赤坂絵図を徹底解説|溜池・赤坂見附・山王を古地図で読む

嘉永3年(1850)の「赤坂絵図」は、現在の赤坂、溜池、赤坂見附、山王周辺を描いた切絵図です。大名屋敷が広がる武家地と、江戸城外堀の一部だった溜池、町人地、寺社が隣り合い、江戸南西部の地形と政治空間を一枚で確認できます。

赤坂絵図の基本情報

尾張屋清七が刊行した江戸切絵図の一枚で、国立国会図書館所蔵本は1850年の資料です。現在の港区赤坂を中心に、千代田区側の赤坂見附・永田町方面までつながる地域を描きます。

尾張屋版江戸切絵図「赤坂絵図」
『赤坂絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――まず溜池と赤坂見附を探す

赤坂絵図では、青く大きく描かれた溜池ためいけと赤坂見附が位置関係をつかむ目印です。港区の解説によると、溜池は慶長11年(1606)ごろ、江戸城防備と上水の機能を兼ねて築かれた人工の大きな池でした。

現在の溜池山王交差点周辺から赤坂見附へ続く一帯に水面が広がっていたと考えると、現代の街並みとは印象が大きく変わります。地図の白い区画は武家地で、江戸時代の赤坂は町人地より大名・旗本屋敷の比重が高い地域でした。

赤坂見附――江戸城外郭の門

赤坂見附あかさかみつけは江戸城外郭の門の一つです。「見附」は城門周辺の警備施設を意味し、外敵の侵入を監視する役割を持ちました。赤坂方面から江戸城中枢へ入る地点にあたり、現在の赤坂見附という地名にもその記憶が残っています。

門そのものは失われましたが、石垣の一部や外堀の地形は現在も確認できます。首都高速道路と幹線道路が交わる現代の交通結節点は、江戸時代にも都市の境界と通行を管理する重要地点でした。

溜池――防御施設から町へ

港区によると、溜池は江戸城防備の外堀の一部であるとともに、飲料水を供給する上水ダムとして機能しました。景観の良い水辺としても知られ、鯉や鮒を放し、蓮を植えたという記録も伝わります。

その後、周囲から埋立が進み、明治7~8年ごろから急速に陸地化しました。明治21年には赤坂溜池町が成立します。巨大な池は消えましたが、「溜池山王」という駅名や交差点名に地名が残りました。

武家地としての赤坂

江戸時代の赤坂は大半が武家地で、町場は赤坂田町、新町、裏伝馬町などに限られていました。江戸城に近く、台地上の広い土地を確保できたため、大名屋敷や旗本屋敷が多く配置されました。

切絵図の大区画と現在の細分化された街区を比べると、明治以降の土地利用転換がよくわかります。大名屋敷跡は皇族邸、軍施設、官庁、学校、住宅地などへ再編されました。

山王と日枝神社

赤坂には江戸城の鎮守として崇敬された日枝神社ひえじんじゃがあります。山王祭は徳川将軍家と深く結びつき、江戸を代表する祭礼の一つでした。赤坂の台地と溜池低地の境界に位置するため、現在も大きな高低差があります。

切絵図では坂、屋敷、寺社、水面が接近して描かれます。赤坂という地名自体も坂との関係が深く、港区は明暦3年(1657)の地図に名が現れることを紹介しています。

明治から現在へ――武家地から都心業務地区へ

1878年に赤坂区が成立し、1947年に港区の一部となりました。戦後の住居表示で旧町名の多くは「赤坂」に統合されましたが、坂名や寺社、赤坂見附、溜池など江戸由来の名称が今も街の位置関係を支えています。

現在はオフィス、ホテル、放送局、飲食街が集中します。江戸の武家地と溜池を意識すると、現代の高層街区の下に残る土地の起伏と旧街路を読み取りやすくなります。

関連する古地図:外桜田永田町絵図では永田町・霞が関を、青山渋谷絵図では赤坂の西側から大山街道方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料