月島駅から佃・石川島へ入り、隅田川沿いに新川・日本橋箱崎町・日本橋蛎殻町を抜けて人形町へ向かう歴史散歩コースです。高層住宅の足元に残る旧佃島の路地、江戸の社会政策を伝える人足寄場、近代造船、日本の標高を支えた測量点、震災復興橋梁、消えた運河の河岸まで、東京の水辺が江戸から近代へ変わる過程を一続きにたどれます。
月島から人形町までの散歩コース概要
- 出発地:月島駅
- 到着エリア:人形町・水天宮前
- 主な地域:佃、石川島、新川、日本橋箱崎町、日本橋小網町、日本橋蛎殻町
- 主なテーマ:漁業と信仰、人足寄場、造船、近代測量、隅田川の橋、舟運、大名・旗本屋敷
コースの順番は、佃天台地蔵尊、佃住吉講、石川島人足寄場、石川島公園、一等水準点「交無号」、中央商業学校発祥の地、隅田川テラス・永代橋、行徳河岸、矢田堀景蔵屋敷跡、越後椎谷藩上屋敷跡です。各地点名からGoogleマップを開けます。
佃・石川島・新川・箱崎をつなぐ水辺の歴史
現在の月島は明治以降の埋立地ですが、その北側の佃島は江戸時代から続く土地です。佃の漁業と住吉信仰、石川島の人足寄場と造船所、霊岸島の潮位観測、新川と箱崎の舟運、永代橋は、いずれも水辺の立地と深く結びついています。

葛飾北斎の『富嶽三十六景 武陽佃島』には、舟が行き交う水面と佃島の暮らしが描かれました。現在は高層住宅が並ぶ一帯ですが、川沿いと路地を歩くと、江戸の島、近代工業地、現代の住宅地が同じ範囲に重なっています。月島そのものの造成と発展は、銀座から築地・月島へ歩く歴史散歩で詳しく紹介しています。
1. 佃天台地蔵尊|路地に残る地域信仰
佃天台地蔵尊は、佃一丁目の細い路地の奥に祀られています。大通りから数十メートル入るだけで街の尺度が変わり、旧佃島の密度の高い町並みを感じられる場所です。地蔵尊と大きなイチョウが住宅の間に納まり、生活空間の中で信仰が守られてきた佃の姿を伝えています。

佃島では漁業や舟運に携わる人びとの暮らしと信仰が近接していました。地蔵尊から住吉神社周辺へ進む短い区間には、路地、堀、社寺、祭礼文化が集まり、近代の埋立地として生まれた月島とは異なる町の成り立ちが残っています。
2. 佃住吉講|江戸から続く祭礼文化
佃の氏神である住吉神社と祭礼を支える佃住吉講は、島の歴史を知る核になる存在です。現在の住吉講は1948年に結成されましたが、それ以前も町組や年齢組が祭礼を担っていました。佃まちかど展示館に保存される「龍虎」と「黒駒」の獅子頭は中央区指定有形民俗文化財で、祭礼と地域の信仰を伝える資料です。

「龍虎」の獅子頭は1838年刊行の『東都歳時記』にも佃島の祭礼とともに登場します。「黒駒」の収納箱には文政2年(1819)の墨書が残ります。江戸の漁村に生まれた祭礼文化が、町の組織と道具を通じて現在まで続いていることが分かります。
3. 石川島人足寄場|長谷川平蔵と寛政の改革
石川島には1790年、長谷川平蔵の構想をもとに人足寄場が開設されました。天明の飢饉後に江戸で増えた無宿者などを収容し、犯罪の抑止と職業教育による更生を図る施設でした。老中松平定信が進めた寛政期の社会政策の一つです。
長谷川平蔵は火付盗賊改として知られますが、国立公文書館に残る幕府文書では、人足寄場の設立と運営に尽力した人物としても紹介されています。人足寄場を「刑務所」の一語で捉えるより、都市へ流入した困窮者に仕事を教え、再び生活基盤をつくる政策として見ると、寛政の改革が財政だけでなく都市社会の問題にも向き合っていたことが分かります。享保・寛政・天保の改革の違いでは、人足寄場を改革全体の中で解説しています。
4. 石川島公園|人足寄場から造船所、ウォーターフロントへ
人足寄場が置かれた石川島は、幕末になると近代造船の拠点へ姿を変えます。1853年、幕府の命を受けた水戸藩によって石川島造船所が創設されました。1876年には平野富二が石川島修船場跡を借り受け、石川島平野造船所を設立します。後のIHIへつながる事業の出発点です。
IHIの佃工場は1979年に役割を終え、跡地ではリバーシティ21を中心とする再開発が進みました。江戸の人足寄場、幕末・近代の造船所、現在の高層住宅と水辺公園がほぼ同じ一帯に重なります。

佃公園には石川島灯台をかたどったモニュメントがあり、川辺の景観に往時の水上交通の記憶を残しています。石川島公園から隅田川沿いへ出ると、対岸の新川と都心の高層建築が広がり、この土地の用途が大きく変化したことを視覚的にも感じられます。
5. 一等水準点「交無号」|日本の高さの基準につながった場所
新川二丁目の花壇にある一等水準点「交無号」は、日本の近代測量史を伝える小さな石標です。1873年から1879年に霊岸島で行われた潮位観測から東京湾平均海面が求められ、1891年3月に従来の水準点に代わる「霊岸島新点・交無号」が設置されました。
同年5月に日本水準原点が設置されると、その標高は交無号から水準測量を行って定められました。「交」は水準路線の交差、「無号」は0を表します。現在の標石は移設を経ていますが、一等水準点として使用され、2022年には中央区民有形文化財に登録されました。新川・霊岸島の成り立ちや測量史をさらにたどるなら、中央区新川・霊岸島の歴史巡りへつながります。
6. 中央商業学校発祥の地|蛎殻町から新川へ
中央学院の前身は、1900年に日本橋蛎殻町で開校した日本橋簡易商業夜学校です。1902年、甲種実業学校の中央商業学校として京橋区霊岸島、現在の新川へ移りました。学校名の「中央」は、創立に関わった高楠順次郎の提案で決まりました。
今回の散歩は新川の発祥地を通った後、学校が最初に生まれた蛎殻町方面へ向かいます。学校史の二つの地点を同じ徒歩ルートで結べるため、明治の日本橋で商業教育が広がっていく地理も理解しやすくなります。
7. 永代橋|江戸の木橋から震災復興橋梁へ
永代橋は江戸時代に創架され、架け替えを重ねながら隅田川下流の交通を支えてきました。現在の橋は関東大震災後の復興事業で1926年に完成した鋼製橋梁です。清洲橋、勝鬨橋とともに橋梁技術史上の価値が認められ、2007年に国の重要文化財に指定されました。

歌川広重の『名所江戸百景 永代橋佃しま』では、橋の向こうに佃島と隅田川の舟が描かれています。江戸の水運を眺めた位置に、現在は震災復興の巨大な鋼橋が立っています。

夜は青く照らされた橋と川面、高層住宅の明かりが重なります。史跡と夜景を同時に楽しめるこのコースの中でも、江戸と近代と現在を一枚の景観で見比べやすい地点です。永代橋から箱崎・水天宮を中心に歩く別ルートは、水天宮・日本橋箱崎・永代橋のナイトウォークで紹介しています。
8. 行徳河岸|江戸と行徳・成田を結んだ舟運
日本橋小網町と蛎殻町の間には、かつて箱崎川が流れていました。1632年、南葛西郡本行徳村の村民が小網町三丁目先の河岸地を幕府から借り、江戸と行徳の間で小荷物や旅客を運び始めたことから行徳河岸と呼ばれました。
行徳船は生活物資を運ぶだけでなく、房総方面へ向かう旅客にも使われ、成田山新勝寺への参詣にも利用されました。現在は箱崎川が埋め立てられ、首都高速道路や街路に姿を変えています。河岸跡の説明板は、目の前に水面がない場所で江戸の交通網を想像できる手掛かりです。人形町・水天宮側から隅田川へ向かう散歩は、清澄白河から人形町へ歩く歴史散歩ともつながります。
9. 矢田堀景蔵屋敷跡|幕府海軍を支えた旗本
日本橋の武家地を歩くと、幕末の海軍官僚矢田堀景蔵に関わる屋敷跡へ行き着きます。矢田堀景蔵は後に矢田堀鴻と名乗った旗本で、1855年に長崎海軍伝習生となり、勝麟太郎らとオランダ人から航海・海軍技術を学びました。軍艦頭取、軍艦奉行並などを経て、1868年には幕府の海軍総裁を務めました。
軍艦操練所では教授方頭取として海軍人材の育成にも携わりました。佃・石川島で幕府の造船拠点を見た後にこの屋敷跡へ進むと、幕末の東京湾防備と海軍建設が、造船所だけでなく技術者・幕臣のネットワークによって支えられていたことがつながります。
10. 越後椎谷藩上屋敷跡|人形町に重なる大名屋敷の記憶
人形町に近づくと、越後椎谷藩堀家の上屋敷が置かれた一帯に入ります。椎谷藩は現在の新潟県柏崎市椎谷に陣屋を置いた堀氏一万石の藩で、藩主は江戸定府でした。幕末期の江戸絵図では、現在の日本橋人形町・蛎殻町周辺に堀家の屋敷地を確認できます。
現在の人形町は商店街や飲食店の印象が強い一方、江戸時代には町人地の近くに大名・旗本の屋敷が密集していました。行徳河岸の舟運、水天宮につながる大名屋敷、幕臣の屋敷跡を続けて歩くと、日本橋が商業だけでなく武家の生活と行政にも支えられた地域だったことが分かります。
東京湾やレインボーブリッジ方面の夜景散歩は、豊海ふ頭を歩くコースでも紹介しています。
人形町まで歩くと見える、このコースの歴史
月島駅から人形町までの道は、東京の水辺が担った役割の変化を短い距離に凝縮しています。佃では漁業と信仰、石川島では社会政策と造船、新川では測量と商業教育、永代橋では震災復興、箱崎・蛎殻町では舟運と武家地が現れます。川や堀を使う江戸の都市から、橋・工場・測量網を備えた近代都市へ移る過程を、現在の街路の中でたどれるコースです。

