東京に1社だけ。武蔵小山「中屋パン粉工場」とパン粉専門業の物語

品川区小山4丁目、武蔵小山駅から歩いて5分ほどの住宅・商店街の中に、パン粉だけを専門に作る工場があります。株式会社中屋パン粉工場です。品川区は同社を「都内で唯一の小麦粉原料からの一貫生産による生パン粉製造工場」と紹介し、会社自身も東京で唯一のパン粉メーカーとしています。

パン粉専用のパンを小麦粉から焼き、そのパンを砕き、料理人ごとに粒の大きさ、形、糖度、食感、揚げ色まで調整します。2023年の取材時点で取引先は約900社、常時約50種類を製造していました。

工場の始まりは、戦後の武蔵小山にあった一軒のミルクホールでした。サンドイッチを作ると残る「パンの耳」を近所の精肉店が欲しがったことから、コロッケやメンチカツ用のパン粉づくりが始まります。二代目は料理人から「使い物にならない」と突き返され、三代目はほとんど利益が出ない経営を引き継ぎました。そのたびに、パン粉を作る会社の仕事そのものを作り直してきました。

「パン粉」は西洋のパンくずを日本で作り替えた食材

明治時代、カツレツやコロッケなどの西洋料理が日本へ入ると、衣にはパンを砕いたものが使われました。当時の輸入品は、ビスケットや乾パンを粉末にしたような細かいものが中心でした。日本の料理人は食パンをほぐし、金網でふるって自分たちの料理に合う衣を作るようになります。

日本植物油協会が全国パン粉工業協同組合連合会の資料をもとに紹介するパン粉史では、1907年(明治40年)、東京・京橋八丁堀のパン屋がパンをすり下ろし、粒をそろえたパン粉を洋食店へ販売したことが、パン粉製造業の始まりとされています。日本式のパン粉は、輸入した西洋料理をそのまま再現する中から生まれたのではなく、日本の料理人とパン屋が衣の食感を改良する中で発達しました。

戦後には、もう一つ日本独特のパン粉が発達します。生地へ直接電気を通して加熱する「電極式パン」です。神奈川大学の研究によると、戦後の小麦粉統制期に電気パンを売ったものの売れず、乾燥させてパン粉にすると販路が見つかった例からパン粉メーカーへ転じる事業者が現れました。1950年代後半には設備が大型化し、1960年代には白い電極式パン粉が冷凍エビフライなどに広がります。

こうして日本では、オーブンで焼いたパンから作るパン粉と、電極式の白いパンを使うパン粉など、料理用途に合わせた独自の製造技術が発達しました。「PANKO」は海外でも通じる食品名となり、2012年には英語辞典にも採録されています。

1948年、焼け跡から再出発した武蔵小山で中屋商店が始まった

中屋パン粉工場の前身「有限会社中屋商店」が設立されたのは1948年(昭和23年)12月です。場所は現在の武蔵小山商店街です。

武蔵小山商店街は戦争末期の空襲で全域が焼け、戦後1947年に現在の振興組合の前身となる商店街協同組合を発足させました。中屋商店の設立はその翌年です。商店街そのものが焼け跡から立ち上がる時期と重なっています。

初代・中林幸雄さんは、商店街で営業していたミルクホールを、惣菜パンや食料品を売る店へ変えました。サンドイッチを作ればパンの耳が残ります。その耳を欲しがる近隣の精肉店が増えました。

理由を調べると、精肉店はパンの耳を砕き、コロッケの衣やメンチカツのつなぎに使っていました。中屋商店はパンの余りを渡すだけでなく、自分たちでパン粉を作って精肉店へ売り始めます。戦後の商店街で、パン屋、精肉店、惣菜という近接した商売の間から専門業が生まれました。

1955年、コーヒーミルとリヤカーから「パン粉工場」が始まった

精肉店からの注文が増え、1955年(昭和30年)、初代・幸雄さんは現在地で株式会社中屋パン粉工場を設立しました。商店からパン粉だけを作る工場への転換です。

創業期の設備は現在とは大きく違いました。ミルクホール時代に使っていた業務用コーヒーミルでパンを砕き、天日に干して乾燥させ、紙袋へ詰めました。配達はリヤカーです。

翌1956年には武蔵小山商店街に当時「東洋一」と呼ばれたアーケードが完成します。戦後復興の商店街で総菜や精肉の需要が増える時期に、中屋のパン粉事業も拡大し、工場は武蔵小山周辺の3か所へ広がりました。

パン粉専用のパンを焼く理由

中屋パン粉工場の特徴は、完成した食パンを仕入れて砕くだけではなく、小麦粉からパン粉専用のパンを焼くことです。

食パンを普通に砕くと、丸みを帯びた粒になりやすくなります。中屋はパン生地を長時間発酵させ、長時間焼成して弾力の強いパンにし、砕いても崩れすぎないようにします。出来上がるパン粉は縦長で花びらのような形になり、衣の見栄えや油切れにも影響します。

パンの配合、発酵、焼き方、耳を何面残すか、粉砕する粒度、生パン粉か乾燥パン粉かを変えると、衣の風味、食感、色、油の吸い方が変わります。三代目・中林正一さんは2023年の取材で、条件を組み合わせれば理論上約4,000種類を作れると説明しています。実際には、その中から用途に合わせた約50種類を常時製造しています。

1990年、二代目は料理人から「使い物にならない」と突き返された

1990年(平成2年)、二代目・中林延佳さんは3か所に分かれていた工場を現在地へ統合し、新社屋を建てました。次に狙ったのは、とんかつ店やレストランなど専門店向けの高品質なパン粉でした。

ところが、最初に持ち込んだパン粉は料理人から「レベルが低すぎて使い物にならない」と繰り返し否定されます。精肉店や惣菜向けのパン粉を作ってきた技術だけでは、衣そのものを料理の一部として評価する専門店の要求に届きませんでした。

そこで延佳さんは、料理人と直接話し、どんな食感にしたいのか、どんな色に揚げたいのか、肉や魚とどう合わせるのかを聞く方法へ変えます。とんかつ、串カツ、洋食、精肉、惣菜など業態ごとの注文に合わせてパン粉を増やしました。

失敗した専門店への進出が、後の中屋の強みを作りました。既製品を大量に売るメーカーより、料理人の注文に合わせてパン粉を変える会社へ進んだのです。

なぜ他社は東京を離れ、中屋だけが武蔵小山に残ったのか

パン粉工場は、小麦粉や包装資材を保管し、パンを焼き、粉砕し、乾燥し、大量の商品を出荷する製造業です。事業が大きくなれば広い敷地を持つ郊外工場の方が設備を拡張しやすく、物流面でも有利になります。

中屋パン粉工場の公式サイトは、同業他社が事業拡大とともに郊外へ移転する中、「東京都内でのパン粉の一貫製造」を理念として武蔵小山に残ったと説明しています。現在、品川区も同社を都内唯一の小麦粉から一貫生産する生パン粉工場として紹介しています。

東京に残ったことは生産効率だけを考えれば有利とは限りません。一方、飲食店が密集する東京では、料理人の店へ出向き、料理を食べ、問題を聞き、保冷車で短時間に届けられます。後に同社が直販と提案営業へ力を入れると、この立地が強みに変わりました。

三代目・中林正一は、とんかつ店で一年間修業した

三代目の中林正一さんは、子どものころから家業を見て育ちました。小学5年生の時にはチラシの裏へ自分なりの「経営計画」を書いていたといいます。

大学時代はライブハウスで働き、音楽業界への就職も考えました。卒業後は飲食企業の東和フードサービスへ入り、喫茶部門で約4年間勤務します。将来家業を継ぐ時に飲食店側の仕事を知っておきたいという考えがありました。

2005年からは、とんかつ店へ入り一年間下積みをしました。中屋の顧客にとんかつ店が多かったため、店の収益構造だけでなく、肉の扱い、衣の付け方、揚げ方、食材の選び方まで現場で学びます。

2006年に中屋へ入社すると、最初の一年は朝5時からパン粉を作り、少し仮眠を取り、8時から配送へ出る生活を続けました。工場、配送、営業を一通り経験した後、会社の数字を見ると大きな問題がありました。

取引先450社。「赤字ではないが、利益もほとんどない」

正一さんが入社して2、3年後、中屋は赤字ではないものの、利益がほとんど残らない状態でした。価格を安く設定し、昔からの取引先を回る営業に依存していました。当時の取引先は約450社です。

正一さんは飛び込み営業も試しましたが、営業経験がなく成果は出ません。30代半ばになった2016年ごろ、代替わりを意識し、「もうかる会社にしなければ続けられない」という危機感を持つようになります。

妻の「人生で一番おいしいとんかつ」が仕事を決めた

転機は、取引先のとんかつ店へ妻と食事に行った時でした。持病があり食が細かった妻が、特ロースカツを完食しました。そして「今までの人生で一番おいしいとんかつ」と話します。

その店が使っていたのは中屋のパン粉でした。正一さんは、自社の商品が料理人の技術と組み合わさることで、人の記憶に残る一皿を作れることに気付きます。「うちのパン粉で、誰かにとって人生で一番うまいとんかつを日本中に作りたい」という目標を持ち、パン粉を単なる業務用食材として売る経営から離れていきました。

自社の強みは「有名店が使っている」ことだった

正一さんは経営塾へ通い、自社の説明を繰り返しました。しかしパン粉へのこだわりを話しても、講師の反応は鈍いままでした。

ある時、ミシュランガイドに掲載されたとんかつ店の多くが中屋のパン粉を使っていると話すと、講師の反応が一変しました。正一さん自身は、それまで有名店との取引を自慢するようで抵抗があり、営業でほとんど伝えていませんでした。

そこから、自社の市場での位置を言葉にして発信するようになります。過去に門前払いされた飲食店も話を聞くようになり、値上げを提示しても受け入れられる例が増えました。取引先は年間約40件のペースで増加します。

2023年の朝日新聞社「ツギノジダイ」の取材では、取引先は約900社、97%が直販でした。正一さんによれば、ミシュラン掲載のとんかつ店の8割が顧客になったとされています。

パン粉を売る会社から、とんかつを一緒に考える会社へ

正一さんが以前勤めた喫茶部門では、コーヒー豆のメーカーが豆を納品するだけでなく、淹れ方や素材の知識まで教えていました。その経験から「メーカーは物を売るだけでは弱い」と考えるようになります。

中屋も、パン粉の粒度を聞くだけの営業から、料理全体を一緒に考える営業へ変えました。油の種類、油温、肉の選定、筋切り、衣の付け方、テイクアウト後の時間まで聞き、完成した一皿から逆算してパン粉を選びます。

新規開業する店では、オープン前の商品開発から関わる例も増えました。パン粉工場が厨房の外にある「料理開発の相談相手」になり、約50種類という多品種生産が営業サービスと結び付きました。

2020年、飲食店が一斉に止まった

2019年度、売上は約3億3千万円まで伸びていました。翌2020年、コロナ禍で状況が一変します。取引先の約9割が飲食店だったため、大手チェーンから個人店まで休業し、毎日のように「パン粉を止めてほしい」という連絡が入りました。

飲食店へ集中したことが成長の理由だった一方、同じ集中が経営リスクになりました。正一さんは、この局面で自分が経営のかじを取ると決めます。会社沿革では2021年8月に三代目への事業承継が記録されています。

コロナ禍で伸びたのがテイクアウトです。中屋には、持ち歩く時間や湿度まで考えて作ったパン粉がありました。時間がたっても色がきれいに残り、衣自体に甘みがある商品を弁当・総菜向けに提案します。飲食店と一緒に積み重ねていた細かな商品設計が、非常時の販路を支えました。

工場が止まりかけた時、弟と「黒いパン粉」を作った

2020年、注文が減り、工場は週の半分を休む状態になりました。従業員にも雇用への不安が広がります。正一さんは空いた製造ラインを新商品開発へ使うことにしました。

中心になったのが弟で工場長の中林良太さんです。以前から「黒いパン粉」を求める声はありましたが、通常ラインで試作すると白い製品へ黒い粒が混ざり、クレームの原因になりました。

新たに黒いパン粉専用設備を導入し、竹炭で色を付け、揚げた後の食感や色を調整しました。2021年、「GOD SPEED YOU! BLACK PANKO」として発売します。新商品の試作を続けることで、仕事が減った工場にも目標が生まれたと良太さんは振り返っています。

黒いパン粉は、とんかつ店だけでなくアニメやゲームのコラボカフェにも使われました。料理の衣だったパン粉が、店の世界観を表現する素材にもなりました。

現在も武蔵小山で「パンからパン粉まで」を作る

2025年10月時点の品川区工場一覧にも、中屋パン粉工場は小山4丁目の食料品製造業として掲載されています。2026年も同じ場所で営業し、パン粉専用のパンから一貫製造を続けています。

品川区の中小企業支援情報では、取引先は全国約900軒。とんかつ、串カツ、洋食、和食、精肉店、総菜店などへ供給しています。創業時は近所の精肉店へリヤカーで届けたパン粉が、現在は全国の専門店へ出荷されています。

同社は子ども向け、料理人向けの工場見学も行っています。パン粉を完成品として見るだけでなく、小麦粉からパンを焼き、砕き、料理に合う形へ調整する工程を見せることで、普段は脇役として扱われる食材を一つの製造業として伝えています。

東京に最後のパン粉工場が残った理由

中屋パン粉工場の歴史は、同じ製品を75年以上作り続けた歴史ではありません。戦後のミルクホールは、パンの耳を欲しがる精肉店を見てパン粉へ進みました。二代目は専門店に通用しないパン粉を突き返され、料理人の注文を聞く製造へ変えました。三代目は価格競争から離れ、料理そのものを提案する仕事へ広げました。

他社が広い土地を求めて郊外へ移る中、武蔵小山に残ったことも、その経営と結び付いています。東京の料理人へ直接会い、食べ、配達し、修正する仕事は、大規模工場とは違う強みになりました。

コロッケの衣から高級とんかつ、冷凍食品、テイクアウト、黒いパン粉まで、パン粉が使われる料理は時代とともに変わっています。武蔵小山の一社が残った背景には、パン粉そのものを守るより、料理人が必要とするパン粉へ何度も作り替えてきた三代の判断があります。

参考資料