新宿中村屋とは何か|インド独立運動・頭山満・芸術サロン・純印度式カリーの物語

1918年ごろのラス・ビハリ・ボースと妻・俊子 世界史・国際関係
ラス・ビハリ・ボースと妻の俊子(相馬俊子)。1918年ごろ、撮影者不詳。Wikimedia Commons/Public Domain。

新宿中村屋の「純印度式カリー」は、骨付きの鶏肉と香り高いスパイスを合わせた一皿です。発売は1927年6月12日。けれども、その起点は料理店の新メニュー開発を越え、12年前の1915年、日本へ逃れたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースが、英国の圧力を受けた日本政府から国外退去を命じられ、相馬家にかくまわれた出来事へさかのぼります。

ボースを迎え入れた中村屋は、1901年に始まったパン屋でした。ところが店の奥には芸術家のためのアトリエがあり、彫刻家や画家、演劇人、詩人、外国から来た亡命者が出入りしていました。そこで育った人間関係と、相馬愛蔵・黒光夫妻が若者を生活ごと支える姿勢が、1915年の保護を可能にします。やがてボースは夫妻の長女・俊子と結婚し、祖国の味を新宿へ伝えました。パン屋、芸術サロン、亡命者の隠れ家、民族料理店という中村屋の複数の顔は、別々の沿革ではなく、人を受け入れる一つの歴史から生まれています。

30秒で分かる新宿中村屋の歴史

  • 1901年、相馬愛蔵・黒光夫妻が本郷でパン屋「中村屋」を創業しました。
  • 1908年以降、荻原守衛ら芸術家が集まり、のちに「中村屋サロン」と呼ばれる交流圏が形成されました。
  • 1915年、国外退去を命じられたラス・ビハリ・ボースを、頭山満らの人脈を通じて相馬家が保護しました。
  • 1918年、ボースは相馬俊子と結婚し、1927年に中村屋の喫茶部で純印度式カリーを売り出しました。
  • 1945年にボースは死去し、中村屋本店も空襲で焼失しました。インドは1947年に独立し、2014年には中村屋サロン美術館が開館しました。

1901年、相馬夫妻が始めたパン屋「中村屋」

相馬愛蔵そうま・あいぞうは1870年、信濃国安曇郡白金村、現在の長野県安曇野市に生まれました。東京専門学校、現在の早稲田大学で学んだのち、郷里で養蚕や農村改良に取り組みます。1898年には私塾・研成義塾の設立に関わり、青年教育を支えました。事業を利益だけでなく、人を育てる営みと結びつける姿勢は、後年の中村屋にも引き継がれます。

1910年代の新宿中村屋創業者・相馬愛蔵の肖像
相馬愛蔵。1910年代、撮影者不詳。新宿中村屋/Wikimedia Commons/Public Domain。

相馬黒光そうま・こっこうは1876年、仙台に生まれました。本名は良、旧姓は星です。宮城女学校や明治女学校で学び、文学やキリスト教、女性教育に触れました。1898年に愛蔵と結婚して安曇野へ移り、夫妻は東京へ戻ります。黒光は店の経営に加え、芸術家や外国人との交流の中心となり、のちに回想録『黙移』を残しました。

1890年ごろの新宿中村屋創業者・相馬黒光の肖像
相馬黒光(星良)。1890年ごろ、撮影者不詳。新宿中村屋/Wikimedia Commons/Public Domain。

1901年12月30日、夫妻は東京・本郷の東京帝国大学正門前にあったパン屋を買い取りました。前の店主が使っていた「中村屋」の屋号を受け継いだため、相馬姓でありながら店名は中村屋です。1904年には、シュークリームの製法から着想したクリームパンを考案しました。あんパンが主流だった時代に、洋菓子のクリームをパンへ応用した商品でした。

1907年に新宿へ支店を出し、1909年には現在の新宿三丁目に本店を移しました。鉄道の結節点として成長し始めた新宿には、学生、勤め人、演劇人、芸術家が集まりつつありました。夫妻は、代金を払う客だけでなく、仕事や住まいに困る若者にも店の奥を開きます。寄宿、食事、制作場所、作品購入といった具体的な支援が、パン屋を文化的な交差点へ変えていきました。

1908年から広がった中村屋サロン

1908年、フランス留学から帰国した彫刻家・荻原守衛おぎわら・もりえが中村屋へ頻繁に通うようになりました。愛蔵と同じ安曇野の出身で、「碌山」の名でも知られます。夫妻は店舗裏にアトリエを用意し、荻原はそこで制作しました。1910年4月、荻原は30歳で急死しますが、中村屋と芸術家を結んだ関係は途切れませんでした。

1910年、遺作となった彫刻「女」とともに写る荻原守衛
荻原守衛と遺作「女」。1910年、撮影者不詳。新宿中村屋/Wikimedia Commons/Public Domain。

荻原を介して画家の中村彝なかむら・つねが出入りし、病弱だった彝を相馬家が支えました。1914年、彝は相馬家の長女・俊子をモデルに油彩画「小女」を制作します。彝と俊子の親密な関係は結婚には至らず、夫妻との間にも緊張を生みました。支援する側とされる側の距離が近かった中村屋では、芸術と生活、家族関係が切り離せなかったのです。

美術史家・歌人の會津八一あいづ・やいち、女優の松井須磨子まつい・すまこ、演出家の島村抱月しまむら・ほうげつ、劇作家の秋田雨雀あきた・うじゃくらも中村屋と関わりました。後世に「中村屋サロン」と呼ばれるこの交流圏は、会員名簿を持つ組織ではなく、店、相馬家、アトリエを軸に、人が人を紹介し、食事を囲み、作品を作り、仕事を助ける緩やかなつながりでした。

1916年には、ロシア出身の盲目の詩人ワシリー・エロシェンコが日本へ来て、中村屋に滞在しました。秋田雨雀らと交流し、脚本の朗読会にも加わります。1920年、洋画家・中村彝は赤い服を着た彼を描き、「エロシェンコ氏の像」を完成させました。1921年には小牧近江らの雑誌『種蒔く人』創刊を相馬夫妻が支えましたが、同年、エロシェンコは社会主義者との関係を疑われて国外退去となります。

芸術家、社会運動家、外国人が出入りし、時に警察の監視対象となる人物まで受け入れた経験は、1915年のボース保護に直結します。中村屋サロンは美術作品を生んだ場所であると同時に、国家の境界からこぼれ落ちた人を民間の関係で支える土台でもありました。

1886年から1915年、インドから日本へ逃れた革命家

ラス・ビハリ・ボースは1886年、英領インドのベンガル地方に生まれました。同じ「ボース」姓でも、のちにインド国民軍を率いるスバス・チャンドラ・ボースとは別人です。ラス・ビハリは世代が上で、1943年にスバスへ運動の指導権を渡す側に立ちます。

当時のインドは、英国王を頂点とする植民地統治のもとにありました。英国人官僚が行政と軍事の上層を握る一方、藩王国や現地エリートを組み込む複雑な支配でした。1905年、英国政府がベンガルを東西に分割すると、行政上の再編を超えて民族運動を分断する政策だという反発が広がります。ボイコットや国産品愛用運動に加え、武装闘争を選ぶ若者も現れました。背景には大英帝国とインド植民地支配の歴史があります。

ラス・ビハリは革命組織と関わり、1912年12月23日、首都移転の式典でデリーへ入ったインド総督ハーディングに爆弾が投げられた事件への関与を疑われました。総督は負傷し、捜査は各地の革命家へ及びます。1914年にはボースが中心人物として追及され、地下活動へ移りました。

第一次世界大戦が始まると、英国が欧州戦線へ兵力を割く機会を利用し、1915年2月にインド兵を一斉蜂起させる計画が立てられました。しかし情報が漏れ、蜂起は失敗します。ボースは変装して追跡を逃れ、同年5月、日本行きの船に乗りました。6月5日に神戸へ上陸し、6月8日に東京へ到着します。7月28日には中国革命の指導者・孫文と会い、反英運動への支援と武器調達の可能性を探りました。

英国側はボースの所在と活動を追い、日本政府へ引き渡しを求めました。日本は1902年以来、英国と日英同盟を結び、第一次世界大戦でも連合国側に立っていました。インド独立運動家にとって日本はアジアの非欧米国家でしたが、日本政府にとって英国は同盟国でした。この立場のずれが、亡命者の身柄をめぐる外交問題を生みます。

1915年、頭山満と霊南坂の逃走劇

孫文は、ボースの保護を福岡出身の国家主義者・頭山満とうやま・みつるへつなぎました。頭山は1879年に向陽社こうようしゃを結成し、1881年に玄洋社げんようしゃへ改称しました。国会開設運動から出発し、やがて国権論とアジア主義を掲げ、孫文や朝鮮の金玉均きん・ぎょくきんら国外の政治運動家を支援します。

その支援は、欧米の植民地支配に抗するアジアの連帯という面を持つ一方、日本の勢力拡大と結びつく側面もありました。玄洋社の人脈は大陸での情報活動や対外強硬論に関わり、頭山自身も日本を中心とする国権主義を唱えました。ボースを救った民間人という像と、日本の対外膨張を後押しした国家主義者という像は、同じ活動圏の両面です。

1915年、頭山満らがラス・ビハリ・ボースを囲んだ会合
1915年、頭山満らがラス・ビハリ・ボースを囲んだ会合。中央が頭山満、右が犬養毅、その後ろがボース。撮影者不詳。Wikimedia Commons/Public Domain。

1915年11月28日、日本政府はボースと同伴者ヘランバ・ラル・グプタに国外退去を命じました。期限は12月2日でした。英国の要請と日英同盟を背景にした判断であり、国内の民間支援者の期待とは反対方向でした。外交制度の流れは日英同盟を含む日本外交史ともつながります。

12月1日、ボースらは東京・赤坂の霊南坂れいなんざかにあった頭山邸へ招かれました。警察は邸宅の外で監視していましたが、頭山、政治家の犬養毅いぬかい・つよし、玄洋社系の支援者らは、訪問者や車の出入りを利用して尾行を外します。ボースは別の装いで裏手から移され、姿を消しました。後に「霊南坂の神隠し」と呼ばれた逃走です。

保護先を引き受けたのが相馬夫妻でした。ボースとグプタは新宿中村屋の裏にあるアトリエへ入り、約3か月半を過ごします。店員は食事を運び、外部に漏らさず、警察の捜索に備えました。相馬家の決断は、国家の外交方針とは別の民間行動でした。サロンで培われた信頼と、身元や国籍よりも目の前の生活を支える習慣が、隠れ家を現実に機能させました。

1916年から1925年、亡命者が相馬家の家族になるまで

1916年3月ごろ、ボースは中村屋を出ました。警察の監視が続くなか、約4年間に17回ほど隠れ家を移ったと伝えられます。相馬俊子そうま・としこは連絡や生活物資の受け渡しに関わり、危険と隣り合わせの逃亡生活を支えました。家族と従業員にも、捜索や処罰への不安、秘密を守る負担がかかりました。

1918年7月、ボースと俊子は頭山満の媒酌で結婚しました。式は頭山邸で、事情を知る限られた関係者によって行われました。亡命者の保護が家族関係へ変わった出来事ですが、恋愛物語だけでは捉えきれません。俊子は外出や連絡を制約された夫との生活を選び、二人の子を育て、家業にも関わりました。

1918年ごろのラス・ビハリ・ボースと妻・俊子
ラス・ビハリ・ボースと妻の俊子(相馬俊子)。1918年ごろ、撮影者不詳。Wikimedia Commons/Public Domain。

第一次世界大戦が1918年11月に終わり、国際環境が変わると、英国側の追及は次第に緩みました。ボースは1923年に日本へ帰化し、日本名を使うことなく活動を続けます。法的な身分は安定しましたが、インドへ帰れる状況にはなりませんでした。

1925年3月4日、俊子は26歳で死去しました。結婚から7年に満たない短い生涯です。二人の生活は、家族の保護と社会的な支援によって成り立つ一方、亡命が配偶者へ及ぼす負担を伴いました。ボースは俊子の死後も相馬家との関係を保ち、二人の子どもを育てながら独立運動を続けました。

1927年、革命家のカリーが新宿の名物になる

1927年6月12日、中村屋は新宿本店に喫茶部を開きました。新宿への百貨店進出が進み、買い物客から休憩や食事の場所を求める声が増えたためです。相馬夫妻はパンと菓子の販売だけでなく、客が席に着いて異国の料理を味わう店へ事業を広げました。

当時、日本で広く食べられていたカレーは、小麦粉を油で炒めてとろみを付ける英国経由の洋食でした。ボースが提案したのは、複数の香辛料を組み合わせ、鶏肉を骨付きのまま煮込むインド式の料理です。中村屋は「純印度式カリー」と名付けました。「カレー」ではなく「カリー」と表記したのは、一般的な洋食カレーと区別し、インドの料理として伝える意図によります。

当初はインディカ米を合わせましたが、日本の客にはなじみにくく、のちに粘りの少ない国産の白目米へ調整しました。鶏肉、米、乳製品、スパイスの品質にもこだわり、一般的なカレーが10~12銭ほどだった時代に80銭で販売しました。高価でも、安価な模倣品ではなく一つの料理文化として提供する方針でした。香りの材料が世界を移動してきた背景は、香辛料が世界を動かした歴史にも重なります。

純印度式カリーより前から、日本では洋食カレーが広がっていました。中村屋の役割は、インド出身者が監修した料理を、新宿の店舗で継続的に提供し、インドの食文化を具体的な味として伝えた点にあります。ボースにとってカリーは祖国の記憶であり、客にとっては亡命者の人生を知らなくても口にできる文化交流でした。

1927年以降、世界の料理が集まった「民族レストラン」

喫茶部では、純印度式カリーのほか、ロシア料理のボルシチ、中国風の月餅や中華まんなどが提供されました。ボルシチは、相馬家が交流したエロシェンコからロシアの食文化を学んだ流れにあります。芸術サロンで交わされた言葉や作品が、厨房では味と香りへ姿を変えました。

1933年にはロシア風の揚げパン、ピロシキを発売しました。中華まんや月餅の展開にも、中国人職人や大陸との交流が関わっています。中村屋が掲げた「民族レストラン」は、国籍の異なる料理を見世物として並べるだけの場ではなく、実際に新宿へ来た人々から製法を学び、商品へ落とし込む場でした。

ここには、1908年以降のサロンと1927年以降の飲食店をつなぐ連続性があります。中村屋は、人をまず受け入れ、その人が持つ技術や文化を店の仕事へ結びつけました。作品を買う、アトリエを貸す、亡命者をかくまう、料理を教わるという行動は形こそ異なりますが、文化を人から切り離さずに受け取る点で共通しています。

1930年代から1945年、ボースが追い続けたインド独立

日本国籍を得た後も、ラス・ビハリ・ボースの目的はインド独立でした。日本語で『印度は叫ぶ』『独立印度の黎明』などを著し、講演や出版を通じて英国の植民地支配を批判しました。日本国内の政治家、軍人、アジア主義者との関係を広げ、東南アジアのインド人社会とも連絡を取ります。

しかし1930年代の日本は、満州事変、日中戦争へ進み、アジア主義は植民地解放の言葉と日本の軍事的拡張を結びつけるようになりました。大川周明おおかわ・しゅうめいらはアジア解放を唱えましたが、日本軍の占領地域では現地社会への統制と暴力が生じました。個人が抱いた反植民地主義と、日本国家の戦略には明確な隔たりがありました。

1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍が東南アジアで英軍を破ると、多数のインド人兵士が捕虜となりました。1942年、亡命インド人の組織をまとめるため東京会議とバンコク会議が開かれ、ボースはインド独立連盟の指導者となります。元英印軍将校モーハン・シンらは捕虜を中心にインド国民軍を組織しました。

インド側は独立運動の主体性と軍の指揮権を求め、日本軍は対英作戦に利用できる兵力として期待しました。目的の違いはすぐに表面化し、モーハン・シンは日本側への不信から1942年末に拘束され、最初のインド国民軍は事実上解体します。ボースは日本との協力を続けながら、インド人自身が運動を率いる形を模索しました。

1943年7月4日、ラス・ビハリはシンガポールで、ドイツから到着したスバス・チャンドラ・ボースへインド独立連盟の指導権を移しました。高齢と病気が進んだラス・ビハリに代わり、スバスが再編されたインド国民軍と自由インド仮政府を率います。二人を区別すると、運動が一人の英雄ではなく、世代と組織の継承によって続いたことが分かります。

日本とアジア独立運動の関係には、頭山や相馬家のような個人の支援、政府の外交、軍部の作戦が重なっていました。それぞれの目的は一致せず、現地の独立運動家にも選択と対立がありました。この複雑さは、戦後にインドネシア独立に加わった日本人たちの事例にも現れます。

1945年1月21日、ラス・ビハリ・ボースは東京で死去しました。58歳でした。インド独立の実現を見ることはありませんでしたが、彼が築いた国外の人脈と組織は、東南アジアのインド人を独立運動へ結びつける一つの基盤となりました。

1945年から1947年、焼けた新宿と実現したインド独立

ボースの死から4か月後の1945年5月25日、東京は大規模な空襲を受け、新宿中村屋本店も焼失しました。相馬夫妻が1909年に本店を移し、芸術家と亡命者を迎え、純印度式カリーを売り出した建物は失われます。新宿一帯は焼け野原となり、終戦後は駅周辺に闇市が広がりました。再建期の街の様子は戦後新宿と闇市の歴史に詳しくまとまっています。

中村屋は終戦後、仮店舗で営業を再開し、店舗と生産体制を立て直しました。純印度式カリーも復活し、戦前の記憶を新しい建物へ受け継ぎます。旧店舗やアトリエがそのまま保存されたのではなく、商品、作品、資料、企業の記録によって歴史が再構成されました。

1947年8月15日、インドは英国から独立しました。独立は、インド国民会議の大衆運動、ガンディーの非暴力運動、農民や労働者の運動、革命家の地下活動、第二次世界大戦後の英国の国力低下など、長い過程の結果です。ラス・ビハリやインド国民軍もその一部でしたが、日本や中村屋の功績だけに帰すことはできません。

独立と同時にインドとパキスタンの分離が進み、大規模な住民移動と暴力が起こりました。現在のインドは多言語・多宗教の連邦国家で、その地域構成は現在のインドの地域・言語・宗教からもたどれます。ボースが目指した「独立」の先にも、国家を形づくる難しい歴史が続きました。

2014年から現在、新宿に残る中村屋サロンの記憶

2014年10月29日、新宿中村屋ビルの開業に合わせて中村屋サロン美術館が開館しました。荻原守衛、中村彝をはじめ、中村屋に集まった芸術家の作品や資料を収集・展示する美術館です。かつての店舗やアトリエを原位置で保存した施設ではなく、建て替えられた現代のビル内で、作品と記録から交流の歴史を伝えています。

同じ建物にはレストランがあり、純印度式カリーが現在も提供されています。料理の味は時代に応じて調整され、店舗も何度も姿を変えました。それでも「純印度式カリー」という名称、ボースと俊子の物語、サロンの作品が同じ場所で語られるため、1915年の亡命と1927年のメニューが切り離されずに残っています。開館日、展覧会、料金、営業時間などの最新情報は中村屋サロン美術館公式サイトに掲載されています。

新宿三丁目を歩くと、明治のパン屋、近代美術、日英同盟下の外交、インド独立運動、戦災と復興が、一つの交差点に折り重なっていることが分かります。新宿の変化をさらにたどるには、新宿の都市史もつながります。

まとめ|一皿のカリーが保存した複数の歴史

1901年に始まった中村屋は、1908年以降に芸術家の居場所となり、1915年にはラス・ビハリ・ボースをかくまいました。1918年、ボースは相馬俊子と結婚し、1927年には純印度式カリーを店の料理として形にします。ボースが亡くなった1945年に本店は焼け、1947年にインドは独立しました。2014年の中村屋サロン美術館開館によって、失われたアトリエの記憶は作品と資料の展示へ移されています。

新宿中村屋が複数の歴史を保存できた理由は、文化を抽象的に称賛するだけでなく、人を住まわせ、食べさせ、働く場所をつくり、作品や料理として社会へ渡したことにあります。現在の純印度式カリーは、亡命者の祖国の味であると同時に、芸術サロンを育てた相馬家の人間関係、日英同盟下の逃走、インド人自身の独立運動を今日の新宿へつなぐ記憶です。

参考文献・資料