板橋区南常盤台二丁目11番には、大小二体の「平安地蔵」が祀られています。昭和20年(1945)6月10日の空襲で亡くなった人々を弔うため、昭和23年(1948)6月10日に地域の人々が建立したものです。大人と子どもを表した二体の地蔵と、その後に建てられた歌碑が、戦争で大きな被害を受けた町の記憶を伝えています。
1945年6月10日、南常盤台・東新町を襲った空襲
昭和20年6月10日の朝、アメリカ軍の爆撃機が南常盤台から東新町にかけての地域を空襲しました。工場や住宅が集まる地域に爆弾が落とされ、多くの住民が亡くなり、家屋にも大きな被害が出ました。板橋区内でも特に多数の死傷者が出た空襲として記録されています。
板橋区の散策案内では、死者270人以上、負傷者155人、罹災者2,467人と紹介されています。一方、当時の警察資料をもとにした記録では死者269人とされ、被害人数の集計には資料による違いがあります。空襲直後は避難や救護が続き、被害の全容を把握することが難しい状況にありました。
学校日誌が残した避難者の記録
近くの上板橋小学校に保存されていた昭和20年度の学校日誌にも、この日の空襲が記録されています。日誌には通学区域で爆弾による被害が発生したことが記され、罹災者2,550人のうち155人が学校へ避難していたと報告されました。学校の建物が、空襲後に住民を受け入れる場所となったことを伝える記録です。
学校日誌の罹災者数と、別の被害集計にある2,467人という数字は異なります。数字が記録された時点や集計方法を踏まえて読む必要があります。学校日誌の詳細は上板橋小学校校史資料の歴史でも紹介しています。
1948年6月10日に建てられた二体の地蔵
終戦から3年後の昭和23年6月10日、地元の有志や遺族らが費用を出し合い、空襲の犠牲者を供養する地蔵を建立しました。大きい地蔵と小さい地蔵は、大人と子どもを表しています。「平安地蔵」の名には、亡くなった人々を弔い、再び同じ被害を繰り返さないという願いが込められました。
昭和32年(1957)には、空襲の十三回忌にあわせて地蔵の傍らに歌碑が建立されました。碑には空襲で亡くなった人々を記憶に残すための文字が刻まれています。慰霊の場所が戦後も地域によって維持されてきたことを示しています。
天祖神社に残る空襲の痕跡
近くの南常盤台天祖神社には、1945年6月10日の空襲で飛び散った爆弾の破片による傷が狛犬の台座に残っています。地蔵が犠牲者の供養のために戦後建てられたのに対し、狛犬台座の傷は空襲の当日に生じた痕跡です。二つの場所をたどると、戦時の被害と戦後の追悼が同じ町に残されていることが分かります。
所在地と見学
平安地蔵は板橋区南常盤台2丁目11番付近にあり、東武東上線「ときわ台駅」から徒歩圏内です。平成7年度(1995年度)に板橋区登録記念物(史跡)となりました。周辺は日常生活の場でもあるため、見学時には近隣への配慮が必要です。常盤台・前野・西台周辺の歴史と文化財では、地域の住宅地や学校の歴史も紹介しています。
参考資料
- 板橋区「常盤台散策コース」
- 板橋区「上板橋小学校の校史資料と地域の歴史」
- 板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』
