フランス植民地時代のベトナム|支配は社会と暮らしをどう変えたのか

1931年のハノイに整備された植民地期の大通り 世界史・国際関係
ハノイのフランシス・ガルニエ大通り。1931年。撮影:Maurice Lambert/CC BY-SA 4.0。

1931年のハノイ。街路樹の並ぶ広い大通りを、自動車や人力車が行き交っています。

道路の両側には、フランス風の建物が並びます。郵便局、鉄道駅、学校、官庁、劇場。現在のハノイやホーチミン市を歩いても、フランス植民地時代の面影は各地に残っています。

そのため、フランス統治を「ベトナムに鉄道や学校をもたらした近代化の時代」と説明することがあります。

しかし、その街並みを誰が造り、費用を誰が負担し、利益を誰が受け取ったのでしょうか。

鉄道は住民の移動を便利にするだけでなく、石炭、米、ゴム、兵士を港へ運ぶためにも使われました。学校は新しい知識人を育てましたが、すべての子どもに平等に開かれていたわけではありません。道路や官庁の背後には、重い税、土地の集中、農園や鉱山での厳しい労働がありました。

ベトナム語では、この時代を「thời Pháp thuộc」、つまり「フランス支配下の時代」と呼びます。

この記事では、1858年の軍事侵攻から1945年までを一つの塊として扱わず、植民地支配が段階的につくられた過程をたどります。そして、統治制度、土地、税、労働、鉄道、教育、都市生活、抵抗運動を通して、フランス支配がベトナム社会をどう変えたのかを見ていきます。

フランス植民地時代は、いつ始まったのか

フランス植民地時代の開始年は、資料によって1858年、1862年、1884年、1887年などと書かれます。

これは、フランスによる支配が一度に完成したわけではないからです。

1858年、フランス・スペイン連合軍がダナンを攻撃しました。これが本格的な軍事侵攻の始まりです。しかし、ダナン攻略は思うように進まず、フランス軍は南部へ重点を移しました。

1862年、阮朝はサイゴン条約によって南部三省をフランスへ割譲しました。ここから南部のコーチシナは、フランスが直接統治する植民地へ変わっていきます。

1867年、フランスは残る南部三省も占領し、メコンデルタ一帯への支配を広げました。

一方、中部と北部では、阮朝の皇帝と官僚組織が形式上残されました。1883年のアルマン条約と、それを修正した1884年のパトノートル条約によって、中部アンナンと北部トンキンはフランスの保護国となりました。

1887年、フランスはコーチシナ、アンナン、トンキン、カンボジアをまとめて「仏領インドシナ連邦」を成立させました。ラオスはフランス・シャム戦争後の1893年にフランス支配下へ入り、のちに連邦へ組み込まれました。

したがって、次のように整理すると分かりやすいでしょう。

1858年は軍事侵攻の開始。1862年は南部植民地化の制度的な開始。1884年は阮朝が外交・軍事上の主権を大きく失った転換点。1887年は仏領インドシナの統治機構が成立した年です。

「フランス植民地時代は何年からか」という問いには、一つの年だけで答えるより、支配が段階的に完成したと説明する方が正確です。

ベトナムは三つの異なる制度に分けられた

フランス支配下のベトナムは、単一の行政地域ではありませんでした。

南部のコーチシナ、北部のトンキン、中部のアンナンでは、法的な地位と統治方法が異なりました。

コーチシナはフランスの植民地です。フランス人官僚が直接行政を運営し、土地制度、裁判、税制、教育を大きく組み替えました。

トンキンとアンナンは、形式上は阮朝皇帝の領土でした。しかし、外交、軍事、財政などの重要分野はフランス側の理事官や総督府に握られました。

フエには皇帝と宮廷が残っていましたが、皇帝が自由に国家を運営できたわけではありません。阮朝の官僚は存続しながらも、その上にフランスの監督機構が置かれました。

同じベトナム人でも、住む地域によって法制度、行政、政治参加の範囲が異なったのです。

この区分は、単なる地理上の呼び名ではありませんでした。ベトナムを一つの政治単位として扱わず、地域ごとに異なる制度で管理することは、統治を容易にする仕組みでもありました。

植民地政府はどこからベトナムを支配したのか

仏領インドシナの最高責任者は、インドシナ総督でした。

総督府は、軍事、財政、公共事業、交通、関税、教育などを広く管理しました。1902年以後、ハノイは仏領インドシナ全体の行政中枢となり、サイゴンは南部の政治・経済の中心として発展しました。

植民地政府は、フランス人官僚だけで全住民を管理できたわけではありません。そのため、従来の村落組織、ベトナム人官僚、地域の有力者を利用しました。

村には自治的な制度が残されましたが、徴税、戸籍、労役、治安維持などでは植民地行政と結び付けられました。

支配は、すべてをフランス式に置き換える形ではなく、既存制度を利用しながら上層部をフランスが押さえる形で進みました。

この構造は、統治費用を抑えるうえで効果的でした。しかし住民から見ると、フランス人官僚、阮朝官僚、地方有力者、村役人が重なる複雑な支配となりました。

税は植民地経営を支える柱だった

植民地政府を運営するためには、多額の財源が必要でした。

1897年から1902年まで総督を務めたポール・ドゥメールは、インドシナ財政の中央集権化を進め、徴税と専売収入を公共事業や統治機構へ結び付けました。鉄道や橋の建設と、住民が負担した税・専売制度は、別々の政策ではなく同じ植民地財政の中で進められました。

その負担の多くは、現地住民に課された税から集められました。

土地税、人頭税、営業税などに加えて、塩、酒、アヘンは植民地政府の重要な収入源となりました。これらは専売制度によって管理されました。

特に塩は、日常生活に欠かせません。酒も村落社会の儀礼や生活と深く結び付いていました。植民地政府は、住民が日常的に必要とする商品を財源に変えたのです。

税負担は地域や時期によって異なります。また、すべての税がフランス人だけの利益に使われたわけでもありません。行政、道路、鉄道、衛生施設、学校などにも支出されました。

しかし、住民の政治参加が限定されるなかで税が徴収され、植民地統治と輸出経済の維持に使われた点が重要です。

住民は、税額だけでなく、税の集め方、役人の不正、労役、生活必需品の専売にも苦しみました。

1908年に中部で広がった抗税運動は、こうした不満が政治運動へ変わった代表例です。

土地は誰のものになったのか

植民地時代、特に南部では大規模な土地所有が進みました。

メコンデルタでは開墾と灌漑が進み、米の生産量が増えました。サイゴン港から輸出される米は、植民地経済の重要な商品になります。

しかし、生産の拡大が農民の生活向上へそのまま結び付いたわけではありません。

広大な土地を所有する地主が増え、多くの農民が小作人や農業労働者となりました。借金によって土地を失う農民もいました。

土地制度の変化は、フランス人植民者だけでなく、ベトナム人地主や商人にも利益をもたらしました。そのため、植民地社会は単純な「フランス人対ベトナム人」では説明できません。

植民地制度と結び付いて利益を得たベトナム人上層もいれば、その下で土地を失った農民もいました。

この格差は、後の農民運動、共産主義運動、土地改革要求の重要な背景になります。

ゴム農園と炭鉱で働いた人々

20世紀に入ると、ベトナムではゴム農園、石炭鉱山、セメント工場などが拡大しました。

南部のゴム農園には、多くの労働者が契約によって集められました。北部のホンガイ周辺では石炭採掘が発展し、鉄道と港が整備されました。

植民地経済は、ベトナムをフランス本国や世界市場へ結び付けました。米、石炭、ゴムなどが輸出され、鉄道、港湾、銀行、商社が成長します。

しかし、農園や鉱山の労働は厳しいものでした。

長時間労働、低賃金、病気、事故、監督者による暴力、契約から逃れにくい仕組みが問題となりました。すべての農園が同じ状況だったわけではありませんが、労働者を安価に確保し、輸出利益を高める構造がありました。

労働者が同じ場所に集められたことは、新しい政治運動を生む条件にもなりました。

農村では離れて暮らしていた人々が、鉱山、工場、農園で共に働き、不満や思想を共有するようになります。ストライキや労働組織が形成され、民族運動と労働運動が結び付いていきました。

鉄道は誰のために造られたのか

フランス植民地時代には、ベトナムの交通網が大きく変化しました。

サイゴンとミトーを結ぶ鉄道、ハノイとハイフォン、ハノイと中国雲南省、そしてハノイとサイゴンを結ぶ南北鉄道が整備されました。

鉄道は、人、郵便、商品を速く運べるようにしました。地域間の移動や市場の拡大にも影響を与えました。

一方、その建設目的には植民地統治と資源輸送がありました。

石炭を鉱山から港へ運ぶ。米を生産地からサイゴンへ集める。中国南西部との交易路を確保する。軍隊を迅速に移動させる。

鉄道は、住民のための公共交通であると同時に、植民地経済と軍事支配の装置でした。

建設費は植民地財政や借款によって賄われました。工事には多数の現地労働者が動員され、山岳地帯や熱帯地域での工事では病気や事故も発生しました。

現在のベトナム鉄道網には、植民地期につくられた骨格が残っています。しかし、その遺産を評価するときには、完成した設備だけでなく、建設目的と負担の分配も見る必要があります。

郵便・電信・港が植民地を一つに結んだ

鉄道だけでなく、道路、港、郵便、電信も整備されました。

サイゴン中央郵便局のような建物は、現在では観光名所として知られています。しかし当時の郵便・電信網は、植民地行政、軍事、商業を支える重要施設でした。

命令、価格情報、軍事情報、新聞、私信が以前より速く移動するようになります。

情報網の発達は、植民地政府に利益をもたらしましたが、反植民地運動にも利用されました。

新聞、パンフレット、書簡、海外からの思想が都市へ入り、知識人や学生の間で共有されます。統治を効率化するための通信網が、結果として植民地支配を批判する言論空間も広げたのです。

ハノイとサイゴンはどう変わったのか

植民地都市では、道路、公園、上下水道、官庁、兵舎、病院、学校、商業施設が整備されました。

ハノイには総督府、官庁街、劇場、駅が置かれ、仏領インドシナの首都として再編されます。

サイゴンは港湾都市、商業都市、行政都市として発展しました。

しかし、植民地都市は平等な空間ではありませんでした。

フランス人居住区には広い道路、街路樹、衛生設備、公共施設が優先的に整備されました。一方、ベトナム人や中国系住民の多い地区では人口密度が高く、衛生環境や住宅条件に差がありました。

都市の美しい景観は、植民地社会の階層を可視化するものでもありました。

住む場所、利用できる学校、病院、娯楽施設、行政へのアクセスには、人種、国籍、階級による違いがありました。

ただし、都市は支配の空間だけではありません。

新聞記者、教師、学生、医師、弁護士、商人、労働者が集まり、新しい思想と文化が生まれました。カフェ、印刷所、学校、新聞社は、政治議論の場にもなりました。

植民地都市は、フランス支配の象徴であると同時に、民族運動が育つ場所でもあったのです。

植民地化の中でも、日常生活は続いた

植民地支配は、住民の生活をすべてフランス式に置き換えたわけではありません。家族、婚礼、宗教儀礼、村の共同体、市場での商いなど、従来からの生活は形を変えながら続きました。

一方で、戸籍、裁判、土地登記、学校、衛生政策、都市計画などを通じて、植民地国家は住民の日常へ深く入り込みました。人々は古い慣習だけを守ったのでも、新しい制度をそのまま受け入れたのでもありません。地域、階級、性別、職業によって、適応、利用、回避、抵抗の仕方が異なりました。

フランス式教育は誰に開かれていたのか

フランスは、軍事通訳、行政職員、教師、技術者を育てるため、フランス・ベトナム式の教育制度を整備しました。

学校ではフランス語、ベトナム語、算術、地理、歴史、衛生、実務科目などが教えられました。

従来の科挙制度と漢文中心の教育は次第に衰退し、クオックグーと呼ばれるローマ字表記のベトナム語が広がりました。

しかし、学校教育はすべての子どもに同じように開かれていたわけではありません。

都市と農村、男子と女子、富裕層と貧困層の間には大きな格差がありました。上級学校へ進める人数は限られ、フランス人子弟向けの学校と現地住民向けの学校にも差がありました。

植民地政府にとって教育は、行政を支える人材を育て、フランス文化への理解を広げる手段でした。

ところが、その教育を受けた人々の中から、植民地支配を批判する知識人が現れます。

一部の知識人や学生は、フランスが掲げる自由や平等の理念と、植民地における法的・政治的不平等との矛盾を論じるようになりました。

近代教育は植民地支配を安定させるために整備されましたが、同時に支配へ異議を唱える言葉も与えたのです。

クオックグーはフランスが与えた文字なのか

現在のベトナム語で使われるクオックグーは、ラテン文字を基礎とした表記法です。

その原型は、17世紀にカトリック宣教師たちがベトナム語を記録するためにつくりました。したがって、フランス植民地政府がゼロから発明した文字ではありません。

植民地期になると、行政と教育でクオックグーの使用が拡大しました。新聞、教科書、文学作品、政治パンフレットにも使われます。

フランス側にとっては、漢文文化と科挙官僚の影響を弱め、行政を効率化する利点がありました。

しかし、ベトナム人知識人はクオックグーを独自に利用しました。

新聞を発行し、政治思想を伝え、教育を広げ、民族意識を育てる道具へ変えたのです。

クオックグーの普及は、植民地政策の一部でありながら、ベトナム人がそれを自分たちの言論と文化のために使い直した歴史でもあります。

王朝は残ったが、主権は失われた

フエには阮朝皇帝が残りました。

しかし、皇帝は独立国家の君主ではなく、フランスの保護下に置かれました。

皇帝の権威は、植民地支配を正当化し、住民統治を安定させるために利用されました。フランス側は王朝を完全に廃止せず、その制度を通して中部の行政を運営しました。

一方、王朝内部にはフランス支配へ抵抗する動きもありました。

1885年、ハム・ギ帝を支持する勢力は勤王運動を呼び掛けました。各地で官僚、知識人、地方有力者、農民が武装抵抗を行います。

しかし、抵抗勢力は地域ごとに分散し、近代兵器と行政組織を持つフランス軍に制圧されました。

それでも勤王運動は、王朝への忠誠を通じた抵抗から、近代的な民族運動へ移る重要な段階となりました。

ファン・ボイ・チャウはなぜ日本を目指したのか

20世紀初頭、ベトナムの民族運動は新しい方向へ進みます。

代表的な人物がファン・ボイ・チャウです。

彼は、フランスを追い出し、ベトナムの独立を回復するため、海外から支援を得ようとしました。

1905年以後、多くの若者を日本へ留学させる東遊運動が進められます。

当時の日本は、日露戦争でロシアに勝利したアジアの近代国家として注目されていました。ベトナムの活動家たちは、日本を「アジア人が西洋列強に対抗できる証拠」と見たのです。

しかし、日本政府はフランスとの外交関係を優先し、ベトナム人留学生や活動家を退去させました。

東遊運動は挫折しましたが、独立運動が国内だけでなく、日本、中国、フランスなどを結ぶ国際的な運動へ変わったことを示しています。

ファン・チュー・チンは武装蜂起より改革を求めた

ファン・ボイ・チャウと並ぶ重要人物が、ファン・チュー・チンです。

彼は、王朝復活や外国の軍事援助よりも、教育、民権、社会改革を重視しました。

皇帝制度を批判し、住民の知識と政治意識を高めることが必要だと考えます。

この違いは、当時の民族運動が一つの考え方でまとまっていなかったことを示します。

武装蜂起を目指す者。王朝を復活させようとする者。フランスの制度を利用しながら改革を求める者。教育と民権を優先する者。

彼らはすべて植民地支配に疑問を持っていましたが、独立への道筋は異なっていました。

1908年の抗税運動で何が起きたのか

1908年、中部ベトナムで抗税運動が広がりました。

農民たちは税負担や労役に反対し、役所へ押し掛け、負担軽減を求めました。

運動には、近代教育や改革思想の影響もありましたが、参加者のすべてが同じ政治理念を持っていたわけではありません。

日々の生活を圧迫する税。役人の不正。強制的な労役。土地や収穫をめぐる不満。

こうした具体的な問題が、大規模な抗議へつながりました。

植民地当局は運動を弾圧し、多くの参加者や知識人が逮捕、処刑、流刑となりました。

抗税運動は、植民地支配への反発が知識人の議論にとどまらず、農村住民の集団行動へ広がったことを示しています。

第一次世界大戦はベトナム社会をどう変えたのか

第一次世界大戦中、フランスはベトナムを含むインドシナから兵士と労働者をヨーロッパへ送りました。

彼らは工場、港湾、輸送、軍務に従事しました。

ヨーロッパへ渡った兵士や労働者の一部は、フランス本国の社会、労働運動、政治思想に接しました。帰国者や在仏ベトナム人の経験は一様ではありませんが、のちの政治意識や社会運動に影響を与えた例もあります。

戦後、民族自決という言葉が世界で広がりました。

グエン・アイ・クオックを名乗っていた後のホー・チ・ミンは、1919年のパリ講和会議の時期に、在仏ベトナム人愛国者グループの名で「安南人民の要求」を連合国側へ提出しました。

直ちに独立を要求した文書ではありませんでしたが、言論、結社、法の下の平等などを求めています。

フランスが掲げる共和国の理念を、植民地住民にも適用するよう求めたのです。

この経験は、ベトナムの民族運動が、王朝復活や地域的反乱から、国際政治、社会主義、共和主義と結び付く転換点となりました。

新聞と都市文化が新しい政治を生んだ

1920年代のハノイ、サイゴン、フエでは、新聞、雑誌、出版社、学校、政治団体が増えました。

ベトナム語、フランス語、中国語の新聞が発行され、政治、教育、女性、家族、宗教、文学について議論が行われます。

女性の教育、結婚、服装、社会参加も論争の対象となりました。

都市の中間層は、植民地制度の中で教育や職業の機会を得る一方、人種差別や昇進の限界にも直面しました。

フランス語教育を受けた弁護士、教師、記者、公務員が、植民地政府へ改革を求めました。

しかし、合法的な改革が進まないことに失望し、より急進的な運動へ進む人々もいました。

植民地都市は、協力、適応、改革、抵抗が同時に存在する複雑な場所でした。

ベトナム国民党とインドシナ共産党

1920年代後半になると、組織的な革命運動が強まります。

ベトナム国民党は、中国国民党の影響を受けた民族主義組織でした。

1930年、イエンバイで兵士の反乱を起こしましたが、フランス側に鎮圧されます。指導者グエン・タイ・ホックらは処刑されました。

1930年2月、グエン・アイ・クオックの仲介で複数の共産主義組織が統合され、ベトナム共産党が結成されました。同年10月、党名はインドシナ共産党へ変更されました。

共産主義者は、民族独立だけでなく、土地問題、労働条件、階級格差を重視しました。

同年から翌年にかけ、ゲアン、ハティン地方では農民と労働者の運動が広がりました。一部の地域では、既存の村行政に代わる委員会が一時的に機能し、後に「ゲティン・ソヴィエト(Xô viết Nghệ-Tĩnh)」と総称されました。ただし、組織の形や統治の程度には地域差がありました。

植民地当局は軍隊と航空機を投入して弾圧しました。

1930年前後の運動は、植民地支配への抵抗が、知識人中心の秘密結社から、大衆運動と政党組織へ変化したことを示しています。

フランス植民地支配はベトナムを近代化したのか

この問いには、単純な「はい」か「いいえ」では答えられません。

植民地時代に、鉄道、道路、港、郵便、病院、学校、印刷、銀行、近代産業が拡大したことは事実です。

都市人口が増え、新しい知識人、労働者、中間層が生まれました。クオックグーが普及し、新聞や近代文学も発展しました。

しかし、それらはベトナム人の平等な発展を第一目的としてつくられたわけではありません。

資源輸送、軍事統治、徴税、フランス企業の利益、植民地秩序の維持が重要な目的でした。

インフラによる利益は、地域、階級、人種によって偏っていました。

学校は増えましたが、教育機会は限られました。農業生産は増えましたが、土地を失う農民も増えました。都市は美しく整備されましたが、居住環境には大きな格差がありました。輸出は伸びましたが、農園や鉱山では厳しい労働が続きました。

したがって、より正確な問いは次のようになります。

「近代的な制度や設備は、誰の目的でつくられ、誰が費用を負担し、誰が利益を得たのか」

この視点に立つと、植民地時代の変化を、単純な進歩でも全面的な停滞でもなく、支配と社会変容が同時に進んだ時代として捉えられます。

ベトナムでは植民地時代をどう記憶しているのか

現在のベトナムの博物館や公式歴史叙述では、フランス植民地時代は、侵略、搾取、弾圧、民族解放闘争の時代として説明されます。

この見方には、植民地支配を受けた側の歴史経験が反映されています。

一方、植民地都市の建築、鉄道、学校、文学、新聞文化に注目する研究もあります。

さらに、当時の人々の立場は一様ではありませんでした。

武装抵抗へ進んだ人。行政に勤めた人。フランス語教育を受けた人。植民地企業で働いた人。海外へ渡った人。王朝を支持した人。共産主義を支持した人。改革を求めた人。政治運動に関わらず生活を守ろうとした人。

現在の国家史だけでは、こうした多様な経験をすべて説明できません。

そのため、ベトナム語の公文書、新聞、回想録、博物館展示を読むときにも、「誰が、いつ、どの立場から書いた資料か」を確認する必要があります。

まとめ|植民地支配が生んだものは、一つではなかった

フランスのベトナム支配は、1858年の軍事侵攻から段階的に進みました。

南部は直接統治の植民地となり、中部と北部では阮朝を残した保護国制度が採られました。

植民地政府は、税、専売、土地制度を通じて財源を集め、米、石炭、ゴムなどの輸出経済を拡大しました。

鉄道、港、郵便、学校、都市施設も整備されました。しかし、それらは植民地支配と資源輸送を支える目的と切り離せません。

同時に、植民地社会の中から、新しい知識人、労働者、新聞、政党、民族運動が生まれました。

フランス式教育を受けた人々が、フランスの掲げる自由や平等を植民地政府へ問い返しました。鉄道と郵便によって結ばれた都市では、支配への批判も広がりました。

植民地制度のもとで拡大した学校、都市、労働者集団、印刷・交通網は、植民地支配を支える一方で、それを批判し変革しようとする運動が広がる条件にもなりました。

フランス植民地時代を理解するうえで重要なのは、「フランスは何を残したか」だけではありません。

誰が負担したのか。誰が利益を得たのか。誰が抵抗したのか。そして、ベトナム人が外から導入された制度や知識を、どのように自分たちの独立運動へ変えていったのか。

そこまで見て初めて、植民地時代のベトナム社会が立体的に見えてきます。

FAQ

フランスはいつからベトナムを植民地にしたのですか

軍事侵攻は1858年に始まりました。1862年に南部三省が割譲され、1883~84年に中部と北部が保護国化されました。1887年に仏領インドシナ連邦が成立します。支配は一度ではなく、段階的に完成しました。

コーチシナ、アンナン、トンキンの違いは何ですか

コーチシナは南部に置かれたフランスの直轄植民地です。アンナンは中部、トンキンは北部で、形式上は阮朝皇帝の領土でしたが、フランスの保護国として重要な主権を制限されました。

フランス統治でベトナムは近代化したのですか

鉄道、港、郵便、学校、病院、都市施設、近代産業が拡大したことは事実です。ただし、植民地統治、資源輸送、軍事、企業利益が主要目的で、利益と負担は平等に分配されませんでした。

クオックグーはフランス人がつくったのですか

原型は17世紀のカトリック宣教師がつくりました。植民地時代に行政と教育で普及しましたが、後にベトナム人知識人が新聞、文学、民族運動のために活用しました。

植民地時代のベトナム人は全員フランスへ抵抗したのですか

いいえ。武装抵抗、改革運動、行政への協力、植民地企業での就労、政治に関わらない生活など、立場はさまざまでした。抵抗運動の内部でも王朝復活、民権改革、民族主義、共産主義など方針が異なりました。

資料の読み方

この記事では、植民地行政が作成した公文書・統計・写真を、統治側が何を記録し、何を記録しなかったかに注意して使用しています。また、現在のベトナムの公的機関による叙述は、植民地支配を受けた側の記憶を知る重要な資料ですが、当時の全住民の経験を一つに代表するものではありません。制度・年代・経済構造はフランス側公文書と研究書でも照合し、人物や運動については立場の異なる資料を区別しました。

参考文献・主要資料

  1. Trung tâm Lưu trữ quốc gia I(ベトナム国家公文書館第1センター)
    仏領インドシナ期の行政、鉄道、都市、村落制度、産業、新聞などの紹介資料を参照。
  2. Bảo tàng Lịch sử Quốc gia(ベトナム国立歴史博物館)
    植民地期、民族運動、人物史、博物館展示、研究記事を参照。
  3. Cổng Tư liệu – Văn kiện Đảng
    民族運動、インドシナ共産党、ゲティン・ソヴィエトなどについて、ベトナム側の公式文書・叙述を確認する調査先。
  4. Archives nationales d’outre-mer(フランス海外公文書館)
    仏領インドシナ総督府、行政、公共事業、教育、経済関係資料。
  5. Bibliothèque nationale de France, Gallica
    植民地期の写真、地図、新聞、行政刊行物。
  6. Musée du quai Branly – Jacques Chirac
    植民地期サイゴンの学校、官庁、鉄道施設等の写真資料。
  7. Pierre Brocheux and Daniel Hémery, Indochina: An Ambiguous Colonization, 1858–1954.
  8. David G. Marr, Vietnamese Anticolonialism, 1885–1925.
  9. David G. Marr, Vietnamese Tradition on Trial, 1920–1945.
  10. Christopher Goscha, Vietnam: A New History.
  11. Musée national de la Marine, Prise de Saïgon, accession 9 OA 79.
  12. Musée du quai Branly – Jacques Chirac, Indochine photo collections(PV0015187、PV0019236、PV0019640ほか).
  13. Université Côte d’Azur, Humazur, Hôpital Grall 12455.
  14. Bibliothèque nationale de France, Gallica, Cochinchine・Saïgon写真群.
  15. Wikimedia Commons各資料ページ(画像ごとの作者・年代・ライセンス、原所蔵機関への導線確認に使用).
  16. Gouvernement général de l’Indochine, Rapports au Conseil de gouvernement de l’Indochine(植民地財政・行政・公共事業の照合資料).
  17. 植民地期の統計年鑑・行政刊行物(GallicaおよびANOM所蔵。教育、交通、財政の数量的背景の照合に使用).