1946年2月13日、東京。43歳の白洲次郎は、日本政府と連合国軍総司令部(GHQ)が憲法改正をめぐって向き合う場所にいました。敗戦から半年。焼け跡の残る日本では、明治以来の国家制度そのものが組み替えられようとしていました。
白洲は兵庫の実業家の家に生まれ、英国ケンブリッジ大学で学びました。帰国後は企業で働き、戦争中には東京郊外の農村へ移って畑を耕します。敗戦後、吉田茂に呼ばれ、GHQとの折衝に立つことになります。
史料で追える経歴は、英国留学、家業の破綻、白洲正子との結婚、武相荘への移住、占領下での憲法改正、貿易行政、講和交渉、東北の電源開発へと続きます。白洲次郎の83年は、昭和日本の崩壊と再出発に重なります。
1902年、兵庫に生まれた裕福な実業家の息子
白洲次郎は1902(明治35)年2月17日、兵庫県武庫郡精道村、現在の芦屋市に生まれました。父は白洲文平、母は芳子です。白洲家は旧三田藩に仕えた家系で、祖父の退蔵は明治期に官界や実業界で活動しました。父の文平も海外で学び、帰国後に貿易業を営みました。
海外渡航そのものが珍しかった時代に、父は米国やドイツでの生活を経験していました。次郎は外国語や外国文化に触れやすい家庭で育ちました。のちの英国留学や占領軍との交渉につながる環境でした。
神戸一中を卒業した次郎は英国へ渡り、1923(大正12)年、21歳でケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学します。専攻は中世史でした。第一次世界大戦が終わってまだ5年。英国は戦争の傷を抱えながら、世界帝国としての秩序を保っていました。
大学生活では中世史を学びながら、自動車を好み、ベントレーやブガッティを乗り回し、英国人の友人たちと交流しました。親友となったロバート・セシル・ビングとの友情は、その後も長く続きます。
英国社会には階級があり、議会政治の長い伝統がありました。次郎はその社会で数年間を暮らし、英語で人と交わり、自分の意見を伝える経験を重ねました。
1926(大正15)年に大学を卒業した後も、次郎は英国で学問を続けようとしていました。ところが実家の経済状況が悪化します。金融恐慌の影響を受け、父の事業は破綻しました。1928(昭和3)年、次郎は帰国します。英国で研究を続ける道は、家業の破綻によって突然閉ざされました。
白洲正子との結婚――二人の異端児が出会う
帰国した次郎は、のちに随筆家として知られる白洲正子と出会います。正子は1910(明治43)年生まれ。祖父に海軍大将・樺山資紀を持つ家に育ち、幼少期から能を学び、米国留学も経験していました。
二人は1929(昭和4)年11月に結婚します。次郎27歳、正子19歳でした。武相荘に伝わる年譜には、次郎が正子の父・樺山愛輔に結婚の意思を「頂きます」という調子で伝えたという正子の回想が残っています。
結婚後、次郎は実業界で働きます。1937(昭和12)年には日本食糧工業の取締役となり、鯨油輸出の仕事で英国を訪れるようになりました。このころ駐英大使だった吉田茂と親交を深めます。外務省外交史料館の資料にも、次郎と吉田の関係を示す記録が残っています。
近衛文麿の周辺とも接点を持ち、次郎は実業家として働きながら外交と政治の動きを身近に見るようになりました。1930年代後半、日本は中国大陸での戦争を拡大し、英米との関係を急速に悪化させます。
1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まりました。日本軍は開戦当初こそ急速に占領地域を広げましたが、戦争は長期化します。次郎は東京の外へ生活の基盤を移す準備を始めました。
敗戦を見越して農村へ――「武相荘」の時代
1942(昭和17)年、次郎は東京郊外の鶴川村、現在の東京都町田市に農地付きの茅葺き農家を購入します。武蔵国と相模国の境に近いことから、夫妻は家を「武相荘」と名づけました。「無愛想」にも掛けた名前です。
1943(昭和18)年、夫妻は鶴川へ移りました。次郎は農業に取り組みます。戦争の長期化による都市の食料不足を見込み、生活の足場を農村へ移しました。
戦局は悪化しました。1944年には本土への空襲が本格化し、1945年には東京が繰り返し焼かれます。5月の空襲で家を失った評論家・河上徹太郎夫妻を、白洲夫妻は武相荘に迎えました。数年前に選んだ農村の家が避難場所になりました。
8月15日、戦争が終わります。日本は連合国の占領下に入りました。軍は解体され、政治、教育、経済、土地制度まで、社会の広い範囲が改革の対象になります。鶴川で敗戦を迎えた次郎の生活も、数か月後に一変します。
吉田茂に呼ばれ、GHQとの交渉の最前線へ
1945年12月、外相だった吉田茂の要請で、次郎は終戦連絡中央事務局の参与に就任しました。翌1946年3月には次長となります。
終戦連絡中央事務局は1945年8月、GHQと日本政府の連絡機関として外務省の外局に設けられました。GHQから届く要求を政府へ伝え、日本側の事情を占領当局へ説明する機関です。
次郎は英国で暮らし、外国人と仕事をし、英語で交渉する経験を重ねていました。敗戦直後、その経歴がGHQとの折衝に生かされます。
白洲には、GHQ高官に食ってかかったという話や、占領軍にも対等な態度を崩さなかったという逸話が伝えられています。公文書から確認できるのは、白洲が終戦連絡中央事務局でGHQとの折衝を担った事実です。
大きな課題の一つが憲法改正でした。占領開始から半年ほどで、次郎は国家の基本法をめぐる交渉に入ります。
新憲法をめぐる冬――1946年2月の衝撃
1945年10月、GHQは日本側に憲法の自由主義化を求めました。日本政府は松本烝治を中心とする憲法問題調査委員会を設け、明治憲法をどのように改めるか検討します。
1946年2月8日、日本政府は憲法改正案をGHQへ提出しました。GHQは日本側の案を採用せず、独自に草案を準備します。
2月13日、GHQ草案が日本側へ提示されました。この会談には吉田茂外相、松本烝治国務大臣とともに白洲も立ち会いました。国立国会図書館には、この日の経過を記録した資料が残されています。
提示から2日後の2月15日、白洲はGHQ民政局長コートニー・ホイットニーに英文書簡を送りました。現在「ジープ・ウェイ・レター」と呼ばれる文書です。白洲は、民主的な憲法を作るという目的を共有しながら、日本側とGHQ側ではそこへ至る道筋が異なるという趣旨を図を交えて伝えました。
翌16日にはホイットニーから返書が届きます。18日には松本から憲法改正案の説明補充が提出され、19日には白洲とホイットニーの会談に関する覚書が作成されました。公文書には、白洲が憲法案をめぐる折衝に加わった記録が残っています。
3月7日付の「白洲手記」には、2月13日のGHQ草案提示から日本側の修正作業までの動きが記録されています。
その後、日本政府とGHQの協議を経て、3月6日に憲法改正草案要綱が発表されました。4月17日には口語体の憲法改正草案が公表され、帝国議会での審議へ進みます。日本国憲法は11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行されました。
憲法制定にはGHQ民政局、日本政府、松本烝治、佐藤達夫ら法制官僚、閣僚、帝国議会など多くの主体が関わりました。白洲はその過程でGHQと日本政府の折衝を担いました。
ケンブリッジで中世史を学んだ青年は二十年後、敗戦した日本の統治制度が根本から変わる現場に立っていました。
政治家にはならず、貿易庁長官へ
1947(昭和22)年5月、次郎は終戦連絡中央事務局を退きました。その後も吉田茂との関係は続きます。占領下の日本では、政治制度の改革と並行して経済の再建が進められました。
1948(昭和23)年10月、第2次吉田内閣が成立します。同年12月、次郎は貿易庁長官に就任しました。
敗戦直後の日本にとって貿易の再建は切迫した課題でした。食料や工業原料を輸入するための外貨を、輸出によって確保する必要がありました。貿易はGHQの管理下にあり、政府の行政機構も再編の途中でした。
白洲の貿易庁長官在任は約2か月半でした。1949年、貿易庁などを統合して通商産業省が発足します。白洲は行政を離れ、再び民間へ戻りました。
独立への道――吉田茂の特使として海を渡る
憲法施行後も連合国による占領は続きました。占領の終了には平和条約の締結が必要でした。
1950(昭和25)年4月、次郎は吉田首相の特使として池田勇人蔵相とともに米国へ渡りました。対日講和を進めるための環境を探る任務でした。
同年6月、朝鮮戦争が始まります。東アジアの国際情勢は一変しました。米国にとって日本は、冷戦下の東アジアを支える拠点として重要性を増していきます。
1951年春、平和条約案をめぐる具体的な検討が進みました。外務省外交史料館が公開する史料には、4月20日付の「英国の平和条約案にたいするわが方意見(案)」に白洲が目を通した痕跡が残っています。表紙には、講和条約を勝者が敗者へ一方的に強制する形にしないという吉田の考えを強調するよう、白洲が朱鉛筆で書き込んでいました。
同年8月、次郎は首席全権委員顧問として吉田らと米国へ向かいます。9月8日、サンフランシスコで対日平和条約が調印されました。条約は翌1952年4月28日に発効し、日本は主権を回復します。
1945年12月に終戦連絡中央事務局へ入った白洲は、GHQとの折衝、憲法改正、講和へ至る過程に関わりました。
国家の次の課題は「電気」だった――東北電力へ
講和交渉が進んでいた1951年5月、電気事業再編によって東北電力が設立され、次郎は初代会長に就任します。
敗戦後の産業復興には発電能力の拡大が必要でした。東北地方には水力発電に利用できる河川があり、電源開発は地域経済と日本全体の復興に直結していました。
白洲は只見川水系などの電源開発に関わります。発電所と送電網を整備し、産業や家庭へ電力を供給する仕事でした。
1954(昭和29)年には只見川の上田発電所で湛水式が行われました。白洲の仕事はGHQとの交渉から戦後復興を支えるインフラ整備へ移っていきます。
東北電力の公式沿革によれば、白洲は1951年の会社設立時から会長を務めました。1959(昭和34)年に会長を退任した後も、複数の企業で役職を務めます。
武相荘へ帰る――肩書から離れた後半生
戦時中に移り住んだ武相荘は、その後も次郎と正子の生活の拠点でした。食料を確保するために選んだ農家で、夫妻は戦後も暮らし続けます。
正子は能、仏像、古美術、工芸、日本各地の文化を訪ね歩き、『能面』『かくれ里』『西国巡礼』などを著します。
次郎は自動車を愛し、ゴルフにも深く関わりました。英国時代からの友人との交流も続きます。1980(昭和55)年には、ケンブリッジ時代からの親友ロバート・セシル・ビングとロンドンで最後の時間を過ごしました。
英国で自動車を走らせた青年は、戦争中に鍬を持ち、敗戦後にはGHQとの交渉に入り、講和を経て電源開発に携わりました。生活の拠点は鶴川の武相荘でした。
1985年、「葬式無用 戒名不用」を残して
1985(昭和60)年秋、83歳の次郎は正子と旅に出ました。夫妻は伊賀や京都を訪ねます。帰宅後まもなく次郎の体調が崩れ、11月26日に入院。11月28日に亡くなりました。
正子の回想によれば、次郎が残した遺言は「葬式無用 戒名不用」の二行でした。遺族はその意向に沿い、一般的な葬儀を行わずに送りました。
1902年に生まれた次郎の83年は、日露戦争前夜から高度経済成長後までをまたぎます。帝国日本の時代に英国へ留学し、太平洋戦争の敗戦を経験し、占領、憲法改正、講和、経済復興の現場を通過しました。
白洲次郎を「伝説」だけで見ない
白洲次郎には「GHQに屈しなかった男」「日本で最初にジーンズをはいた人物」など、印象の強い逸話が付随しています。本人や家族の回想、評伝、映像作品によって広まった話もあります。公文書から確認できる経歴と、後世に広まった逸話を区別して見る必要があります。
公文書からは、1945年12月に終戦連絡中央事務局参与となり、翌年には次長としてGHQとの折衝にあたったこと、憲法改正過程でホイットニーへ書簡を送り、会談を重ねたことが確認できます。講和準備でも平和条約案に目を通し、1951年には首席全権委員顧問としてサンフランシスコへ向かいました。
ケンブリッジでの生活、武相荘での農業、占領期の折衝、講和、東北の電源開発。白洲は政治、外交、実業の現場を移りながら仕事を続けました。
武相荘は現在も東京都町田市に残っています。白洲次郎と正子の暮らしを伝える場所です。
白洲次郎の略年表
- 1902年 兵庫県武庫郡精道村に生まれる
- 1923年 ケンブリッジ大学クレア・カレッジ入学
- 1926年 同大学卒業
- 1928年 実家の事業破綻を受けて帰国
- 1929年 白洲正子と結婚
- 1937年 日本食糧工業取締役となり、英国との往来を重ねる
- 1942年 鶴川村に農地付きの家を購入
- 1943年 武相荘へ転居し、農業に従事
- 1945年 終戦連絡中央事務局参与に就任
- 1946年 同局次長となり、日本国憲法制定をめぐるGHQとの折衝に関わる
- 1947年 終戦連絡中央事務局を退任
- 1948年 貿易庁長官に就任
- 1950年 吉田首相の特使として渡米
- 1951年 東北電力初代会長に就任。サンフランシスコ講和会議に首席全権委員顧問として出席
- 1959年 東北電力会長を退任
- 1985年11月28日 83歳で死去
