ヒルトンの歴史を徹底解説|創業、世界恐慌、260億ドル買収から再上場まで

ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルの歴史的な正面入口

2007年10月24日、世界的ホテルチェーンのヒルトンは株式市場から姿を消しました。米投資会社ブラックストーン傘下のファンドが約260億ドルで買収し、非上場化したのです。ところが翌2008年、世界金融危機がホテル需要を直撃します。巨額の借入金を伴う買収は苦境に陥りました。そこから負債を整理し、世界の客室網を広げ、2013年に再上場。ブラックストーンが2018年に投資を終えた時、実現利益は約140億ドルに達していました。

この企業には、さらに長い物語があります。1919年、米テキサス州で銀行を買おうとしていた一人の青年が、偶然40室のホテルを手にしました。1931年には世界恐慌で破産寸前となり、戦後にはニューヨークの名門ホテルを次々に取得します。二つの経済危機と幾度もの経営権の変化を経て、ヒルトンは不動産を大量に所有する会社から、世界各地のホテルにブランドと運営の仕組みを提供する会社へ変わっていきました。

1919年|銀行を買うはずだった青年がホテルを手にする

コンラッド・ニコルソン・ヒルトンは1887年、ニューメキシコ準州で生まれました。家業の商売を手伝い、第一次世界大戦では軍務に就いています。戦後に向かったのは、石油産業で活気づいていたテキサス州シスコでした。目的は銀行の買収です。しかし売り手が価格を引き上げたため、交渉は決裂しました。

滞在先を探したヒルトンが目にしたのは、油田労働者であふれるモブレー・ホテルでした。40室の客室を8時間交代で貸し出し、同じ部屋を一日に複数の客が使うほど需要が旺盛でした。建物の持ち主から売却の話を聞き、ヒルトンは銀行の代わりにホテルを購入します。32歳の時でした。最初のホテルはヒルトンの名を冠しておらず、地元の小規模な宿泊施設でした。

テキサス州シスコのモブレー・ホテル。二階建てのレンガ造りの建物
1919年にコンラッド・ヒルトンが取得したモブレー・ホテル。写真は2010年撮影。Billy Hathorn / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。

買収後、ヒルトンは客室の使い方を見直し、需要の高い地域でホテルを増やしました。中古ホテルの賃借や改修から始め、新築へと進みます。1925年にはダラスに、初めて「ヒルトン」の名を掲げるホテルを開業しました。夏の西日が客室に直接当たらないよう、建物の西側にエレベーターなどの設備を集めた設計にも、宿泊客への配慮が表れています。

1929〜1934年|世界恐慌で最初のホテル帝国が揺らぐ

1920年代のアメリカでは、自動車交通の発達と企業活動の拡大を背景に、都市の宿泊需要が増えていました。ヒルトンは1925年から1930年まで毎年テキサス州にホテルを開き、世界恐慌が始まる頃には8軒を所有していました。新しいホテルを建てるには土地、建物、設備に多額の資金が必要です。成長を支えた拡大投資は、景気の急変に弱い側面も抱えていました。

1929年の株価暴落から始まった世界恐慌は、銀行、企業、消費者の活動を萎縮させます。出張と観光の需要が落ち込み、ホテル収入は減りました。一方、建設や取得のために負った支払いは残ります。1931年、ヒルトンは破産寸前まで追い込まれました。1933年にはエルパソのホテルを閉鎖しています。

救いとなったのは、テキサス州ガルベストンのムーディー家のシェアンとウィリアム・L・ムーディー・ジュニアら投資家の支援でした。ヒルトンは保有ホテルをムーディー家の事業と統合し、ナショナル・ホテル・カンパニーの共同所有者兼経営者になります。その統合は長続きせず、1934年には5軒のホテルをもとに独立経営を再開しました。急拡大したホテル群は大きく縮小しましたが、経営の足場は残りました。

世界恐慌から立ち直ったヒルトンは、1938年にサンフランシスコのサー・フランシス・ドレイク・ホテルを取得し、テキサス州外へ進出します。新築に固執せず、既存ホテルを買い、再生させる手法が全国展開につながりました。

1940〜1950年代|全米の名門ホテルを手に入れる

第二次世界大戦期の1943年、ヒルトンはニューヨークのルーズベルトとプラザという二つのホテルを取得し、アメリカ東西を結ぶホテルチェーンになりました。1946年にはヒルトン・ホテルズ・コーポレーションを法人化し、ニューヨーク証券取引所に株式を上場させました。創業から約四半世紀で、地方のホテル経営者は公開企業を率いる経営者になったのです。

1948年には複数のホテルをまとめて予約できるシステムを導入しました。それまでは個々のホテルへの問い合わせが中心でしたが、予約情報をつなげれば旅行者は都市を移動しながら宿泊先を手配できます。翌1949年にはカリブ海のプエルトリコでカリブ・ヒルトンを開業し、海外へ進出しました。同じ年、コンラッド・ヒルトンはニューヨークの名門ウォルドーフ・アストリアを取得します。

ウォルドーフ・アストリアは政財界人や著名人を迎える高級ホテルとして知られ、その取得はヒルトンという名前に強い象徴性を与えました。1954年にはスタットラー系列のホテル群を約1億1,100万ドルで買収。当時の米国で最大級の不動産取引でした。規模の拡大は競争当局の関心も呼び、司法省による独占禁止法上の訴訟へ発展しました。

旧スティーブンス・ホテルとして知られるシカゴ・ヒルトンの外観
シカゴ・ヒルトンの建物。かつてのスティーブンス・ホテルです。2008年撮影。Zol87 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 2.0)。

1955年には中央予約センター「HILCRON」を開設し、電話や電信で系列ホテルの予約を受け付けました。1959年にはサンフランシスコ空港にホテルを開業し、航空旅行の普及に対応します。宿泊客にとって、ヒルトンというブランドは都市ごとに品質やサービスを期待できる目印になっていきました。

1960〜2006年|二つに分かれたヒルトンが再統合する

世界へ広がる事業は、企業組織を複雑にしました。1964年、海外事業のヒルトン・インターナショナルが独立した会社となり、1967年には米航空会社トランス・ワールド航空(TWA)の傘下に入ります。米国内を中心とするヒルトン・ホテルズと、海外でホテルを展開するヒルトン・インターナショナルは、長く別々の所有者の下で事業を続けました。

1966年には創業者の息子バロン・ヒルトンが米国内事業の社長に就きました。1970年にはラスベガスの大型ホテル・カジノを取得し、従来の都市型ホテルに加えて娯楽・リゾート分野へ進出します。創業者コンラッドは1979年に91歳で亡くなりました。

1962年にアムステルダムで撮影されたスーツ姿のコンラッド・ヒルトン
1962年、アムステルダムで撮影されたコンラッド・ヒルトン。Harry Pot / Anefo / Nationaal Archief(CC0)。

1987年には会員制度「ヒルトン・オナーズ」の前身を導入し、宿泊履歴や特典を通じて旅行者との長期的な関係を築きました。フランチャイズ契約では、外部の事業者がホテルを保有・運営し、ヒルトンのブランドや予約網を利用します。管理契約では、建物の所有者と契約したヒルトンがホテル運営を担います。こうした事業は、のちの拡大を支える基盤になりました。

2005年12月、米ヒルトン・ホテルズは英国側のヒルトン・グループが保有する宿泊事業を約33億ポンドで取得すると発表します。2006年2月23日に完了した取引の金額は約57億8,000万ドル。これにより約40年ぶりに海外事業と米国内事業が一つになり、全世界で共通のブランド、予約システム、会員制度を展開する体制が整いました。2005年末に約2,388施設だった米ヒルトン側のホテル網は、統合によって約2,800施設規模へ広がりました。

2007年|ブラックストーンが約260億ドルで買収する

再統合から約1年後、ヒルトンを取り巻く所有構造は再び大きく変わります。2007年7月3日、ブラックストーン傘下の不動産・プライベート・エクイティ(PE)ファンドがヒルトンを総額約260億ドルで買収すると発表しました。既存株主への提示価格は1株47.50ドルで、発表前日の終値を約40%上回りました。10月24日に買収が完了し、ヒルトン株はニューヨーク証券取引所から上場廃止になりました。

なぜ借金を使って巨大企業を買うのか

この買収はLBO(レバレッジド・バイアウト)と呼ばれる方式でした。投資ファンドの出資金に加え、多額の借入金を使って企業を買収します。投資家は少ない自己資金で大きな企業を取得できますが、買収先の事業には利息や返済の負担が生じます。景気が良く、ホテルの稼働率と宿泊料金が伸びる時期には利益拡大を狙える一方、需要が急落すると負担が重くなります。

ヒルトンの取引では、買収総額約260億ドルに対して投資家の出資部分はおよそ2割でした。巨額の借入を前提とした構造は、2007年当時の活発な金融市場を象徴します。買収後のヒルトンは上場企業として四半期ごとに株価の評価を受ける立場から離れ、ファンドの支配下で事業改革を進めることになりました。PEファンドとLBOの基本的な仕組みは、PEファンドの買収手法を解説した関連記事でも詳しく扱っています。

新CEOナセッタの起用

買収完了直後の2007年10月、ブラックストーンはクリストファー・ナセッタを最高経営責任者(CEO)に迎えると発表しました。ナセッタはホテル不動産会社ホスト・ホテルズ&リゾーツのCEOを務めた人物です。買収直後から、世界に散らばるブランド、営業網、組織の統合が経営課題となっていました。しかし、新体制が動き始めると金融市場の環境が激変します。

2008〜2010年|世界金融危機と約40億ドルの負債削減

2008年9月、米投資銀行リーマン・ブラザーズの経営破綻はたんを契機に世界金融危機が深刻化しました。企業の出張費削減、旅行の延期、金融機関による融資の引き締めが相次ぎます。ホテルは客室を翌日に持ち越して販売できない事業です。今夜売れなかった部屋の売上は回復できず、稼働率の低下は短期間で収益を圧迫しました。

ブラックストーンは2007年に巨額の買収資金を投じたばかりでした。ホテル部門の業績が落ちると、投資先の価値を見直す必要が生じ、ファンド側は評価損を計上します。それでもヒルトンの事業網そのものを手放す方向には進みませんでした。既存の借入条件を変え、持続可能な財務構造へ移す交渉を進めます。

2010年の負債再編が転機となる

2010年4月8日、ヒルトンは既存の債務さいむの大規模な再編を完了したと発表しました。総負債を約40億ドル減らし、主な借入の返済期限を2015年11月まで延ばしています。内訳は、約18億ドルの債務の買い取り・消却と、約21億ドルの劣後債務を優先株式へ転換する取引でした。

債務の買い取り・消却は、借入金を市場などで取得して帳簿上の負債を減らす操作です。優先株式への転換では、一定の返済義務を伴う借入が株主資本に近い性格の資金に変わります。いずれもヒルトンの財務負担を軽くするための措置でした。ホテル需要の回復を待ちながら、資金繰りの余裕を確保する重要な転機となりました。

2009〜2013年|ホテルを所有せず、世界の客室網を広げる

ヒルトンは2009年に社名をヒルトン・ワールドワイドへ変更し、本社をカリフォルニア州ビバリーヒルズからバージニア州マクリーンへ移しました。ナセッタの下で地域ごとに異なっていた事業組織を整え、ブランドと予約網を国際的に一体運用する方針を進めます。

ホテルの所有と運営を分ける「アセットライト」

一般にホテル企業には、土地・建物を所有して宿泊事業を行う方法と、外部オーナーのホテルを管理・運営する方法があります。後者では巨額の不動産投資を自社で負担せず、ブランド使用料や運営受託料を収入にできます。ヒルトンが強化したのは、この「アセットライト」と呼ばれる資産負担の軽い経営です。

フランチャイズや管理契約は買収前から存在していました。2006年の海外事業再統合でブランド・会員制度・予約網の権利が集約されたことも、拡大の下地となっています。買収後の経営改革は、既存の仕組みを世界規模で活用する速度を上げました。ヒルトン・オナーズのような会員制度は、系列ホテルをまたいだ宿泊機会を増やし、外部オーナーにとってもブランド参加の魅力を高めます。

2013年のIPO目論見書によると、2007年6月末から2013年9月末までの間に、営業中の客室数は17万6,248室、率にして36%増加しました。新規開業計画に入る客室も約18万5,700室に達し、その99%以上が管理契約・フランチャイズ部門に属していました。2008年の金融危機を挟みながら、ヒルトンは所有するホテルの数以上に、ブランドが届く範囲を広げていたのです。

2013年12月|ヒルトン、ニューヨーク証券取引所へ戻る

2013年12月11日、ヒルトン・ワールドワイドは新規株式公開(IPO)の価格を1株20ドルに決定しました。翌12月12日、ニューヨーク証券取引所で証券コード「HLT」の取引が始まります。公開株式は約1億1,764万株、公開価格で計算した募集・売出総額は約23億5,000万ドル。ホテル業界で大規模な上場案件となりました。

ニューヨーク証券取引所の正面ファサード
2013年にヒルトンが再上場したニューヨーク証券取引所。写真は2012年撮影。Beyond My Ken / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)。

IPOとブラックストーンの現金化は別の出来事

2013年の目論見書には、ブラックストーンが運用するPE・不動産ファンドや共同投資ビークルは、このIPOで株式を売却していないと明記されています。IPOによる会社への資金流入と、ブラックストーンによる投資回収は異なる取引です。

ヒルトンはIPOによる手取り資金などを使い、約12億5,000万ドルの借入金返済を予定していました。ブラックストーンは再上場後も議決権の過半数を保有し、経営の主導権を維持します。再上場は、企業の資金調達と株式の売却機会を開く節目となりました。株式の時価総額と負債を含む企業価値の違いは、企業価値評価とDCFの解説記事で整理しています。

2014〜2018年|株式売却、会社分割、140億ドルの利益確定

ブラックストーンは再上場で株式の市場価格を取り戻すと、その後は持分を段階的に売却していきました。株を一度に市場へ放出すれば価格に大きな影響が出るため、売却先と市場環境に応じた取引が進みます。2016年10月には中国のHNAグループが約25%の持分を約65億ドルで取得する合意が発表され、取引は2017年3月15日に完了しました。

2017年、事業は三つの上場会社に分かれた

2017年1月3日、ヒルトンはホテル不動産事業のパーク・ホテルズ&リゾーツと、タイムシェア事業のヒルトン・グランド・バケーションズを分離しました。残ったヒルトン・ワールドワイドは、ブランド運営、ホテル管理、フランチャイズを中心とする会社となります。

分離の意義は、性格の異なる事業を独立した株式として評価できるようにしたことです。ホテル不動産は建物の価格、稼働率、設備投資に影響されます。タイムシェアは長期利用権の販売と会員サービスが中心です。ブランド運営は、管理・フランチャイズ契約の拡大が利益成長に結びつきます。三社の株式を保有していた投資家は、それぞれの市場で売却できるようになりました。

2018年、11年間の投資が終わる

ブラックストーンは2018年5月、残るヒルトン株式の売却を進め、2007年以来の投資から完全に退出しました。業界誌『Private Equity International』は、この取引の実現利益を約140億ドルと報じ、2018年の北米エグジット案件として表彰しています。利益額はPE投資史上でも屈指の規模です。

約140億ドルは、ブラックストーン側の投資案件で生じた実現利益です。買収総額約260億ドルには負債が含まれ、ファンド自身の現金出資額とは区別されます。投資の成績には出資金、追加投資、株式・事業の売却代金などが関わります。買収時の価格、非上場期間の経営改善、再上場後の持分売却が重なり、この利益に結びつきました。

2025年末|9,158施設に広がったヒルトンの現在

ヒルトンの2025年12月期の米証券取引委員会(SEC)提出書類によると、同年末のホテル網は世界143の国・地域で9,158施設、135万1,351室に達しました。このうち「所有部門」に分類された施設は46軒、1万5,287室です。46軒には自社で賃借するホテルや関連会社を通じた所有・賃借施設も含まれます。

日本でもこの経営形態が広がっています。2026年、ヒルトンは東京・目黒の雅叙園東京を運営し、LXRホテルズ&リゾーツへの移行を発表しました。建物の所有者は投資会社ブルックフィールドで、ヒルトンがホテル運営を担います。所有者と運営会社を分ける契約の実例です。施設と文化財「百段階段」の運営主体の違いは、雅叙園東京と百段階段の歴史記事で詳しく扱っています。

1919年に購入したモブレー・ホテルは40室でした。100年以上を経て、ヒルトンの名を掲げる客室は135万室を超えました。規模の拡大を可能にしたのは、ホテルごとに土地と建物を買う方法から、各地のオーナーが持つ施設にブランド、予約システム、会員制度、運営ノウハウを提供する方式へ重心を移したことです。

ヒルトンの歴史年表

年出来事
1919年コンラッド・ヒルトンがモブレー・ホテルを取得
1925年ダラスに最初の「ヒルトン」ホテルを開業
1931年世界恐慌で破産寸前となる
1934年5軒のホテルで独立経営を再開
1946年ヒルトン・ホテルズを法人化・株式上場へ
1949年ウォルドーフ・アストリア取得、海外展開
1954年スタットラー系列を約1億1,100万ドルで買収
1967年海外事業がTWA傘下に
2006年米国内事業と海外事業を再統合
2007年ブラックストーン系ファンドが約260億ドルで買収
2008年世界金融危機が深刻化
2010年負債を約40億ドル削減する再編を完了
2013年ニューヨーク証券取引所へ再上場
2017年会社分割、HNAへの約25%持分売却完了
2018年ブラックストーンが保有株を売却し完全退出
2025年世界9,158施設、135万室超へ

主な参考資料