ネパールの山村を歩き、ときに馬で巡り、携帯型X線装置を運んで結核患者を診た日本人医師が岩村昇です。
岩村は1927年に愛媛県宇和島市で生まれ、広島での被爆を経て医師となりました。日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の派遣記録では、1962年1月から1980年3月までネパールで活動しています。帰国後は、治療の経験を草の根の人材育成へつなげました。
ネパール・バクタプルでは、岩村を記念して設立された Dr. Iwamura Memorial Hospital が現在も診療を続けています。海外で記憶される日本人の全体像は、海外で語り継がれる日本人たちでも紹介しています。
岩村昇の人物像と歩み
- 岩村昇は、1927年5月26日に愛媛県宇和島市で生まれ、2005年11月27日に亡くなった医師・医学者です。
- 1945年8月6日、広島で被爆しました。倒壊した建物から救出された経験が、医師を志す転機になったと伝わります。
- JOCSの正式な派遣期間は1962年1月から1980年3月までで、約18年間です。
- 山村への巡回診療、結核健診、携帯型X線装置を使った診療、公衆衛生、生活改善に取り組みました。
- 「みんなで生きるため」という言葉を、地域の人との出会いから活動の中心に据えました。
- 帰国後はPHD協会などを通じ、アジアの草の根リーダーを育てました。
- 1993年、ラモン・マグサイサイ賞の国際理解部門を受賞しました。
- バクタプルには、岩村を記念して1998年に設立され、2001年に開業した病院が残ります。
岩村昇の基本プロフィール
| 氏名 | 岩村昇(いわむら のぼる) |
|---|---|
| 生年月日 | 1927年5月26日 |
| 出身地 | 愛媛県宇和島市 |
| 没年月日 | 2005年11月27日 |
| 職業 | 医師、医学者、大学教員 |
| 主な活動地 | ネパール、タイ、日本 |
| ネパール派遣期間 | 1962年1月~1980年3月(JOCS派遣記録) |
| 主な活動 | 結核対策、巡回診療、公衆衛生、地域保健、人材育成 |
| 主な受賞 | 第1回ロータリー国際理解賞、ラモン・マグサイサイ賞国際理解部門 |
| 関連団体・施設 | JOCS、United Mission to Nepal、PHD協会、国際人材開発機構、Dr. Iwamura Memorial Hospital |
岩村昇の生涯しょうがいを年表でたどる
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1927年 | 5月26日、愛媛県宇和島市に生まれます。 |
| 1945年 | 8月6日、広島で被爆します。倒壊した建物の下から救出された経験を経て、医師を志します。 |
| 1958年 | 鳥取大学医学部の教員となります。 |
| 1960年 | 海外医療協力への参加を志願します。 |
| 1962年 | 1月、JOCSからネパールへ派遣され、United Mission to Nepal(UMN)の活動に加わります。 |
| 1962~1980年 | タンセンをはじめ各地で、結核、ハンセン病、マラリア、赤痢などの治療と予防、巡回診療、公衆衛生に取り組みます。 |
| 1980年 | 3月にJOCSの派遣期間を終えて帰国し、神戸大学医学部の国際医療協力部門に加わります。 |
| 1981年 | PHD協会の公式年表では、6月に同協会を設立。第1回ロータリー国際理解賞を受賞します。 |
| 1985年 | 国際人材開発機構を設立。1985年から1987年には、タイのプライマリ・ヘルス・ケアを支援する日本政府チームを率います。 |
| 1993年 | ラモン・マグサイサイ賞の国際理解部門を受賞します。 |
| 1998年 | バクタプルに、岩村を記念した Dr. Iwamura Memorial Hospital が設立されます。 |
| 2001年 | 同病院が診療を開始します。 |
| 2005年 | 1月から地域住民が病院運営の主要な担い手となります。11月27日、岩村は78歳で亡くなります。 |
なぜ「ネパールの赤ひげ」と呼ばれたのか
「ネパールの赤ひげ」は、岩村の活動を日本語で伝える際に使われてきた呼び名です。国立国会図書館の書誌には、岩村自身の著書『ネパールの「赤ひげ」は語る』が1986年に岩波書店から刊行された記録があります。
この呼称は、山村へ出向き、医療へ届きにくい人々を診た姿を、日本で親しまれてきた「赤ひげ医師」のイメージに重ねたものです。ネパール政府の称号や全国共通の現地呼称としてではなく、日本語圏で定着した紹介名として扱うと正確です。
広島での被爆ひばくが医師への道を決めた
1945年8月6日、18歳の岩村は広島の工業系学校の実験室で被爆しました。ラモン・マグサイサイ賞財団の略歴では、爆心地から約1.2キロメートルの場所で建物が倒壊し、3日後に救出されたと記されています。同じ略歴は、80人の同級生の中で岩村だけが生き残ったと伝えています。
岩村は友人を失い、自分が生き残った意味を考え、人のために生きる医師を志しました。日本赤十字社愛媛県支部の教材にも、被爆と救出の経験が医師への決意につながったと記されています。原爆の開発と広島・長崎への投下までの背景は、マンハッタン計画と3つの秘密都市で詳しく解説しています。
鳥取大学医学部で医学を学び、1958年に同学部の教員となった後、1960年に海外医療協力への参加を志願しました。安定した大学での職を離れ、妻の史子とともにネパールへ向かいます。
1962年、医師の少ないネパールへ
JOCSの派遣実績によると、岩村の派遣期間は1962年1月から1980年3月です。受け入れ先はUMNおよびUMNタンセン病院と記録されています。JOCSの人物紹介では、1962年にUMN傘下のタンセン病院へ赴任したと説明されています。

当時のネパールでは、山地の多い地形、道路や交通手段の不足、医療施設までの距離、感染症、栄養不良、衛生環境が重なっていました。病院へ数日歩き、家族に背負われて到着する患者もいました。結核患者の多くは、病状が進んでから受診していました。
当時の医師数には資料差があります。 JOCSはネパール国内に約80人の医師がいたと説明し、日本赤十字社愛媛県支部の教材は約140人と記します。対象時点や集計範囲が異なる可能性があるため、単一の確定値とはせず、医師が極端に少なかった状況を示す記録として扱います。
岩村の派遣は、日本政府のODAや青年海外協力隊とは異なる民間団体による医療協力でした。戦後日本の政府協力とNGOの歩みは、日本のODA・NGO・国際協力の歴史で整理しています。
ネパールで岩村昇は何をしたのか
歩き、馬に乗り、患者のいる村へ向かった
遠隔地の患者が病院へ来るまでに重症化する現実を見た岩村は、健康な医師が患者のもとへ向かう方法を選びました。マグサイサイ賞財団の略歴は、徒歩や馬で山地へ入り、医療を受ける機会の乏しい村々を巡ったと記しています。
JOCSも、岩村が山を越えて村へ出向き、診察と結核健診を行ったと説明しています。診療所で患者を待つだけでなく、病気を早く見つける巡回診療へ活動を広げた点が、岩村の医療の特徴です。
携帯型X線装置で結核患者を探した
活動の中心にあったのが結核対策です。JOCSによると、当時のネパールでは結核を専門的に扱える医師が不足し、病院へ到着する患者の多くが重症でした。

Dr. Iwamura Memorial Hospital の公式サイトは、岩村が携帯型X線装置を運び、結核は治療できる病気だと伝えながら患者を診たと紹介しています。同サイトは、結核病院、パルパ・ミッション病院、国立結核センター、SAARC結核センターなど、胸部医療・結核対策の施設整備にも関わったと説明しています。

携帯型X線装置は、山村で結核を発見するための道具でした。岩村の仕事は診断だけにとどまらず、薬を続ける環境、栄養、衛生、家族と地域の協力を含む対策へ広がります。

病気と貧困の循環に向き合った
岩村は農村での経験から、病気と貧困が互いを悪化させる関係に注目しました。病気で働けなくなれば収入が減り、栄養や住環境が悪化し、治療の継続も難しくなります。その結果、病状がさらに進みます。
そこで、治療と結核健診に加え、公衆衛生、生活改善、地域保健、住民参加を組み合わせました。外部から物資や資金を渡すだけの支援より、地域の人が自ら担い続けられる仕組みとリーダーを育てる方法を重視するようになります。
3日間患者を背負った人から学んだ「みんなで生きる」
岩村の活動を象徴するのが、重症の女性を病院まで運んだ人との出会いです。山村で診察した女性には入院が必要でしたが、自力では歩けない状態でした。通りかかった人が女性を背負い、険しい道を3日間かけて病院まで運びました。
岩村が謝礼を渡そうとすると、その人は受け取らず、「みんなで生きるためですよ」と答えました。自分には体力があり、病気の女性には体力がないため、自分の持つ力を分けたという趣旨でした。
JOCSの紹介では荷物を運ぶ青年、日本赤十字社愛媛県支部の教材では塩を買いに行く農夫として描かれ、細部に違いがあります。3日間背負って運んだことと、「みんなで生きるため」という言葉が岩村の活動理念になった点は共通しています。この言葉はJOCSの会報名にも受け継がれました。
史子夫人と12人のネパール人孤児
岩村のネパールでの活動は、妻の史子とともに続けられました。ラモン・マグサイサイ賞財団と日本赤十字社愛媛県支部の資料は、夫妻が12人のネパール人孤児を育て、教育したと伝えています。
日本赤十字社愛媛県支部の教材では、結核で親を失った子どもたちを夫妻が家族として育てたと説明されています。岩村の活動は診療の時間だけで完結せず、病気によって生活基盤を失った子どもたちへの支援にも及びました。
なぜ現地に岩村昇の病院名が残ったのか
ネパール・バクタプルにある Dr. Iwamura Memorial Hospital は、岩村の功績を記念して名づけられた病院です。病院公式サイトによると、1998年に設立され、2001年に診療を開始しました。

2005年1月からは、地域住民が主要な利害関係者として運営に参加し、病院経営を引き継ぎました。現在もバクタプルで地域向けの医療を提供しています。岩村の名は記念碑だけでなく、診療を続ける施設の名称として残りました。
岩村本人がこの病院を設立したのか
病院公式サイトは「岩村を記念して1998年に設立」と説明しています。岩村が1960年代から勤務した病院をそのまま改称した施設ではなく、長年の結核対策と地域医療への貢献を顕彰するために設けられた病院です。
「18年間」と「22年以上」はどちらが正しいのか
JOCSの派遣実績は1962年1月から1980年3月で、正式な派遣期間は約18年です。JOCSとラモン・マグサイサイ賞財団も18年間と説明しています。
一方、病院公式サイトには、バクタプルを含むネパール各地で22年以上活動したとの記載があります。同サイトには22年の起点と終点の内訳がないため、本記事では年月が明記されたJOCSの派遣記録を基本とし、病院側がより広い関与期間を数えている可能性を資料差として示します。
帰国後は「治療する人」から「地域を担う人を育てる人」へ
1980年に帰国した岩村は、神戸大学医学部の国際医療協力部門に加わりました。ネパールで得た経験から、外部の専門家が一時的に活動するだけでなく、地域の人が課題を解決し続けるための人材育成へ重点を移します。
PHD協会の公式サイトによると、岩村は「物」「金」中心の一時的援助を越えた草の根の人材交流・育成を提唱し、1981年6月に同協会を設立しました。PHDは Peace(平和)、Health(健康)、Human Development(人材育成)を表します。アジア・南太平洋地域から研修生を日本へ招き、農業、保健衛生、地域づくりを学ぶ機会を設けました。
ラモン・マグサイサイ賞財団の略歴はPHDの創設年を1980年と記していますが、団体自身の公式年表は1981年6月を設立時期としています。本記事の年表ではPHD協会の公式記録を採用しました。
1985年には国際人材開発機構を設立し、ネパール、タイ、日本、フィリピンなどの若者が、フィリピン大学のディリマン校やロスバニョス校などで地域開発を学ぶ機会を支えました。1985年から1987年には、タイのプライマリ・ヘルス・ケアを支援する日本政府チームも率いました。
ラモン・マグサイサイ賞が評価したもの
1993年、岩村はラモン・マグサイサイ賞の国際理解部門を受賞しました。同賞の財団は、岩村を医師、生物学者、医学教授として紹介し、日本のアジアの隣人に生涯を通じて奉仕した点を評価しています。
評価の対象には、ネパールで患者を診た実績に加え、地域に根ざした活動も含まれます。農村の文化を学び、結核対策を地域の活動へ広げ、病気と貧困の循環を捉え、人材育成へ進んだ一連の仕事が含まれます。
岩村は受賞講演で、生活条件を改善するには自立した地域づくりと、地域に根ざした指導者が必要だと述べました。賞金は国際人材開発機構の活動へ寄付する意向を示しています。
岩村昇の活動は何が画期的だったのか
患者を待つ医療から、患者のいる場所へ向かう医療へ変えた
道路も医療施設も少ない地域で、病院中心の仕組みだけでは、早期治療につながりにくい状況でした。岩村は徒歩、馬、携帯型X線装置を使い、山村での発見と診療を進めました。
感染症を生活条件と結びつけた
結核を薬だけの問題として扱わず、栄養、衛生、収入、住環境、治療継続を含む地域の問題として捉えました。これは治療から公衆衛生、生活改善へ活動が広がった理由です。
支援の中心を地域の人へ移した
ネパールでの経験を踏まえ、帰国後は草の根リーダーの育成に力を注ぎました。病院も2005年から地域住民が主要な担い手となり、地域で運営を続けています。
一人の英雄ではなく、協力の仕組みを残した
岩村の活動には、史子夫人、現地の患者と家族、村の住民、ネパール人医療者、UMN、JOCS、日本側の支援者、研修生が関わりました。岩村の功績は、多くの人の協力を医療と人材育成の仕組みへつないだ点にあります。
海外で感謝を受け継がれる日本人医師としては、ベトナム独立運動家ファン・ボイ・チャウを支えた浅羽佐喜太郎もいます。浅羽が個人への支援で記憶されたのに対し、岩村は地域医療と人材育成の仕組みを残した点に特徴があります。
よくある質問
「ネパールの赤ひげ」は現地の公式称号ですか?
日本語圏で岩村の活動を紹介する呼び名です。1986年には岩村自身の著書『ネパールの「赤ひげ」は語る』が刊行され、日本で広く知られる表現になりました。
岩村昇はネパールで何年間活動したのですか?
JOCSの正式な派遣記録は1962年1月から1980年3月で、約18年間です。現地病院は22年以上と紹介しており、数え方に資料差があります。
Dr. Iwamura Memorial Hospital は岩村が建てた病院ですか?
病院公式サイトは、岩村を記念して1998年に設立され、2001年に診療を始めたと説明しています。岩村の功績を顕彰して名前を付けた病院です。
岩村昇一人がネパールの結核対策を作ったのですか?
現地の医療者、住民、行政・医療施設、UMN、JOCSなど、多くの関係者との協力で進められました。岩村は巡回診療、公衆衛生、人材育成を結びつける役割を担いました。
岩村昇の活動を象徴する言葉は何ですか?
「みんなで生きるため」です。重症患者を3日間背負って運んだ地域の人との出会いから、持っている力を分かち合う考えを学び、活動の中心に据えました。
まとめ
岩村昇は、広島での被爆を経て医師となり、1962年から約18年間ネパールで結核対策、巡回診療、公衆衛生に取り組みました。徒歩や馬で山村へ入り、携帯型X線装置で患者を探し、治療を生活改善と地域参加へ広げました。帰国後はPHD協会と国際人材開発機構を通じて人材育成を進め、1993年にラモン・マグサイサイ賞を受賞しました。バクタプルでは、岩村を記念した病院が現在も地域医療を担っています。
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