外桜田永田町絵図を徹底解説|桜田門・井伊家上屋敷・永田町を古地図で読む

嘉永3年(1850)の「外桜田永田町絵図」は、現在の永田町、霞が関、国会議事堂周辺から桜田門外を描く切絵図です。大名の上屋敷と旗本屋敷が密集し、幕末の政治事件「桜田門外の変」の地理を最も具体的にたどれる一枚です。

外桜田永田町絵図の基本情報

正式題は「増補改正麹町永田町外桜田絵図」。景山致恭が図し、金鱗堂尾張屋清七が嘉永3年(1850)に刊行しました。東京都立図書館の解説では、現在の永田町を中心とした霞が関官庁街、麹町周辺にあたり、大名上屋敷と旗本屋敷が集中した地域とされています。

尾張屋版江戸切絵図「外桜田永田町絵図」
『外桜田永田町絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――桜田門と大名屋敷を軸にする

まず桜田門さくらだもんを探し、門から外側へ延びる道と、その周囲の白い武家地を追うと位置関係をつかめます。江戸城外郭に近いこの地域では、町人地より大名・旗本屋敷が圧倒的に目立ちます。

屋敷名は藩名ではなく当主の官途名で記される場合が多く、家紋が上屋敷を見分ける手掛かりになります。現在の官庁街と比べると用途は変わりましたが、「政治中枢に近い土地」という性格は継続しています。

井伊家上屋敷と桜田門外の変

この図で最も重要な地点の一つが、「井伊掃部頭」と記された彦根藩井伊家の上屋敷です。安政7年3月3日(1860年3月24日)、大老井伊直弼いいなおすけは屋敷を出て江戸城へ向かう途中、桜田門外で水戸浪士を中心とする18人に襲撃され、死亡しました。

東京都立図書館の解説では、井伊家上屋敷から桜田門までの距離は約200メートルです。事件当日は雪で、護衛は雨合羽を着け、刀に柄袋を付けていました。切絵図上で屋敷と門を同時に確認すると、事件が長距離の移動中ではなく、登城直後のごく短い区間で起きたことがわかります。

なぜ井伊直弼は狙われたのか

井伊直弼は安政5年(1858)、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を進め、その後、反対派を処罰する安政の大獄を主導しました。水戸藩士らの反発が強まり、桜田門外の変へつながります。

事件後、幕府の権威は大きく揺らぎました。地図に描かれた安定した大名屋敷街は、刊行から10年後には政治危機の現場になります。幕末史の時間的変化を一枚の地図に重ねられる代表例です。

永田町――大名屋敷から政治の中心へ

永田町ながたちょうは江戸時代、大名・旗本屋敷の多い武家地でした。明治維新後は旧武家地が官有地として再編され、霞が関には官庁が集まります。永田町では国会議事堂や首相官邸などが置かれ、日本の政治中枢となりました。

江戸城に近い武家地が、明治以降も政府機関の集積地になったのは、広い屋敷地を再利用できたことと、都心の立地が大きく関係します。土地利用は変わっても、権力の中心に近い地域という性格は続きました。

霞が関――屋敷地から官庁街へ

現在の霞が関一帯も、切絵図では大名・旗本屋敷が並びます。維新後、外務省、司法省などの官庁が置かれ、明治政府の行政中枢へ変化しました。広い屋敷地をまとまった官庁用地へ転用しやすかったことが、近代官庁街形成の背景にあります。

江戸城外郭の地形は今も残る

桜田濠、桜田門、国会前の高低差など、江戸城外郭に由来する地形は現在も明瞭です。桜田門は現存し、事件現場の距離感を現地でも確認できます。切絵図を現代地図に重ねると、道路や建物が変わっても城郭の輪郭が都市を規定していることがわかります。

関連する古地図:御江戸大名小路絵図では桜田門から江戸城東側へ、赤坂絵図では永田町西側の赤坂見附・溜池へ続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料