東洋興業と松倉一族からたどる浅草六区の歴史|フランス座・浅草演芸ホール・東洋館

浅草六区の五差路に立つ浅草演芸ホール。その上階には、正式名称を「浅草フランス座演芸場東洋館」という東洋館があります。落語を中心とする寄席と、漫才・漫談・コントなどを中心とする演芸場が、同じ建物で毎日興行を続けています。

2館を運営するのが東洋興業株式会社です。1951年の設立以来、創業者・松倉宇七、その子・松倉久幸ら松倉家の経営のもとで、フランス座、東洋劇場、浅草演芸ホール、東洋館へと興行の形を変えてきました。現在の代表取締役は松倉由幸です。

松倉一族の歩みは、戦前の映画館から戦後のストリップと軽演劇、落語定席、漫才や色物の寄席まで、浅草六区で続いた興行の変化と重なります。

年代東洋興業・松倉家を軸に見た主な出来事
戦前松倉宇七が、現在の浅草演芸ホールの前身にあたる映画館・三友館の支配人を務める
1947年浅草ロック座開場。松倉宇七が国華興業の経営陣として参加
1951年東洋興業設立、浅草フランス座開業
1952年新宿フランス座開業
1956年池袋フランス座開業
1959年4・5階を増築。1階に東洋劇場を開き、フランス座を4階へ移設
1964年4・5階に浅草演芸ホール開業
1966年池袋フランス座閉館。跡地でキャバレー池袋フランス座を営業
1968年松倉久幸が東洋興業社長に就任。公式沿革では東洋劇場閉館、演芸ホールを1階へ移設
1971年4・5階で浅草フランス座を再開
1982年浅草フランス座が再び閉館
1987年浅草フランス座を再開
1999年浅草フランス座閉館
2000年浅草フランス座演芸場東洋館開業
現在浅草演芸ホールと東洋館を運営。不動産賃貸業も展開

現在の浅草演芸ホールと東洋館は、同じ建物にある二つの演芸場

現在の所在地は東京都台東区浅草1丁目43番12号です。建物は5階建てで、浅草演芸ホールが1・2階、東洋館が4階を主な客席として使っています。浅草演芸ホールは1階239席、2階101席の計340席、東洋館は202席です。

東洋館の客席上部には、1964年から浅草演芸ホールとして使われていた時代の2階席の赤い欄干が残っています。旧2階席の一角は映写・調光の設備として使われ、舞台袖の階段は下階へ続きます。舞台の上下階には楽屋があり、かつて若い芸人が寝泊まりした楽屋も保存されています。

浅草演芸ホールは落語定席、東洋館は「いろもの寄席」

浅草演芸ホールは、鈴本演芸場、新宿末廣亭、池袋演芸場と並ぶ東京の落語定席です。1~10日を上席、11~20日を中席、21~30日を下席として番組を替え、落語協会と落語芸術協会が交互に通常興行を担います。番組には落語のほか、講談、漫才、漫談、奇術、曲芸、紙切りなどの色物も入ります。

東洋館は漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなどを中心とする「いろもの寄席」です。毎月1~19日は漫才協会、20日と偶数月21~29日は東京演芸協会、30日と奇数月21~29日はボーイズ・バラエティー協会、31日は東洋館主催の特別公演を行っています。

現在の浅草演芸ホールの場所には映画館「三友館」があった

財務省広報誌『ファイナンス』の都市史記事によると、現在の浅草演芸ホールの場所には、明治期に勧工場「開進館」があり、その後に映画館「三友館」、戦後にフランス座・東洋劇場、1964年から浅草演芸ホールが置かれました。

三友館は1907年に開業した活動写真館です。東京都公文書館には1909年の改築平面図と東京市への申請記録が残っています。所在地は「浅草公園第六区第四号」で、建坪は149坪余、約490平方メートルでした。すでに活動写真館として営業していた三友館が、「常設観物活動写真興行」のため建物を改築した記録です。当時の六区には電気館、富士館、大勝館などの活動写真館が集まっていました。

大正期の三友館は映画だけでなく、浅草オペラの舞台にもなりました。歌、芝居、踊りを組み合わせた浅草オペラは六区の大衆娯楽として人気を集め、三友館、日本館、観音劇場、金龍館などで興行されました。後に三友館支配人となる松倉宇七は、映画と実演が交差する六区の劇場で興行の仕事を経験しました。

「六区」は、1880年代の浅草公園整備で付けられた区画番号です。浅草寺裏手の奥山にあった見世物小屋などが第六区へ移り、演劇場や活動写真館が集積しました。大正期の劇場街の位置関係は、当サイトの大正東京・浅草区を古地図で読む記事でも確認できます。

松倉宇七は三友館支配人から戦後のロック座・フランス座へ

松倉宇七は1905年、長野県上田に生まれました。生家は代々続くランプ店でしたが、電灯の普及で商売が衰え、廃業します。芝居好きだった宇七は関東大震災の少し前に上京し、浅草六区の映画館運営会社に事務員として入りました。

宇七はその後、現在の浅草演芸ホールの場所にあった三友館の支配人になりました。三友館は活動写真から映画、浅草オペラまでを扱った六区の主要劇場の一つです。宇七は東洋興業を創業する以前から、戦前の映画興行の現場で劇場経営に携わっていました。

1945年の東京大空襲で浅草六区は大きな被害を受けました。戦後、宇七は国華興業の経営陣として1947年開場の浅草ロック座に関わります。大衆芸能研究者・西条昇が紹介する当時の資料では宇七は国華興業の常務取締役で、松倉久幸の回想では開場約1年後にロック座の2代目社長へ就任しました。

ロック座ではストリップだけだった番組を、ストリップ約1時間半と芝居約1時間の二本立てに変更しました。伴淳三郎を初代座長とする専属劇団も置かれ、この軽演劇を組み込む方式が1951年開業の浅草フランス座へ引き継がれます。

戦後のロック座から1951年の浅草フランス座へ

ロック座の成功を受け、1951年に浅草フランス座が開業し、同年8月に東洋興業株式会社が設立されました。フランス座はストリップと軽演劇を組み合わせた興行を行い、コメディアンは踊りの合間にコントや芝居を演じました。

開業から数年でフランス座には渥美清、長門勇、由利徹らが出演し、文芸部では台本が作られました。1956年に東洋興業へ入った井上ひさしも、のちに浅草フランス座の文芸部で台本を書いています。舞台に立つ芸人と台本を書く文芸部を抱え、連日の興行を組む体制が整えられていました。

1951年開業時の建物は3階建てでした。客席と舞台のほか、踊り子や芸人の楽屋、共同浴場などを備え、出演者が長時間を過ごす仕事場でもありました。1959年の増築後、フランス座は4・5階へ移り、1階には軽演劇専門の東洋劇場が開きます。

松倉家に伝わる永井荷風の「フランス座」命名

松倉家には、文豪・永井荷風が「フランス座」と命名したという話が伝わっています。松倉久幸の口述では、ロック座に通っていた荷風と宇七が親しくなり、二軒目の劇場の名称を相談したところ「フランス座」という名が付けられたとされています。現在の正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」です。

東洋興業は新宿・池袋にもフランス座を展開した

東洋興業は浅草の外にも実演劇場を展開しました。新宿フランス座は1952年、現在の伊勢丹新宿店本館に近い新宿サービスセンターの2階に開場しました。戦後の露店整理で建てられた建物の2階が空いていたため、東洋興業が劇場として借りたものです。1957年には「新宿ミュージックホール」と改称しました。

新宿フランス座の初代座長は阿部昇二で、石井均、石田英二らが在籍しました。三波伸介は1957年に東洋興業へ入り、希望していた浅草ではなく新宿へ配属されます。新宿で戸塚睦夫と再会し、伊東四朗を加えたてんぷくトリオへつながりました。松倉久幸は、新宿フランス座について演者も客層も若く、浅草とは異なる活気があったと回想しています。

池袋フランス座は1956年10月、池袋駅東口の協和銀行裏手に開場しました。東洋興業にとって4館目の劇場で、開場当初の筆頭コメディアンには池信一が名を連ねています。池信一は1959年に新設された浅草東洋劇場へ移り、東八郎らと舞台に立ちました。池袋フランス座には、その後も前田隣や橋達也らが出演しました。

池袋フランス座は1966年6月に閉館し、跡地には松倉宇七が「キャバレー池袋フランス座」を開きました。フロアショーには東洋興業所属の踊り子やコメディアンが出演し、キャバレーは約3年後に営業を終えています。

1950年代後半の東洋興業は、浅草ロック座、浅草フランス座、新宿フランス座、池袋フランス座を運営し、1959年には浅草東洋劇場も加わりました。井上ひさしは1956年、東洋興業が募集した「フランス座野球部」に入り、のちに浅草フランス座の文芸部で台本を書くようになります。劇場だけでなく、専属芸人、踊り子、文芸部、宣伝部まで抱える興行会社でした。

現在の東洋興業の事業は「演劇興行」と「不動産賃貸業」です。演劇興行では浅草演芸ホールと東洋館を運営し、不動産事業では浅草と池袋の複数物件を活用しています。

1950年代の浅草六区には、松竹・吉本・楽天地も集まっていた

東洋興業がフランス座を開いた1950年代の浅草六区には、映画会社、レビュー劇場、演芸場、ストリップ劇場が集中していました。1955年に浅草商店連合会青年部が作成した「浅草盛場案内図」には、フランス座とロック座のほか、浅草花月劇場、松竹演芸場、浅草松竹座、松竹映画劇場、浅草日活館、浅草宝塚劇場、浅草宝塚地下劇場、電気館、大勝館、千代田館などが一つの街区に記されています。

松竹は1928年に浅草松竹座を洋画封切館として再発足させ、同年に東京松竹楽劇部を発足しました。東京松竹楽劇部は後の松竹少女歌劇団へつながります。1937年には浅草国際劇場を開場し、松竹少女歌劇団のレビューをはじめ、演劇や映画を組み合わせた大規模興行を行いました。

吉本興業の浅草進出はさらに早く、1921年に六区の御国座を借りて安来節を興行し、1930年には万成座の経営権を取得しました。1935年には東京支社の本拠地となる東京花月劇場、後の浅草花月劇場を開場します。ここでは漫才に歌、踊り、軽演劇を組み合わせた「吉本ショウ」が上演されました。

江東楽天地、現在の東京楽天地は1952年に浅草へ進出し、劇場2館を開きました。フランス座の開業はその前年です。1950年代の六区では、東洋興業、松竹、吉本、楽天地、日活系の映画館などが近接して営業し、それぞれが映画、レビュー、漫才、軽演劇、ストリップなどの興行を行っていました。

吉本興業を含む近代の劇場経営と芸人の変化は、笑いと芸能の近代史で詳しく解説しています。

1959年、東洋劇場が開き、現在の5階建て劇場の形ができた

1951年開業時のフランス座は3階建てでした。1959年に4・5階を増築し、1階に東洋劇場を開き、フランス座を4階へ移しました。

東洋劇場の開場には、戦後浅草の環境変化が重なっていました。1958年の売春防止法施行で吉原の遊廓がなくなり、六区と吉原を行き来していた客が減りました。テレビの普及も進み、映画や軽演劇を取り巻く状況が変わり始めます。松倉久幸の回想では、宇七はストリップに依存せず、軽演劇だけでも客を集める劇団を作るために専用劇場を設けました。

東洋劇場には、ロック座、新宿フランス座、池袋フランス座から主力のコメディアンが集められました。初代座長は池信一、二代目は石田英二、三代目は東八郎です。東八郎は1955年に東洋興業へ入り、松倉宇七が東洋興業の「東」と、自身の筆名「柳田七郎」に一を足した「八郎」を組み合わせて芸名を付けたと松倉家に伝わっています。

東洋劇場の開場と同じ1959年、萩本欽一が研究生として入りました。池信一、石田英二、東八郎らのもとで舞台を経験し、その後フランス座へ移ります。フランス座で安藤ロールの芸名を使っていた坂上二郎と出会い、後のコント55号につながりました。

現在も建物内部には旧フランス座・東洋劇場時代の設備が残っています。地下には手動式の回り舞台を動かした機構や出演者用の共同浴場跡があり、東洋館の客席上部には旧浅草演芸ホールの2階席の欄干が残ります。

1964年、浅草に落語定席「浅草演芸ホール」が生まれた

1964年8月、東洋興業は4・5階のフランス座を閉じ、浅草演芸ホールを開業しました。浅草には戦後まもなく浅草末廣亭という寄席がありましたが、松倉久幸の回想では一年あまりで閉場しており、演芸ホール開業時の浅草には落語の定席がありませんでした。

開業のきっかけは、東洋興業の文芸部員・高崎三郎と落語家・二代目桂枝太郎の会話でした。松倉久幸の回想によれば、桂枝太郎がフランス座か東洋劇場の一方を寄席にする案を持ちかけ、高崎が会社へ提案しました。東洋興業は上階のフランス座を落語定席へ転換します。

開業当時は桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生らが現役で、古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭圓楽らも浅草演芸ホールの高座に上がりました。1964年の開業以来、10日替わりで落語協会と落語芸術協会が交互に通常興行を組む体制が続いています。

寄席の番組には、落語の合間に講談、漫才、漫談、奇術、曲芸、紙切りなどの色物が入ります。昼の部と夜の部を通して一日興行を行い、現在も年中無休で公演が続いています。

その後、浅草演芸ホールは上階から1階へ移りました。東洋興業の公式沿革は東洋劇場の閉館と演芸ホールの1階移転を1968年とし、1971年に4・5階でフランス座を再開したと記しています。台東区や東京都の資料では、東洋劇場閉館と演芸ホール移転を1971年としています。

松倉久幸の時代、北野武はフランス座で修業した

松倉宇七の子・松倉久幸は1935年に長野県で生まれ、少年時代からロック座やフランス座の仕事を手伝いました。中央大学を卒業し、1968年に東洋興業社長へ就任します。浅草演芸ホールの1階移転やフランス座の再開、閉館と再開を繰り返した時期の経営を担いました。

1972年夏、25歳の北野武(後のビートたけし)が浅草フランス座を訪れ、エレベーターボーイとして採用されました。フランス座のエレベーターで深見千三郎と出会い、弟子入りを願い出ました。

深見は北野にタップダンスを教え、北野は仕事の合間に練習を重ねました。芸人が急病になった際に代役で舞台へ上がった後、深見は松倉久幸に北野を芸人見習いとして預かりたいと申し出ています。北野はフランス座の楽屋に寝泊まりしながら舞台を学びました。その楽屋は現在も建物内に残されています。

フランス座では深見千三郎が支配人を務めた時期もあり、東八郎、萩本欽一、坂上二郎ら東洋興業の舞台を経験した芸人がテレビへ進んだ後も、若手が軽演劇を実演する場が続いていました。北野はその後、兼子二郎(後のビートきよし)とコンビを組み、漫才へ進みます。

映画館からテレビへ娯楽の中心が移った時代背景は、日本映画史の記事で詳しく解説しています。

フランス座は閉館と再開を繰り返し、2000年に東洋館へ変わった

浅草フランス座は1964年にいったん閉館し、浅草演芸ホールへ転換されました。演芸ホールが下階へ移った後、1971年に4・5階でフランス座が再開します。1982年に再び閉館し、1987年に三度目の開場を迎えました。

三度目のフランス座は1999年に閉館します。翌2000年元日、4・5階を改装して浅草東洋館が開業しました。正式名称は「浅草フランス座演芸場東洋館」で、1951年から使われてきたフランス座の名称を残しています。

東洋館は漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなどを上演する、都内唯一の「いろもの寄席」です。漫才協会、東京演芸協会、ボーイズ・バラエティー協会が定期興行を担当し、31日には東洋館主催の特別公演を行います。

同じ建物では、1・2階の浅草演芸ホールが落語を中心とする定席を続け、4階の東洋館が色物を中心に興行しています。1950年代にストリップと軽演劇を上下階で展開した建物は、現在、落語と色物の二つの寄席を収めています。

多くの劇場が姿を消した六区で、東洋興業は興行を続ける

松倉久幸の回想では、昭和20年代から30年代前半の浅草六区には最盛期で約36の映画館・劇場がありました。フランス座の両隣には日活系の映画館と大勝館があり、ロック座の隣には東京吉本の浅草花月劇場がありました。周辺には松竹座、松竹演芸場、国際劇場、東映、電気館、千代田館、木馬館などが集まり、映画、レビュー、軽演劇、演芸、ストリップが同じ街区で興行されていました。

浅草花月劇場は1935年に開場し、空襲を免れて終戦から2週間後に営業を再開しました。戦後は浅草グランド劇場への改称や映画館・演芸場への転換を重ね、1985年に閉館します。松竹の浅草国際劇場は1982年に閉場しました。常盤座、金龍館、東京倶楽部の三館も1991年に閉鎖され、明治・大正以来の劇場建築が六区から姿を消していきました。

東洋興業は時代に合わせて興行形態を変えてきました。ロック座、フランス座、東洋劇場を運営した時代から、1964年に落語定席の浅草演芸ホールを開き、フランス座は閉館と再開を経て1999年に営業を終了しました。2000年にはその場所を、漫才・漫談・コントなどを中心とする東洋館へ転換しています。

現在の東洋興業代表取締役は松倉由幸です。浅草演芸ホールでは席亭として出演者や関係者と番組を調整し、浅草演芸ホールと東洋館の運営を担っています。台東区は浅草六区地区の地区計画で、六区を「かつては東京一の興行街」と位置づけ、六区ブロードウェイを中心とした「興行街の再生」を掲げています。東洋興業の2館は、その地区で通年の実演興行を続けています。

参考資料