【3周年記念】大名気分で皇居を歩く!江戸城登城をしてみよう!

1871年に撮影された江戸城常盤橋門の古写真
【紫色:主な見附 白色:主なスポット 青色:現在の主要線路】見附とは見張り番所がある城門のことで、江戸城の見附は主に枡形門と堀に架けられた橋が一体となったものが多かった。実際は36以上あったが俗に江戸城三十六見附と呼ばれている。現在でも一部残っている。

江戸城三十六見附の全36か所、現存する門、石垣、効率的な巡り方は、江戸城三十六見附とは?全36か所の一覧・見どころ・巡り方で詳しく解説しています。

参勤交代

参勤交代は、1635年(寛永12年)の武家諸法度で制度化され、大名が原則として江戸と国元を交互に行き来し、一定期間江戸に居住した制度です。大名の妻子は江戸屋敷に住み、藩主が国元に戻っている間も江戸との結びつきが保たれました。

大名行列の移動や江戸屋敷の維持には多額の費用がかかりました。一方で、人や物資が各地を往来したため、街道や宿場の発達にもつながりました。

江戸時代の大名屋敷

大名の江戸屋敷には、藩主が登城や幕府との交渉に使う上屋敷、控えの屋敷となる中屋敷、郊外に置かれて庭園や避難先の役割も担った下屋敷がありました。江戸城に近い上屋敷には藩主の住居だけでなく、家臣の詰所や藩の事務を扱う施設も置かれ、江戸における藩政の拠点となりました。

大手町から丸の内一帯は、江戸城大手門に近いため有力大名の上屋敷が集まった地域です。現在の街区や道路を歩くと、屋敷跡を示す案内板や発掘された石垣から、城の正面に大名屋敷が並んでいた景観をたどれます。

江戸時代の大手町(画像)

今回行くところ

  1. 常盤橋公園
    • 常盤橋門は、1629年(寛永6年)に出羽・陸奥の大名によって築造されました。門は、江戸城諸門の中でも奥州道中につながる江戸五口(田安門、半蔵門、外桜田門、常盤橋門、神田橋門)の一つで、浅草口、追手(大手)口とも呼ばれました。江戸城内郭の正門である大手門に接続することから、軍事上重要な門に位置付けられました
    • 門の構造は、内桝形門形式の桝形門で、北側に渡櫓とそれを支える石垣があり、門をくぐった先には大番所が配置されました。
    1871年に撮影された江戸城常盤橋門の古写真
    常盤橋門、1871年。撮影:横山松三郎/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。
  2. 越前福井藩邸跡
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    • 江戸時代、この辺りには福井藩の常盤橋上屋敷(藩邸)がありました。福井藩・越前松平家の藩祖は、徳川家康の次男結城秀康で、二代目から松平の姓となり、親藩大名として幕末まで続きました。常磐橋上屋敷は、正徳三年(一七一三)に藩主松平吉邦が拝領し、七三〇〇坪余(二万四千平方メートル余)の広さで、江戸城に近く、江戸屋敷(上・中・下屋敷)の中でも最も重要であり、藩主とその家族の居宅として使われました。幕末に活躍した藩主松平春嶽(慶永)や家臣の橋本左内なども、ここを拠点に活動しました。この地に江戸時代から平成の世へと至る「時をつなぐ」象徴として、福井藩ゆかりのタカオモミジ(福井県福井市足羽神社)とウコンザクラ(福井県敦賀市西福寺)を植えるものです。
  3. 道三橋跡
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    • 1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入国し、江戸城建設の物資補給路のために竜の口(和田倉門のそば)から銭瓶橋(ぜにがめばし)まで掘割を開削させ、道三掘と呼びました。そのほぼ中間点、現在の丸の内一丁目と大手町一丁目の境に架けられていたのが道三橋です。慶長年間(1596年~1614年)には堀に沿って材木屋等の町屋が立ち並びましたが、その後武家地となり、大名家が屋敷を構えました。当初は大橋と呼ばれていましたが、南東の端に幕府典薬寮(てんやくりょう)の医官今大路(いまおおじ)道三(どうさん)の屋敷があったことから道三橋と呼ばれるようになりました。また、橋の西側に熊本藩(現在の熊本県)細川家の屋敷があり、当主の代々の幼名が彦次郎であったことから彦次郎橋とも呼ばれていました。1909年(明治42年)、道三堀が埋め立てられ橋も姿を消しました。
  4. 福井藩上屋敷(龍ノ口)跡
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    • 寛永十年(一六三三)に江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平忠昌(まつだいらただまさ)の上屋敷跡です。 広大な敷地に桃山風の豪壮な建物が建っていましたが、明暦の大火により焼失し、以後このような華麗な大名屋敷は姿を消しました。「伊予殿屋敷指図」や「江戸図屏風」などにより、当時の建物の様子がわかっており、江戸東京博物館に復元模型が展示されています
  5. 大手門
    • 江戸城本丸登城の正門で、城門警護は10万石以上の譜代大名が務めていました。門の建設は1606年(慶長11年)に藤堂高虎が行ったとされ、1657年(明暦3年)明暦の大火で焼失した後1659年(万治2年)に再建されました。
    • 現在の門は、手前の高麗門が1659年、渡櫓門は1966年(昭和41年)に再建された建築物です。門内には、「明暦三丁酉」の記銘がある旧大手門渡櫓の鯱が置かれています。 
    皇居東御苑の入口にある江戸城大手門渡櫓門
    江戸城大手門渡櫓門、2004年。撮影:Fg2/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。
  6. 同心番所
    大手門から本丸へ向かう登城路の最初にある番所です。登城する大名の供を監視し、通行者の検問を行った同心が詰めました。現存する番所の中では最も大手門に近く、大名が城内へ進むにつれて警備が段階的に厳しくなったことが分かります。建物の正面にある格子窓や、門を見張りやすい位置にも注目です。
  7. 大手三之門跡
    大手門を抜けた先で、三の丸から二の丸へ入る登城路を守った門です。門前では大名の供の人数がさらに制限され、城の中心へ近づく者を絞り込みました。建物は失われましたが、道を狭めるように残る石垣から、通行者を曲折させて監視した枡形の構造を読み取れます。
  8. 百人番所
    大手三之門と中之門の間にある、江戸城最大の番所。伊賀組・甲賀組など鉄砲百人組が昼夜警備に当たったため、この名がついた。
    皇居東御苑に現存する江戸城百人番所
    江戸城百人番所、2005年。撮影:Fg2/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。
  9. 中之門跡
    二の丸から本丸へ上がる大手道に設けられた門です。門を支えた石垣には大きな石が使われ、江戸城の中心部にふさわしい威厳を示しています。坂道を上りながら石垣を見上げると、門が登城者を圧倒するように造られていたことが分かります。門の内側には、次の検問を担う大番所が置かれました。
  10. 大番所
    中之門を通過した先に置かれた番所で、本丸へ向かう大名を確認する重要な警備地点でした。同心番所や百人番所より格の高い与力・同心が詰めたとされます。登城路の坂を上り切る直前に建つため、城の中心へ近づくほど警備の格式が上がる配置を現地で確かめられます。
  11. 中雀門跡
    本丸御殿の玄関前にあった門で、大手門から続く登城路の最後の関門です。御三家を含む大名も門前で乗物を降り、ここから先は徒歩で進みました。1863年(文久3年)の火災で焼失し、現在は石垣だけが残ります。石垣表面の焼けた跡や変色は、火災の激しさを伝える見どころです。
  12. 富士見櫓
    本丸の南端に位置する唯一現存する三重櫓。明暦の大火で天守が焼失した後、代用の天守としても利用され、将軍が遠方を望む場所でもあった
    江戸城本丸跡に現存する三重櫓の富士見櫓
    江戸城富士見櫓、2009年8月18日。撮影:nattou/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。
  13. 江戸城天守復元模型
    江戸城に三度築かれた天守のうち、徳川家光の時代に完成した寛永期天守を30分の1で復元した模型です。寛永期天守は五重の外観を持ち、石垣を含めた高さは約60メートルに達しました。屋根や破風の重なりだけでなく、現在の本丸跡と比べながら天守の規模を想像するのが見どころです。
  14. 江戸城天守台
    現在の天守台は、1657年(明暦3年)の大火後に加賀藩前田家が築き直したものです。天守再建は計画されましたが、城下の復興が優先され、天守台の上に建物が建つことはありませんでした。上からは本丸跡を広く見渡せます。上る途中にある、本丸御殿の建物が密集していた様子を示す図も見どころです。当時の再現模型(画像)

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この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 運営者
なかまつ

北海道大学工学部卒。現在はIT系会社員の傍ら、年間400回以上の街歩きイベントを企画し、これまで延べ25,000名以上の方にご参加いただいている、ゆる歴史散歩サークルを運営しています。東京の歴史・文化・建築・地形などを、初心者でも気軽に楽しめるイベントとして企画しています。

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