重慶爆撃は、日中戦争中に日本陸海軍が中国内陸部の重慶へ行った航空爆撃です。広い意味では1938年から1943年ごろまでの空襲を含み、特に1939年から1941年に大規模な攻撃が集中しました。
重慶には国民政府の政治・軍事中枢が置かれていました。日本軍は政府・軍事施設の破壊とともに、航空攻撃で中国側の継戦意思を弱めようとしました。市街地にも爆弾・焼夷弾が投下され、民間人に大きな被害が出ました。
重慶爆撃とは
1937年に日中戦争が全面化し、日本軍は南京、武漢など中国の主要都市を攻略しました。国民政府は内陸へ拠点を移し、重慶を戦時下の政治・軍事拠点としました。
日本軍の地上部隊が容易に到達できない重慶に対し、陸海軍の航空部隊は長距離爆撃を実施しました。重慶市档案館が保存する1938~1943年の原史料には、空襲の日時、出撃機数、投弾、死傷者、建物被害などが記録されています。
| 時期 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1938年 | 重慶への空襲が始まる。12月には陸海軍中央協定で戦略的な航空作戦の方針が示される |
| 1939年5月3・4日 | 市街地を大規模に爆撃。焼夷弾も使用され、大火災と多数の死傷者が発生 |
| 1940年5~9月 | 百一号作戦。陸海軍が協同して重慶など中国奥地への大規模航空攻撃を実施 |
| 1941年6月5日 | 長時間の空襲下で大隧道惨案が発生 |
| 1941年7~8月 | 百二号作戦。重慶への攻撃を含む奥地航空作戦が続く |
| 1942~43年 | 大規模攻撃は減少するが、重慶方面への空襲は続く |
なぜ重慶が狙われたのか
国民政府の政治・軍事中枢が移っていた
1937年12月に南京が陥落し、1938年秋には武漢も日本軍に占領されました。国民政府は中国内陸部へ拠点を移し、重慶は戦時首都として機能しました。政府機関、軍事指揮、軍需生産、交通・通信が集まり、日本側の重要な攻撃対象となりました。
日本軍が主要都市を占領しても、中国側は内陸部から抗戦を続けました。地上軍による占領だけでは国民政府を屈服させられず、日本側は航空戦で奥地の中枢を攻撃しました。
狙いは施設の破壊だけではなかった
1938年12月の「航空ニ関スル陸海軍中央協定」は、陸海軍航空部隊が中国各地で戦略・政略的な航空戦を行い、敵の継戦意思を挫く方針を示しています。12月25日の陸軍飛行団命令にも、主力で重慶市街を攻撃し、国民政府を震撼させる趣旨が記されました。
1940年の百一号作戦に関する陸海軍協定も、奥地へ侵攻して中国側の継戦意思を挫くことを作戦方針に置き、政治・軍事機関などの破壊を掲げています。重慶爆撃は、軍事施設への攻撃と政治・社会への圧力を重ねた戦略爆撃でした。
1939年5月3・4日の重慶爆撃
1939年5月3日と4日、重慶市街に大規模な爆撃が行われました。日本海軍航空隊の戦闘詳報には、市街中枢部への命中と各所の大火災が記録されています。
5月3日の戦闘詳報は、焼夷弾を混用し、木造建築が多かったため火災の効果が大きくなったとの所見を残しています。翌4日の記録でも、市街中枢部などで大火災が発生したとされています。
重慶市档案館には当時の防空司令部や行政機関が作成した被害資料が残っています。死傷者数は速報、後日の集計、対象地域によって異なります。
百一号作戦とは
百一号作戦は、1940年5月17日から9月5日まで行われた大規模な奥地航空作戦です。陸海軍航空部隊が協同し、重慶をはじめ中国内陸部の政治・軍事拠点を攻撃しました。
日本側の「百一号作戦ノ概要」には、政治・軍事機関や軍事施設を攻撃する方針が記されています。重慶市内外の重要施設への攻撃日数は32日とされ、飛行場を除く軍事施設・政治機関などに大量の爆弾が投下されました。
攻撃目標の選定では第三国の外交機関などへの被害を避ける指示も出されました。一方、市街地には政府・軍事施設と住宅が混在し、連続爆撃によって民間地区にも大きな被害が広がりました。
1941年6月5日の大隧道惨案
1941年6月5日、長時間にわたる空襲警報の下で、多数の住民が重慶市内の大規模防空壕「大隧道」に避難しました。収容能力を大きく超える人々が集中し、換気不足や出入口の混乱によって窒息・圧死する人が続出しました。
後の調査報告は死者992人、負傷者115人としましたが、死者数には別の推計もあります。近年の研究は、防空壕の設計、換気設備の未整備、定員超過、管理上の問題を主要因として挙げています。
死者の多くは爆弾の直撃ではなく、空襲下で住民が防空壕に集中し、防空体制の欠陥が重なって生じた窒息・圧死でした。
被害者は何人だったのか
重慶爆撃の被害数には複数の集計があります。重慶市档案館は1938年2月から1943年8月までについて、少なくとも131回の大規模爆撃、5,746機の出撃、2万3千人余りの死傷者という档案上の集計を紹介しています。
一方、国際的な研究では同じ時期を約9,500機以上、約2万1,600発の爆弾、死者約1万5千人、負傷者2万人以上と整理する例があります。対象地域、爆撃の定義、集計期間、直接死と間接死の扱いが異なるため、数字は一致しません。
重慶爆撃は無差別爆撃だったのか
日本側の命令や戦闘記録には、政府機関、軍事施設、飛行場などの目標が明記されています。同時に、1938年12月の命令には「重慶市街」を攻撃して国民政府を震撼させる方針があり、1941年の戦闘詳報には市街地や住宅地への命中を成果として記した例も残っています。
米国政府は当時、重慶への爆撃を「indiscriminate bombing」として日本政府に抗議しました。1939年7月には米国務省が重慶への無差別爆撃に抗議したことを公表し、1940年6月には重慶市全体を正当な航空攻撃目標とみなす考えを受け入れられないと日本側に伝えています。
これに対し日本政府は、攻撃対象は国民政府の軍事機関・施設であり、民間人や第三国施設の被害は軍事行動に伴う不可避の損害だと反論しました。
当時の国際法ではどう扱われたのか
1923年のハーグ空戦規則案は、民間人を恐怖に陥れる目的の爆撃や、軍事目標と無関係な民間地域への爆撃を禁じる内容を含んでいました。ただし、この規則案は法的拘束力のある形では採択されていません。
重慶爆撃の法的評価には、当時の条約、慣習国際法、個々の攻撃目標や方法の検討が必要です。同時代の国際的批判と個々の攻撃の法的評価は別の論点です。
なぜ重慶爆撃で中国は降伏しなかったのか
日本軍は都市・政府中枢を空から攻撃して国民政府の抗戦能力と継戦意思を弱めようとしました。しかし、重慶への激しい爆撃後も国民政府は降伏せず、中国側の抗戦は続きました。
中国は広大な内陸部を持ち、政府・軍・生産施設を分散させながら戦争を継続しました。外国からの支援も続き、航空爆撃だけで政治的屈服を実現することはできませんでした。
重慶爆撃の期間が資料によって違う理由
重慶市档案館が選定した「重慶大爆撃」档案は、1938~1943年に現地の行政・軍事機関などが作成した記録です。この整理では1938年2月から1943年8月までの空襲が扱われています。
一方、日本側の作戦史では、1938年末から1941年までの本格的な奥地航空攻撃が中心になります。特に1939年の市街地爆撃、1940年の百一号作戦、1941年の百二号作戦が大きな区切りです。
期間の違いは、「重慶爆撃」を個々の大規模作戦として見るか、重慶と周辺地域に対する一連の空襲全体として見るかで生じます。広い意味では1938~43年、作戦史の中心は1939~41年です。
日中戦争の中で重慶爆撃をどう位置づけるか
重慶爆撃は、日本軍が沿岸部や主要都市を占領した後も、国民政府が内陸部で抗戦を続けた段階の作戦です。地上戦で到達しにくい政治・軍事中枢に航空戦力を向けました。
中国における抗日戦争の位置づけや、東アジアの歴史教科書で日本がどう描かれているかは、「中国・韓国・台湾の歴史教科書では日本はどう描かれているのか」でも比較しています。
FAQ
重慶爆撃はいつ行われましたか?
広い意味では1938年から1943年ごろまでの一連の空襲を指します。大規模な戦略爆撃は1939~1941年に集中しました。
日本軍はなぜ重慶を爆撃したのですか?
重慶に国民政府の政治・軍事中枢が置かれていたためです。日本軍は政府・軍事施設を破壊するとともに、航空攻撃によって中国側の継戦意思を弱めようとしました。
百一号作戦とは何ですか?
1940年5月17日から9月5日に行われた陸海軍共同の奥地航空作戦です。重慶などの政治・軍事中枢を継続的に攻撃しました。
大隧道惨案では何が起きましたか?
1941年6月5日の長時間の空襲下で住民が防空壕に集中し、定員超過、換気不足、管理上の問題などから多数が窒息・圧死しました。後の調査報告は死者992人としています。
重慶爆撃の死者数は何人ですか?
集計範囲によって異なります。研究では約1万5千人の死亡とする推計がありますが、重慶市档案館などの統計は別の範囲・方法で集計しています。数字を見る際は期間と対象地域を確認する必要があります。
参考文献・資料
- 京都大学公共政策大学院「国際安全保障法 第8回 Jus in bello(1)―総力戦と戦略爆撃 重慶・広島」(『戦史叢書』、当時の戦闘詳報、外交文書等を収録・整理)
- 重慶市档案館「『重慶大轟炸』档案」
- 重慶市档案館「『重慶大轟炸』档案入選第六批《中国档案文献遺産名録》」
- Ying-kit Chan, “A Wartime Stampede: Renewing a Social Contract after the Great Tunnel Disaster of Chongqing,” International Journal of Asian Studies
- U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, July 10, 1939
- U.S. Department of State, Japanese Government response concerning the Chungking bombings, June 18, 1940
- International Committee of the Red Cross, Rules of International Humanitarian Law and Other Rules Relating to the Conduct of Hostilities
- 潘洵『重慶大爆撃の研究』岩波書店、2016年。
- 荒井信一ほか『重慶爆撃とは何だったのか』高文研、2009年。
- 前田哲男『戦略爆撃の思想』凱風社、2006年。
