ハノイ旧市街の東端、ハンチウ通り(Hàng Chiếu)の先に立つオークアンチュオン(Ô Quan Chưởng)は、タンロンの都市外郭に設けられた城門の系譜を今に伝える遺構です。門の額には「東河門(Đông Hà Môn)」の三字が残り、現在の呼び名より古い地名と機能を伝えています。
この門を見るときは、タンロン皇城の城門、旧市街の商業空間、紅河の水運を分けて考えると位置づけが明確になります。東河門は皇城の外側に広がる市街と外部をつなぐ外郭の門でした。1749年、1804年、1817年という複数の年代、1873年のフランス軍侵攻と「Quan Chưởng」の呼称、植民地期の撤去計画と保存の経緯をたどると、城門が防御施設から都市の記憶へ変わった過程を読み取れます。
オークアンチュオンの現在地と概要
オークアンチュオンは、現在のハノイ市ホアンキエム街区(phường Hoàn Kiếm)にあり、ハンチウ通り、ダオズイトゥ通り(Đào Duy Từ)、旧市街東縁の道路が交わる場所に立っています。2025年の行政再編以前の案内ではドンスアン坊・ホアンキエム区(phường Đồng Xuân, quận Hoàn Kiếm)と記されていました。
現在のハノイで、旧タンロン外郭の「cửa ô」として建築形態をまとまって残す現存例が東河門です。阮朝ハノイ城の北門(Cửa Bắc)や端門(Đoan Môn)は別系統の城門で、「最後の城門」という表現を使う場合は対象となる城郭を区別する必要があります。
現存する門は中央の大きなアーチと左右の小アーチからなる三門構成で、中央上部に四面屋根の望楼を載せます。ハノイ旧市街・ホアンキエム湖管理関係機関の解説では、門全体は幅20メートル余り、厚さ約7メートル、中央門は高さ・幅とも約3メートル、左右の小門は幅約1.65メートル、高さ約2.5メートルとされています。煉瓦と石を組み合わせた壁体の上に望楼を置く姿は、阮朝期の城門建築に近い形式です。
皇城門と区別する理由――都市外郭の門
タンロンには、王宮を囲む皇城、王族の生活空間に近い禁城、さらに住民の市街を含む外側の防御線が重なっていました。現在の世界遺産「タンロン皇城中心区域」で見られる端門や北門は、政治中枢側の門です。オークアンチュオンはそれらと位置も役割も異なり、旧市街を含む都市域の外縁を通過する門でした。
18世紀には、タンロン周辺で反乱や軍事的緊張が続きました。1749年、鄭主の鄭楹(Trịnh Doanh)は都の外周に土塁を築き、門を設けて守備を強化しました。国立公文書関係機関の解説は、この外郭を河川や堤防の地形も利用した土の防御線として説明しています。東河門も、この外郭防御と市街への出入りを管理する門の一つに位置づけられます。

タンロンの外郭と城門は何を守っていたのか
「ハノイには五つの城門があった」というイメージは20世紀の歌や都市記憶から広く定着しましたが、史料上の門数は時代ごとに変化します。『北城輿地志(Bắc thành dư địa chí)』は19世紀初頭のハノイに21の「 cửa ô 」があったと記し、1831年の地図では16門、1866年の地図では15門が確認されています。門の名称も周辺の村、坊、道路の変化に応じて改称されました。
東側に門が多かった理由には紅河があります。近代以前のタンロンでは大量の物資が水路で運ばれ、河岸の船着場から市街へ入りました。紅河沿いには荷揚げ、倉庫、商店、職人集住地が連なり、その内側に市場と「36 phố phường」と呼ばれる旧市街の商業空間が発達しました。外郭の門は軍事的な通過点であると同時に、人、荷、船、税、治安を管理する都市インフラでもありました。
門数の違いには、外郭の改修、村落名の変更、門の新設・廃止、史料が「門」と「ô」をどう区分したかが重なっています。1749年の外郭整備を記す史料には主要な8門という記述がある一方、19世紀の地誌には21の「ô」が現れます。数だけを比較して「増えた」「減った」と単純化せず、地図ごとに位置と名称を照合する必要があります。
| 時期・史料 | 城門・外郭の記録 | 読み方 |
|---|---|---|
| 1749年 | 鄭楹が外郭の土塁を整備し、主要な門を設置 | 東河門の起源を置く基準年 |
| 19世紀初頭 | 『北城輿地志』に21の「cửa ô」 | 都市外郭の出入口が多数存在 |
| 1831年 | 「Tòa thành Hà Nội」地図に16門 | 阮朝期の再編後の配置 |
| 1866年 | 「Tỉnh thành Hà Nội」地図に15門 | Nhân Hòa門が消え、名称変更も進む |
| 1873年 | 15門を示す地図資料 | フランス軍侵攻直前後の都市像 |
東河門(Ô Đông Hà)という旧称
門の正面に残る「東河門」の三字は、この遺構の歴史的な呼称を示します。東河(Đông Hà)は旧市街東側の坊名で、紅河へ近い地域でした。門は東河坊の外へ抜ける位置にあったため「東河門」、口語では「Ô Đông Hà」と呼ばれました。
古い文献や案内には「Thanh Hà」と結びつけた呼称も現れます。周辺にはタインハー村(thôn Thanh Hà)があり、村の共同施設である亭も門の近くにありました。1855年の碑文は、19世紀初頭の道路整備に伴ってタインハー亭が移転した経緯を伝えています。東河は広い地区名、Thanh Hàは門周辺の集落名として重なるため、史料で名称が揺れる背景には地域単位の違いがあります。
1749年・1804年・1817年――建設年代をどう整理するか
オークアンチュオンの年代には複数の説明があります。1749年は鄭楹がタンロン外郭の土塁と門を整備した年で、東河門の成立をこの年に置く資料が多くあります。1785年の大修理を挙げる資料もあります。
阮朝成立後の1804年には門が再建され、現在見られる望楼型の構成はこの工事を基礎とするという説明が、ホアンキエム旧市街の公式観光解説とベトナム国家観光局の案内にあります。1817年にも東河門周辺で道路拡幅と改修が行われ、隣接していたタインハー亭が移転しました。研究者の中には、この1817年工事を現存門の主要な建設時期とみる立場もあります。
年代を一つに固定すると、外郭の成立、門の再建、周辺道路の改修が混ざります。1749年は外郭と門の起源、1804年は現存建築の主要な再建、1817年は門周辺を含む再整備として区別すると、史料の違いを整理しやすくなります。現在の建物を「1749年の姿がそのまま残ったもの」とみなすより、18世紀の門を基礎に阮朝期の改修を重ねた遺構と捉える方が資料に合います。
| 年 | 東河門・周辺の出来事 |
|---|---|
| 1749年 | タンロン外郭の土塁と門が整備され、東河門の起源がこの時期に置かれる |
| 1785年 | 大規模な修理を行ったとする記録 |
| 1804年 | 阮朝下で再建。現存する望楼型の基本構成に結びつく |
| 1817年 | 道路・門周辺を再整備し、タインハー亭が移転 |
| 1873年 | フランス軍の第一次ハノイ攻撃。「Quan Chưởng」の戦死伝承と結びつく |
| 1881年 | ホアン・ジエウらによる「申禁除弊」碑が設置される |
| 1902年 | 損傷を受けた門をハノイ市会が修理 |
| 1906年 | EFEOの働きかけを経て歴史的建造物の指定対象となる |
| 1994年 | 国家級史跡に認定 |
| 2009~2010年 | 米国大使基金の支援を受けた保存修復事業 |
「Quan Chưởng」の名は誰に由来するのか
東河門が「Ô Quan Chưởng」と呼ばれる理由には少なくとも三つの説があります。第一は、黎朝末期に「Chưởng ấn」と呼ばれる官人が門近くに住んだという説。第二は、阮朝期に門の通行や船舶を監督する「Chưởng cơ」が駐在したという説。第三は、1873年のフランス軍によるハノイ攻撃で、Chưởng cơ級の指揮官と兵士たちが東河門付近で戦死し、その記憶から呼称が定着したという説です。
現在の公的観光案内や公文書紹介では第三の説がよく採られ、約100人の兵士とともに戦った指揮官の逸話が紹介されています。一方、その指揮官の姓名を確定できる同時代史料は一般公開資料の範囲では確認が難しく、ハノイ研究者も複数説を併記してきました。1873年説は地域の記憶として重要ですが、人物の実名と戦闘経過まで確定した伝記的事実として扱うには史料上の余地が残ります。
フランス側はこの門を「Porte Jean Dupuis」とも呼びました。ジャン・デュピュイは紅河交易をめぐって阮朝側と衝突し、1873年のフランス軍介入の直接的な緊張を生んだ商人です。植民地期の資料に「Porte Jean Dupuis」と「cửa Quan Chưởng」に当たる呼称が併記されることから、20世紀初頭までに地元で「Quan Chưởng」が広く定着していたことは確かです。
1873年・1882年のハノイ攻防と東河門周辺
1873年11月20日、フランシス・ガルニエ率いるフランス軍はハノイ城を攻撃しました。背景にはジャン・デュピュイの紅河交易問題と、フランス側が北部で通商・軍事的影響力を拡大しようとした動きがあります。阮朝側では阮知方(Nguyễn Tri Phương)が守備を指揮しましたが、城は占領されました。
東河門は紅河側から市街へ入る経路にあり、河岸と旧市街を結ぶ門として軍事上も重要でした。「Quan Chưởng」の1873年戦死伝承は、この東側の防御戦と結びついています。門そのものはハノイ城の城壁から離れているため、ガルニエ軍が攻撃した阮朝ハノイ城の門と同一視すると地理関係が崩れます。戦闘の主舞台となった城郭中枢と、東側市街の外郭門を分けて見る必要があります。
1882年にはアンリ・リヴィエール率いるフランス軍が再びハノイ城を攻撃し、総督ホアン・ジエウ(Hoàng Diệu)が防衛を指揮しました。この一連の戦闘と占領後、ハノイの政治中枢はフランスの軍事・行政空間へ段階的に組み替えられます。皇城・阮朝ハノイ城側の変化はタンロン皇城の歴史と発掘で詳しく整理しています。
フランス植民地化と市壁の撤去
19世紀末のハノイでは、軍事占領と並行して道路、官庁、兵営、上下水道、街路樹、商業街の整備が進みました。旧来の土塁や門は交通を妨げる構造物とみなされ、多くが撤去されました。阮朝ハノイ城の城壁も1890年代に大規模な解体が進み、城郭都市の輪郭は近代的な街路へ置き換わっていきます。
東河門周辺でも街路改造が進みました。ハンチウ通りは河岸から運ばれた筵や敷物の商業と結びつき、植民地期には道路の直線化や舗装、建物の整列が進められました。門の外側と内側を隔てていた外郭線は都市景観の中へ溶け、東河門だけが通路として残りました。植民地都市化の全体像はフランス植民地時代のベトナムでも扱っています。
なぜオークアンチュオンは残ったのか
残存には、修理と保存制度が大きく作用しました。国立公文書関係資料によると、門は1902年に損傷が問題となり、ハノイ市会の決定で修理されました。その後も撤去案が浮上し、1905年には商業上の利便を理由に解体を支持する意見がありました。
フランス極東学院(École française d’Extrême-Orient、EFEO)は保存を働きかけ、1906年11月24日の法令で「Porte Jean Dupuis」としてハノイの歴史的建造物群に含められました。EFEOの年報にも、同年のトンキン古跡委員会の検討を経て、文廟、白馬祠などとともに指定された記録があります。都市改造の利便性と文化財保存の論理が衝突した結果、この門は解体を免れました。
独立後も保存対象となり、1994年9月5日に国家級史跡として認定されています。2009年には米国大使基金による保存事業が進められ、約7万4500ドルの支援で補修が行われました。2010年のタンロン建都1000年に向けた保存事業の一環で、煉瓦・モルタル・屋根などの修復が実施されました。
建築構造と「東河門」の額、1881年の碑
現地で最初に見るべき部分は三つのアーチです。中央門は荷車や人の主要動線、左右の小門は補助的な通行路として機能しました。上部の望楼は周囲を監視するための空間で、欄干には六角形や四角形、花形を組み合わせた透かし装飾が見られます。
東面の中央上部には「東河門」の三字があります。現在の通称より、門が地理的な出入口として呼ばれていた時代の名称が建築に残った部分です。煉瓦の色、石材、補修痕、壁面の厚みを近くで見ると、記念碑としての姿に加え、荷と人が通過した実用施設の痕跡も読み取れます。
壁面には1881年の「申禁除弊(Thân cấm khư tệ)」碑があります。ホアンキエム旧市街の公式解説によると、当時のハノイ総督ホアン・ジエウと巡撫ホアン・フウ・スン(Hoàng Hữu Xứng)が、門の管理に関わる役人や地域役職者による住民への不当な負担や妨害を禁じた内容です。商売、河川交通、冠婚葬祭などで門を通る住民と行政との緊張が石碑に刻まれています。
紅河・船着場・36通りをつないだ門
東河門の位置を理解する鍵は、門から紅河までの距離です。19世紀の記述では、門から当時の河岸まで約80メートルとされます。現在は堤防道路や市街地の変化で水辺が遠く見えますが、かつては門を抜けると河岸と船着場が近く、商品はそこからハンチウ、ハンブオム、ドンスアン周辺へ流れました。
ハンチウ(「筵の通り」)という街路名も物流の記憶を残します。ニンビン、タイビン、ナムディンなどから川を通じて運ばれた筵や農産物が市街へ入り、同業者ごとに商いが集積しました。「36 phố phường」は実際の街路数を固定的に表す言葉より、職人・商人の街区が密集した旧市街を象徴する呼称として理解すると現地の景観に合います。「36」という数とphường・phốの歴史的な違いは、ハノイ旧市街36通りの歴史で詳しく整理しています。
ハノイの都市史を広い時間軸で追う場合は、コーロアからタンロンへ|遺跡でたどるハノイ2200年の歴史へ戻ると、古代王城、1010年の遷都、皇城、旧市街、植民地都市、20世紀の軍事中枢までをつなげて確認できます。
現地で見るべきポイント
- 東側の正面:中央アーチ上の「東河門」を確認します。紅河側から市街へ入る向きと重ねると門の性格が分かります。
- 三つのアーチ:中央門と左右の小門の寸法差、壁の厚み、通路の曲面を見ます。
- 望楼と欄干:阮朝期の再建・改修を反映する外観を観察します。
- 1881年碑:城門が治安に加えて商業・通行行政を担ったことを伝える史料です。
- ハンチウ通りの軸:門から西へ旧市街を見通し、河岸から商業街へ商品が入った動線を想像します。
- 周辺の道幅と建物線:植民地期の道路整備と、門だけが残った景観の差を見比べます。
旧市街散歩に組み込むルート
歩き始めはオークアンチュオンが向いています。東側から門をくぐり、ハンチウ通りを西へ進むと、かつて河岸から旧市街へ入る動線を追えます。続いてドンスアン市場へ向かい、ハンドゥオン、ハンガン、ハンダオを南へ歩けば、商品の種類や同業者集住と結びついた街路名が連続します。
時間に余裕があれば、旧市街の守護寺院として知られる白馬祠、ハンブオム周辺を経てホアンキエム湖へ抜けます。そこから西へ足を延ばしてタンロン皇城へ向かうと、商業都市の外郭門と政治・軍事中枢の城門を同じ日に比較できます。
門は道路空間に接しており、見学時は車両と歩行者の流れを優先します。公的な観光情報では入場料無料と案内されています。営業時間の表記は案内媒体で差があるため、望楼や管理区画への立入りは現地掲示と管理者の案内を確認してください。
まとめ
オークアンチュオンは、王宮中枢を囲む皇城門とは別系統の、タンロン市街外郭に設けられた東河門です。18世紀の外郭整備、阮朝期の再建・改修、紅河水運と旧市街商業、1873年の戦闘記憶、植民地期の都市改造と保存運動が一つの場所に重なっています。門を見た後にハンチウ通りを西へ歩くと、城壁の外と内、河岸と市場、軍事と商業を結んだ都市の動線を現在の街路で追えます。
参考文献・参考サイト
- Trung tâm Lưu trữ quốc gia I「Câu chuyện cửa ô xưa」
- Trung tâm Lưu trữ quốc gia I「Ô Quan Chưởng – Biểu tượng kiến trúc và kháng chiến…」
- Ban quản lý khu phố cổ Hà Nội / Hoàn Kiếm 360「Cổng Ô Quan Chưởng」
- Cục Du lịch Quốc gia Việt Nam「Cửa ô Quan Chưởng」
- Bảo tàng Lịch sử Quốc gia「Phố phường Hà Nội xưa qua các nguồn tư liệu phương Tây」
- École française d’Extrême-Orient, Rapport d’activité 2016-2017
- Nhân Dân「Cửa ô Hà Nội qua những chặng đường lịch sử」
- Sở Văn hóa và Thể thao Hà Nội「Hà Nội tổ chức Lễ mở cửa ô… năm 2026」

