秋葉原から神田川を越え、御茶ノ水、駿河台、神保町へ。わずかな徒歩圏の中に、江戸の街道、明治・大正の鉄道、幕末の近代化、震災復興、大学街、古書店街の歴史が重なっています。
ゆる歴史散歩会で歩いたルートをもとに、旧万世橋駅、神田旅籠町、聖橋、小栗上野介生誕の地、男坂、専修大学黒門をたどります。江戸から近代へ東京の中心が変わっていく過程を、現在の街並みの中で追える散歩です。
昔の町名や武家地、鉄道の位置を現在の街と重ねて見る方法は、古地図まるわかりガイド|江戸・明治の地図で東京の街歩きが楽しくなる入門でも紹介しています。
旧万世橋駅|秋葉原の南にあった巨大ターミナル
万世橋駅は1912年、中央線の昌平橋―万世橋間が延伸した際に開業しました。現在の秋葉原駅南西、神田川沿いの赤レンガ高架に設けられた駅で、路面電車が集まる須田町とともに東京有数の交通拠点を形づくりました。

1919年に中央線が東京駅まで延びると終着駅としての役割を失い、1923年の関東大震災後には駅舎も簡素化されました。1936年には駅に隣接して鉄道博物館が開館し、1943年に万世橋駅は休止。現在は旧ホームや1912年開業時の階段を生かした商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として使われています。

万世橋から神田駅へ続く鉄道の変化は、神田駅の歴史を完全解説|開業・高架橋・震災復興・銀座線の100年でも詳しくたどれます。秋葉原側の史跡をさらに歩くなら、秋葉原の歴史散歩も同じ地域の理解につながります。
廣瀬武夫像跡|駅前に立っていた明治の英雄
旧万世橋駅前には、かつて海軍軍人・廣瀬武夫の銅像が立っていました。廣瀬は日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死し、軍神として広く知られるようになった人物です。
交通の結節点だった駅前に大きな人物像が置かれたことで、通勤や買い物で行き交う人々の視界に国家的な記憶が組み込まれました。現在の万世橋周辺に像はありませんが、跡地を知ると、同じ場所が鉄道の玄関口、顕彰空間、商業施設へと役割を変えてきたことが分かります。
神田旅籠町|江戸時代から続く「交通の町」
昌平橋の北側には、かつて神田旅籠町がありました。中山道の板橋宿や日光御成街道の川口宿へ向かう街道筋で、旅籠が数多く並んだことが町名の由来と伝えられています。
幕末には旅籠の数が減り、米、炭、塩、酒などを扱う問屋が増えました。その後、近くに万世橋駅と路面電車の停留所ができ、江戸の街道交通の町は近代の鉄道交通の町へ姿を変えます。現在の秋葉原を「電気街」より前の時間から見るための重要な町名です。
聖橋|関東大震災後の東京を象徴する橋
聖橋は1927年、関東大震災後の復興事業で完成しました。神田川の北側にある湯島聖堂と、南側にある東京復活大聖堂(ニコライ堂)の二つの「聖堂」を結ぶことから名付けられました。

設計に関わった山田守は、後に日本武道館や京都タワーも手がけた建築家です。大きなコンクリートアーチは、震災後の東京が道路や橋を新しい都市景観として再構築した時代を伝えています。橋上からは神田川とJR線、東京メトロ丸ノ内線が重なる景色も見渡せます。
駿河台|神田山を切り開いて生まれた武家地
駿河台は、もともと本郷・湯島台と地続きの「神田山」と呼ばれる高台でした。江戸の町づくりで神田山が切り崩され、さらに神田川の開削によって本郷側と分かれ、現在の地形が形づくられました。
徳川家康の死後、駿府から江戸へ戻った家臣たちがこの高台に屋敷を構えたことから「駿河台」の名が定着したと伝えられています。江戸時代には幕臣の屋敷が並び、その一角で幕末の幕臣・小栗忠順が生まれました。
小栗上野介|幕府の近代化を進めた駿河台生まれの幕臣
小栗忠順は1827年、駿河台の小栗家屋敷に生まれました。官職名の「上野介」で広く知られ、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行など幕府の要職を務めました。

1860年には遣米使節の一員として渡米し、帰国後は幕府財政や軍制の立て直しに携わりました。フランスの協力を得て横須賀製鉄所の建設を推進したことでも知られます。横須賀製鉄所は造船と機械工業の拠点となり、明治政府にも引き継がれました。

戊辰戦争が始まると小栗は幕府から罷免され、上野国権田村へ移住します。1868年、新政府軍に捕らえられ処刑されました。駿河台の生誕地は、幕末の江戸で近代化を構想した幕臣の出発点です。
男坂|震災復興で生まれた73段の階段
猿楽町の男坂は、古い寺社の参道のように見えますが、1924年の区画整理でつくられた坂です。73段の急な階段で、近くの女坂より勾配がきついことから男坂と呼ばれています。

聖橋と男坂はいずれも、1923年の関東大震災後に生まれた都市空間です。橋や道路だけでなく、台地と低地を結ぶ坂まで含めて街路が再編されたことが、歩くと実感できます。
専修大学黒門|神田が大学街へ変わった時代
専修大学の前身・専修学校は1880年に開校し、1885年に神田へ移転しました。1888年の校舎増築時には黒い冠木門が設けられ、「東京大学の赤門」に対して「専修学校の黒門」と呼ばれるほど学校の象徴になりました。現在の黒門は創立130年記念事業で復元されたものです。
明治期の神田・神保町周辺には、明治法律学校、英吉利法律学校、日本法律学校など、現在の大学につながる学校が相次いで誕生しました。江戸時代の武家地だった一帯が、学生と教師が集まる文教地区へ変わっていきます。
神保町|なぜ世界有数の古書店街が生まれたのか
神保町の名は、元禄期にこの付近へ広い屋敷を構えた旗本・神保長治に由来します。江戸時代には武家屋敷が並んでいましたが、明治になると一ツ橋や神田周辺に学校が集まり、町の性格が大きく変わりました。

学生や研究者が増えると書籍需要が高まり、1875年に高山本店、1877年に有史閣が創業。1881年には三省堂、1913年には岩波書店が創業しました。明治後期には古書店が増え、大正初期には周辺の学校が70以上を数え、新刊書店や出版社も集積します。
神保町は関東大震災や戦時下を経ても本の街として発展を続けました。現在の古書店街は、大学街、出版社、印刷業、喫茶店などが長い時間をかけて集まった結果です。秋葉原から歩いてくると、交通の町から学問と出版の町へ、東京の都市機能が連続して変化していく様子が分かります。
実際に歩いたルート
ゆる歴史散歩会では、秋葉原側から神保町へ向かって次の順番で歩きました。リンク先は各地点のGoogleマップです。
万世橋で近代交通の痕跡を見て、神田旅籠町で江戸の街道へ時間を戻し、聖橋から震災復興、駿河台から幕末、神保町から明治以降の大学・出版文化へ進むルートです。

