検」が始まります。この年の子どもたちは年間約20回も牧場へ通いました。「牛乳はどうやってできるのか」「糞尿はなぜ臭いのか」「牛の胃はどうなっているのか」とテーマを決め、牧場を調べます。授業外の時間に訪れる子どもや、子牛の出産を見に来る子どもも現れました。

2002年、小泉牧場は中央酪農会議の「酪農教育ファーム」に認定されます。練馬区との関係も、苦情対策を求められる関係から、区民向け牧場体験を共同で行う関係へ変わりました。2004年からは練馬区単独事業として牧場体験が始まっています。

三代目・小泉勝は「牧場が嫌いな子ども」だった

三代目の小泉勝さんは1970年生まれです。父の與七さんが働き詰めだったため、子どものころは家業が嫌いだったと振り返っています。長男として牧場を継ぐ道へ進み、八ヶ岳中央農業実践大学校で学び、スイスの牧場でも研修しました。

1990年にスイスから帰国し、小泉牧場へ入ります。それまで手絞りが中心だった搾乳を完全に機械化し、一部の牛舎を畳み、親子二人で管理できる約40頭規模へ縮小しました。規模を追う酪農より、限られた土地と人員で続ける都市酪農を選んだ形です。

勝さん自身も、教育活動に関わる中で考え方を変えていきました。牧場を一般に開き、来訪者へ酪農を説明するようになります。牛との関係を「飼うのではなく、育てる」と表現し、地域の人が牛と接する環境を作りました。

2002年、23区の酪農牧場が1軒になった

練馬区で最後まで残っていたもう一軒の酪農家が廃業し、2002年、小泉牧場は東京23区唯一の酪農牧場になりました。

「最後の一軒」になったのは、都市で酪農を続ける条件が厳しくなった結果です。牛舎には一定の土地が必要で、住宅が近ければ臭気や鳴き声への配慮が欠かせません。牛の糞尿処理、飼料搬入、搾乳設備、乳の出荷など、都市の住宅地では一つ一つが近隣との関係に直結します。

小泉牧場は毎日何度も牛舎を掃除し、地域から出るおからを飼料として使うなど、都市の条件に合わせて経営を続けてきました。教育活動で地域に牧場の内側を見せたことも、操業を続けるための重要な仕事になりました。

相続税を乗り越えるため「続けるために縮小」した

都市農業では、土地の相続が経営を左右します。住宅地の土地価格が上がると、農業用地を相続した際の負担も重くなり、土地評価額と農業収入の間に大きな隔たりが生じます。

小泉牧場も相続を機に大きな決断をしました。CRAFT MILK’Sの紹介によると、勝さんは牧場の土地を半分に縮小し、残りの土地を終末医療を行うホスピスとして活用する選択をしています。残った半分で酪農を継続するための縮小でした。

かつて約40頭を飼った牧場は、縮小後の紹介では約29頭とされています。東京23区で土地を広げるのは難しく、規模を小さくすることが事業を残す手段になりました。

搾った牛乳を、牧場の名前で売れなかった

小泉牧場では長く、搾った生乳を共同集乳へ出荷してきました。多くの酪農家と同じく、乳業メーカーへ運ばれる過程で複数牧場の生乳と混ざるため、「小泉牧場だけの牛乳」として店頭に並ぶ商品はありませんでした。

地域では先に、牧場の生乳を使ったアイスミルクが生まれています。学校の教師からオリジナル商品を勧められ、知り合いの工房で製造しました。練馬区の地産地消や観光の取り組みとも結び付き、アイスを目当てに牧場を訪れる人も増えました。

それでも、毎日搾る牛乳そのものを牧場単位で飲んでもらう機会はありませんでした。この構造に着目したのが武蔵野デーリーの木村充慶さんです。牧場ごとの味を生かす「CRAFT MILK’S PROJECT」の第一弾として、小泉牧場のシングルオリジン牛乳を商品化する計画を立ち上げます。

2024年、病気による延期を越えて「小泉牧場の牛乳」が発売された

2024年のクラウドファンディングでは、目標200万円に対して302万3,000円が集まり、294人が支援しました。低温殺菌・ノンホモジナイズで、小泉牧場の生乳だけを使う牛乳の開発が進みます。

発売準備中、勝さんが病気で入院し、販売開始は延期されました。退院後、2024年9月14日に「CRAFT MILK’S MILK」の販売が始まります。週末の販売では売り切れが続き、同年11月にはアイスも復活しました。

この取り組みは約1年で一区切りとなり、牛乳とアイスは2025年8月31日で終売しました。小泉牧場自体はその後も続き、2026年の地域事業でも「東京23区唯一の小泉牧場」として歴史を紹介する催しが企画されています。

小泉牧場が残したのは「牛乳を作る場所」以上の役割だった

小泉牧場が大泉に来た1935年、周囲には畑が広がっていました。戦後に住宅が迫ると、牧場は地域にとって迷惑施設として見られる時期を経験します。與七さんは臭気対策を続け、教師と子どもを受け入れ、牧場の仕事を地域へ説明しました。勝さんは酪農教育ファームを広げ、相続では規模を縮めて土地を残し、牧場単独の牛乳にも挑戦しました。

東京23区で最後まで残った理由には、酪農技術と同じくらい、地域との関係づくりがあります。都市の中で牛を飼う以上、牧場の外側と切り離して経営を続けることは難しくなりました。小泉家は、閉じた生産現場だった牧場を、子どもが学び、住民が牛に会い、地域が応援する場所へ変えてきました。

大泉学園の住宅街に牛がいる風景は、昔の東京に牧場が多かった時代の名残であると同時に、都市農業が生き残るために役割を変えてきた現在の姿でもあります。

参考資料