東京で沖縄を探す|江戸上り・尚泰・空手・県人会にたどる琉球と東京の400年

1832年の琉球使節の行列を描いた図版

東京の街を歩くと、沖縄の歴史は思いがけない場所から姿を現します。江戸城へ向かった琉球王国の使節、九段に暮らした最後の国王、東京帝国大学で沖縄研究を切り開いた学者、三田や雑司ヶ谷から空手を広めた武道家、戦後の復帰運動を支えた県人会。現在の新宿や杉並にも、その流れは続いています。

沖縄と東京の関係は、単純な「地方と首都」の歴史ではありません。琉球王国と徳川幕府の外交、明治国家による沖縄県設置、上京した人々の学問と文化、米国統治下の沖縄をめぐる政治運動まで、時代ごとに意味を変えてきました。

東京の中に残る沖縄をたどると、琉球王国から現代まで約400年の歴史が一本の線になります。

江戸に来た琉球使節――「江戸上り」の記憶

琉球りゅうきゅう王国と江戸の関係が大きく変わったのは1609年です。薩摩さつまの島津氏が琉球へ侵攻し、国王尚寧しょうねいは徳川家康らに謁見しました。その後、琉球王国は中国との関係を維持しながら薩摩藩の支配を受け、徳川幕府とも制度的な関係を持つようになります。

1634年から1850年まで、琉球王国は将軍の代替わりや国王即位に合わせて江戸へ使節を送りました。一般に「江戸上りえどのぼり」と呼ばれ、沖縄県公文書館は18回の派遣を確認しています。使節は100人近い琉球人を中心とする大規模な一行で、薩摩側の随行者とともに海路と東海道を進みました。

江戸に入った一行は、薩摩藩の高輪方面の屋敷を拠点にし、芝口、霞ヶ関、桜田門を経て江戸城へ向かいました。現在の東京で道筋を重ねると、高輪から新橋、霞ヶ関、皇居へ続く都心の軸そのものです。高輪一帯の江戸地理は、「芝高輪辺絵図」を解説した記事でも詳しくたどれます。

使節の存在は政治儀礼だけにとどまりませんでした。行列の装束や音楽は沿道の人々の目を引き、江戸城や薩摩藩邸では琉球の音楽・舞踊が披露されました。国立劇場の文化デジタルライブラリーによれば、こうした江戸上りは琉球芸能と本土芸能が接触する機会にもなりました。琉球の宮廷文化が江戸の観客の前に現れた場所の一つが、現在の東京です。

1879年、最後の国王・尚泰が東京へ移った

明治になると、尚泰しょうたいを中心とした琉球王家と東京の関係は外交使節から居住へ変わります。1872年、明治政府は琉球国王の尚泰を琉球藩王とし、1879年4月には琉球藩を廃して沖縄県を設置しました。国立公文書館に残る裁可書では、旧藩王尚泰に東京居住を命じたことも確認できます。

琉球国最後の国王・尚泰の肖像
琉球国最後の国王・尚泰。Public Domain/那覇市歴史博物館由来・Wikimedia Commons

尚家が東京で暮らした中心地は、当時の麹町区富士見町二丁目8番地です。現在の千代田区九段北二丁目2番地、千代田区立九段中等教育学校の場所にあたります。千代田区立千代田図書館の地歴調査では、1879年から関東大震災後まで旧琉球王家の尚家邸がこの地に置かれ、1887年の華族住所録にも尚泰の住所が記録されています。

邸宅そのものは現存していません。現在は学校敷地で、史跡施設として内部を見学する場所ではなく、九段の街に旧王家が暮らした事実を地図と記録からたどる地点です。明治・大正期の麹町区の街並みは、大正東京・麹町区の古地図解説と重ねると位置関係がつかみやすくなります。

江戸時代には琉球使節が江戸城を訪れ、明治にはその最後の国王が東京に暮らしました。同じ都心に残る二つの地点は、琉球王国と日本国家の関係が変わった時間をそのまま映しています。

伊波普猷――東京で沖縄を学問として問い直す

近代の東京には、王家だけでなく沖縄から学ぶために上京する人々も現れました。その象徴が伊波普猷いは ふゆうです。1876年に那覇で生まれた伊波は、1903年に東京帝国大学言語学科へ入学し、1906年に卒業しました。

1935年頃の伊波普猷の肖像
伊波普猷(1935年頃)。Public Domain/那覇市歴史博物館由来・Wikimedia Commons

卒業後は沖縄へ戻り、沖縄県立図書館長として郷土資料の収集や啓蒙活動に携わりました。1925年には再び上京し、『おもろさうし』をはじめとする琉球・沖縄の言語、民俗、歴史研究を深めます。国立国会図書館は伊波を「沖縄学の父」と紹介しています。

伊波の上京は、沖縄を研究対象として東京の学界に持ち込む大きな流れの一部でした。本郷の東京帝国大学周辺を歩くと、沖縄研究の一つの出発点を東京の大学史の中に置いて考えられます。周辺の変化は大正東京・本郷区の古地図解説でも確認できます。

東京から世界へ広がった空手――船越義珍と三田・雑司ヶ谷

沖縄の文化が東京で大きく姿を変えた代表例が空手です。沖縄県出身の船越義珍ふなこし ぎちんは1922年、東京で開かれた体育関係の展覧会を機に空手を紹介し、その後東京に残って普及活動を続けました。

1924年の船越義珍の肖像
船越義珍(1924年)。Public Domain/『錬胆護身唐手術』由来・Wikimedia Commons

慶應義塾では船越の演武に感銘を受けた教員や学生が空手を学び、1924年に大学の空手組織が発足しました。慶應義塾の資料は、沖縄で育った武術が三田の学生社会を通じて組織化され、全国の大学へ広がっていった過程を伝えています。

東京での普及過程では「唐手」から「空手」への表記も定着していきました。1939年には豊島区雑司ヶ谷に松濤館しょうとうかん道場が建てられ、船越と門人たちの稽古拠点となります。松濤館は1945年4月の空襲で焼失しましたが、その名は流派名とともに世界へ広がりました。

首里や那覇で育った武術が、三田や雑司ヶ谷を経て日本の大学スポーツ・武道文化へ入り、さらに海外へ伝わった過程は、東京が沖縄文化の「中継地」ではなく変化の舞台だったことを物語ります。

戦後の東京沖縄県人会――復帰運動の前線

第二次世界大戦後、沖縄は米国の施政権下に置かれました。東京では1956年9月9日、浅草公会堂で東京沖縄県人会とうきょうおきなわけんじんかいが結成されます。沖縄では米軍による土地の強制収用に反対する島ぐるみ闘争しまぐるみとうそうが広がっていた時期でした。

県人会の沿革によれば、結成後の10数年間、会は沖縄現地の運動と連携し、米政府、日本政府、国会への陳情を繰り返しました。東京に暮らす沖縄出身者の組織は、親睦の場であると同時に、国政の中心で故郷の復帰を訴える政治的な拠点でもありました。

1972年5月15日に沖縄が日本へ復帰すると、県人会の活動は交流・親睦や文化発信へ重心を広げていきます。2024年には一般社団法人化し、現在は中央区八重洲に事務所を置いています。米国統治下の沖縄で何が起きていたのかは、「写真でたどる米軍統治下の沖縄」で27年間の流れを詳しく解説しています。

沖縄を研究し続ける東京――法政大学沖縄文化研究所

沖縄復帰の1972年、東京には学術研究の新しい拠点も生まれました。法政大学沖縄文化研究所です。設立の直接的な契機となったのは、英文学者の中野好夫なかの よしおが私費で運営していた沖縄資料センターの収集資料が法政大学へ移管されたことでした。

研究所は1972年7月1日に創設され、当初は港区の麻布校舎に置かれました。1981年に市ヶ谷キャンパスへ移り、2000年からはボアソナード・タワー21階を拠点としています。研究対象は沖縄本島だけでなく、奄美、宮古、八重山を含む南島地域へ広がっています。

江戸上りが琉球文化を江戸へ運んだ時代から約300年後、東京には沖縄・奄美・先島の資料を集め、研究し、次世代へ渡す常設拠点が生まれました。法政大学のある市ヶ谷周辺は、市ヶ谷・牛込の古地図解説と合わせると、江戸から近代大学都市への変化も見渡せます。

琉球政府東京事務所から沖縄県東京事務所へ

戦後の行政史にも東京との強い接点があります。沖縄県の公式記録によると、1951年に琉球臨時中央政府りゅうきゅうりんじちゅうおうせいふの駐日貿易代表事務所が千代田区丸の内に置かれました。1953年に琉球政府駐日代表事務所、1961年に琉球政府東京事務所となり、1972年の日本復帰と同時に沖縄県東京事務所へ移行しました。

現在の東京事務所は千代田区平河町二丁目、都道府県会館10階にあります。中央官庁や関係機関との連絡調整、産業・観光情報の収集、企業誘致などを担う行政拠点です。江戸時代の使節、明治の尚家、戦後の琉球政府事務所、現在の県事務所までたどると、沖縄と日本の中央政府を結ぶ場所が時代ごとに東京に置かれてきたことが分かります。

現在の東京で沖縄文化に出会う

現在の東京では、沖縄との関係が行政や研究だけでなく都市文化として定着しています。郷友会きょうゆうかいや県人会の活動に加え、祭り、商店街、物産拠点がそれぞれ異なる形で沖縄を伝えています。

新宿エイサーまつり

新宿駅周辺では毎夏、新宿エイサーまつりが開かれています。2026年は7月25日に第23回が開催され、新宿駅東口・西口一帯で演舞が行われました。沖縄で活動する団体も参加し、エイサーが東京の大規模な夏祭りとして根付いています。

杉並・和泉の沖縄タウン

杉並区和泉の和泉明店街は2005年、商店街活性化のテーマとして「沖縄タウン」を打ち出しました。伊波普猷ら沖縄ゆかりの学者が杉並に暮らしたことや、周辺に沖縄関係者が多かった地域性を背景に、首里城を意識した街路灯やみんさー織柄の意匠、沖縄物産を扱う店舗などを整備しました。古い移民街がそのまま残った地区ではなく、地域の歴史と商店街再生が結びついて生まれた現代の「東京の中の沖縄」です。

有楽町の銀座わしたショップ

沖縄県物産公社が運営する銀座わしたショップ本店は、有楽町の東京交通会館1階にあります。物産販売が中心ですが、工芸品、書籍、楽器なども扱い、現在の沖縄文化へ触れる入口になっています。江戸上りから県人会までを歩いた後に訪れると、歴史上の交流が現代の日常文化へつながっていることが実感できます。

東京で沖縄の歴史を歩くなら、3つの軸が見えてくる

江戸城えどじょう、九段、市ヶ谷、三田、八重洲。東京に散らばる沖縄ゆかりの場所は、時代ごとに三つの軸へ整理できます。

  1. 琉球王国と江戸幕府:高輪周辺から霞ヶ関・桜田門・江戸城へ、琉球使節の江戸上りをたどる。
  2. 近代国家と上京者:九段の尚家邸跡、本郷の東京帝国大学、三田の慶應義塾、市ヶ谷の法政大学をつなぎ、王家・研究者・文化人が東京へ移った歴史を見る。
  3. 戦後と現代のネットワーク:八重洲の東京沖縄県人会、平河町の沖縄県東京事務所、新宿エイサー、杉並の沖縄タウンから、復帰運動と文化継承をたどる。

旧尚家邸跡は現在学校敷地、東京沖縄県人会と沖縄県東京事務所は事務所施設です。街歩きでは建物内部の見学を目的にせず、周辺の地理と歴史をたどる地点として位置づけると、それぞれの場所の意味が明確になります。

東京に残る沖縄・琉球の主要スポット

九段北くだんきたから高輪、新宿、杉並まで、現在確認できる主要な地点を時代順にまとめます。

場所沖縄との関係現在見られるもの
高輪周辺琉球使節が滞在した薩摩藩屋敷のあった地域街区・道路。屋敷建物は現存せず
皇居東御苑・江戸城跡琉球使節が将軍へ謁見した江戸城江戸城本丸跡など
九段北二丁目1879年以降の旧琉球王家・尚家邸現在は九段中等教育学校。旧邸宅は現存せず
慶應義塾三田キャンパス船越義珍の指導を受け大学空手が発展大学キャンパス・空手部の伝統
法政大学市ヶ谷キャンパス1972年創設の沖縄文化研究所ボアソナード・タワーの研究拠点
東京沖縄県人会1956年結成、復帰運動と県人交流八重洲の現役事務所
沖縄県東京事務所琉球政府東京事務所を前身とする行政拠点平河町・都道府県会館
新宿駅周辺新宿エイサーまつり夏季の大規模なエイサー演舞
杉並区和泉2005年に誕生した沖縄タウン商店街の街路灯・店舗・沖縄意匠

よくある質問

Q. 東京に琉球王国時代の建物は残っていますか?
琉球使節が利用した薩摩藩邸や旧尚家邸の建物は現存していません。一方、江戸城跡、高輪や霞ヶ関の街路、九段の尚家邸跡地など、史料と現在地を重ねてたどれる場所があります。

Q. 「江戸上り」とは何ですか?
琉球王国が徳川幕府へ派遣した使節の通称です。将軍の代替わりには慶賀使、琉球国王の代替わりには謝恩使が送られ、1634年から1850年まで18回行われました。

Q. 旧尚家東京邸跡は見学できますか?
跡地は現在、千代田区立九段中等教育学校です。旧邸宅は残っておらず、一般の史跡施設ではありません。公道側から周辺の地理を確認する形になります。

Q. 現在の東京で沖縄文化を体感できる場所は?
新宿エイサーまつり、杉並区和泉の沖縄タウン、有楽町の銀座わしたショップなどがあります。東京沖縄県人会や沖縄県東京事務所は現在も活動する組織・行政拠点です。

参考資料