日本百観音とは?西国33・坂東33・秩父34の成立とお砂踏みの歴史

西国三十三所第一番・青岸渡寺の三重塔と那智の滝

和歌山の那智山、鎌倉の古寺、秩父の山あいの札所。離れた土地にある三つの観音巡礼を合わせたものが「日本百観音」です。西国三十三所、坂東三十三観音、秩父三十四観音の計100寺院を巡り、観音菩薩を礼拝します。秩父だけが34札所なのは、中世に成立した巡礼が16世紀に姿を変えたためです。各寺院の砂を集めて礼拝する「お砂踏み」には、遠く離れた霊場を身近にする信仰が息づいています。

日本百観音とは何か

日本百観音は、西国三十三所(33札所)・坂東三十三観音(33札所)・秩父三十四観音(34札所)の総称です。いずれも観音菩薩を本尊とする寺院を巡る霊場で、近畿から関東にかけて広がっています。

巡礼札所数地域第一番/最後の札所
西国三十三所33近畿を中心に和歌山から岐阜まで青岸渡寺/華厳寺
坂東三十三観音33関東7都県杉本寺/那古寺
秩父三十四観音34埼玉県秩父地方四萬部寺/水潜寺

「札所(ふだしょ)」は巡礼者が参拝する寺院を指します。かつて参詣のしるしに札を納めた習慣が、その名称に結びついています。観音への礼拝を目的とする巡礼では、寺ごとに異なる本尊、境内の風景、地域の歴史にも触れられます。

なぜ三十三所なのか――観音経と三十三身

観世音菩薩かんぜおんぼさつは、苦しむ人々の声を聞いて救うと信じられる菩薩です。『法華経ほけきょう』第25章「観世音菩薩普門品かんぜおんぼさつふもんぼん」は、独立して「観音経」とも呼ばれます。経典では、観音が救済の相手に応じてさまざまな姿を現すと説かれ、その「三十三身」の教えが三十三所という札所数の由来になりました。

西国三十三所の本尊に祀られる観音像は、聖観音しょうかんのん、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音じゅんていかんのん、不空羂索観音ふくうけんじゃくかんのんの七種類に大別されます。

千手観音の多くの手はさまざまな救済の働きを象徴し、十一面観音の頭上の顔は多方面を見渡して人々を救う姿を表します。

西国三十三所――平安時代に形を整えた観音巡礼

西国三十三所は、和歌山・大阪・奈良・京都・兵庫・滋賀・岐阜の2府5県に広がります。第一番は熊野の那智山にある青岸渡寺せいがんとじ、第三十三番は岐阜県の華厳寺けごんじです。京都の清水寺、奈良の長谷寺、滋賀の石山寺など、日本の寺院文化を代表する場所も札所に含まれます。

開創伝承では、718年(養老2年)に徳道上人とくどうしょうにんが閻魔大王から33の宝印を授かり、観音霊場を開いたと語られます。平安時代の花山法皇かざんほうおうが巡礼を再興したという物語も伝わっています。

巡礼が実際に広域の道として形を整えたのは平安時代後期です。12世紀には参詣を記録した文献が現れ、1161年には僧・覚忠が三十三所を巡った記録が残ります。修行僧や修験者しゅげんじゃを中心とした参詣は、武士や一般の人々へ広がりました。2019年には「1300年つづく日本の終活の旅~西国三十三所観音巡礼~」として日本遺産に認定されています。

坂東三十三観音――鎌倉時代の関東に広がった巡礼

坂東三十三観音は、神奈川・東京・埼玉・群馬・栃木・茨城・千葉の7都県にまたがります。第一番は鎌倉の杉本寺すぎもとでら、第三十三番は千葉県館山市の那古寺なごじです。東京の浅草寺も第十三番に数えられます。

坂東三十三観音第一番・鎌倉の杉本寺本堂
坂東三十三観音第一番・杉本寺の本堂(神奈川県鎌倉市)。写真:Tarourashima/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

鎌倉幕府の成立後、関東の寺院を結ぶ道を巡る動きが広がりました。1234年(天福2年)に彫られた観音像の台座には、僧・成弁が坂東の三十三所を巡礼し、常陸の八溝山で修行したことが記されています。この墨書銘は、遅くとも13世紀前半に坂東巡礼が行われていたことを伝える史料です。

坂東札所は広い関東に分布するため、山寺、港町、古い街道沿いの寺院が一つの巡礼で結ばれます。浅草寺の参詣と門前の発展については、浅草の通り・商店街の歴史にも詳しい記録があります。

秩父三十四観音――なぜ秩父だけ34札所なのか

埼玉県秩父地方にある秩父札所は、秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町に分布し、一巡約100kmです。山あいの集落に寺院が点在し、徒歩で巡る道にも地域の信仰が残っています。

秩父巡礼には1234年(文暦元年)に十三権者が開いたという伝承があります。歴史を確かめられる重要な資料の一つが、第三十二番法性寺ほうしょうじに伝わる1488年(長享2年)の札所番付です。当時の札所は33寺院で、現在と順番も異なっていました。

16世紀には札所が34となり、西国33・坂東33と合わせて100札所になりました。第三十番法雲寺ほううんじに残る1536年(天文5年)の納札には「西国坂東秩父百ヶ所」という文字があり、当時すでに三つの巡礼を結ぶ百観音参詣が行われていたことが分かります。

その後、江戸方面からの巡礼者の利用を背景に札所の順路も組み替えられました。現在は第一番の四萬部寺しまぶじから第三十四番の水潜寺すいせんじへ向かう道が整っています。最初の33札所から一寺を加えた変化が、日本百観音という百ヶ所の巡礼を生みました。

巡礼を支えた人々と江戸時代の旅

中世の観音巡礼は僧侶や修験者による修行と深く結びついていました。やがて武士や町人、村の人々が参拝するようになり、江戸時代には道中案内や札所の縁起を記した出版物が旅を支えました。

秩父札所は江戸から比較的近く、関所を越えずに訪れやすい霊場として人気を集めました。坂東第九番の慈光寺じこうじから秩父へ入り、第一番四萬部寺へ至る道筋も巡礼路として整えられました。信仰の旅は、宿泊、道案内、門前の商いなど地域の暮らしとも結びつきました。

巡礼を始めることを「発願ほつがん」、すべての札所を巡り終えることを「結願けちがん」と呼びます。寺院で経を納め、参拝の証しとして受ける朱印を集めた納経帳のうきょうちょうも、巡礼者の歩みを伝える品です。

お砂踏みとは――百の札所を一か所で礼拝する信仰

「お砂踏み」は、各札所から集めた砂を一定の順序で納め、砂の上を踏みながら本尊を礼拝する参拝方法です。寺院の砂をそれぞれの霊場の象徴として扱い、遠くの寺を巡ったのと同じ功徳にあずかると信じられています。「功徳」は、仏教で善い行為や信仰によって得られる宗教的な恵みを意味します。

砂を袋や床下に納めるもの、仏像や掛け軸を並べるもの、レリーフを設置するものなど、形式はさまざまです。巡礼の道を歩くための時間や費用を確保しにくい人々にも、札所の本尊を礼拝する機会が開かれました。江戸時代には、四国八十八ヶ所を模した「新四国」などの写し霊場やお砂踏み道場も各地に造られました。

日本百観音のお砂踏みが残る寺院

水潜寺――日本百観音の結願寺

秩父第三十四番の水潜寺は、日本百観音の結願寺と伝えられます。観音堂の前には100札所のお砂を納めたお砂踏みがあり、ここで礼拝すると百観音巡礼の功徳を得られると信仰されています。

秩父三十四観音第三十四番・水潜寺にある千手観音と三十三観音の石仏
秩父三十四観音第三十四番・水潜寺の千手観音と三十三観音の石仏。撮影:tak1701d/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0、縮小のみ)。

本尊の千手観世音菩薩に加え、西国を象徴する阿弥陀如来と坂東を象徴する薬師如来も祀られています。巡礼を終えた人々の金剛杖や菅笠、納札も伝わり、かつては「水くぐり」の岩屋で身を清める習わしがありました。岩屋は現在非公開です。

川崎大師――100体の観音レリーフとお砂

神奈川県川崎市の川崎大師には、2017年に建立された「日本百観音霊場お砂踏み参拝所」があります。西国・坂東・秩父の各札所から受けた砂を埋納し、100寺院の観音像を表すレリーフを祀っています。寺院境内に恒常的な参拝所を設けた例です。

日本百観音と四国八十八ヶ所の違い

日本百観音は観音菩薩への信仰を中心とする100札所の巡礼です。一方、四国八十八ヶ所は弘法大師・空海への信仰と結びついた四国4県の88札所を巡る「お遍路」として知られます。どちらにもお砂踏みがありますが、参拝の対象となる霊場と歴史的背景が異なります。

項目日本百観音四国八十八ヶ所
札所数10088
主な地域西国・関東・秩父四国4県
信仰の中心観音菩薩弘法大師信仰
巡礼の呼び名観音巡礼遍路・お遍路
四国八十八ヶ所霊場のお砂踏み巡礼所の様子
四国八十八ヶ所霊場のお砂踏み巡礼所。日本百観音とは別の霊場体系におけるお砂踏みの一例。撮影:Souka Kinmei/Wikimedia Commons(CC BY 4.0)。

四国遍路のお砂踏みは、各札所の砂を持ち帰り、札所に見立てて礼拝する方法として伝えられてきました。日本百観音でも同様に、各札所の砂を通して離れた霊場に祈りを届ける信仰が受け継がれています。

参考資料