秋葉原駅を出ると、電気店やアニメショップが並ぶ街が広がります。その足元には、江戸の街道、旅籠町、青果市場、鉄道貨物駅、水路の記憶が重なっています。現在の秋葉原は、交通と物流の中心が舟運から鉄道へ移り、戦後に電気街へ変わっていく過程で形づくられました。
2024年2月23日の歴史散歩では、秋葉原駅周辺から神田川沿いを歩き、武家地の痕跡、神田青果市場跡、神田旅籠町、筋違門跡、万世橋駅跡、交通博物館跡、佐久間橋跡を巡りました。現在の街並みの中に残る江戸・明治・昭和の痕跡をたどります。
秋葉原はどのように生まれたのか
江戸時代の秋葉原周辺は、武家地と町地が接する場所でした。神田川沿いでは舟運が発達し、材木や薪炭、野菜などが運ばれます。筋違門付近では日本橋から続く中山道と、江戸城から上野の寛永寺へ向かう御成道が交わり、人と物が行き交いました。

明治2年(1869)、神田相生町から出た大火の後、現在の秋葉原駅付近には火除地が設けられました。翌年に鎮火社が祀られ、火防の秋葉権現と結び付けて「秋葉の原」と呼ばれるようになります。明治23年(1890)には上野から鉄道が延び、秋葉原貨物取扱所が開設されました。駅名として「秋葉原」が定着し、物流拠点としての新しい歴史が始まります。
大正から昭和にかけて旅客鉄道が集まり、昭和初期には中央卸売市場の神田分場も秋葉原へ移りました。戦後は神田小川町から神田須田町周辺にあったラジオ部品などの露店が秋葉原駅周辺のガード下へ移り、電気街が成長します。舟運、街道、市場、鉄道、電気街という異なる時代の機能が、同じ地域に積み重なっています。
今回歩いた秋葉原の歴史スポット
江戸の秋葉原周辺――武家地と交通の要衝
現在の外神田から神田須田町にかけては、江戸時代には武家地と町地が入り組んでいました。駿河台側には武家地が広がり、その周囲に町人地が発達します。現在の大通りや鉄道だけを見ていると分かりにくいものの、古地図を重ねると神田川と街道が町の骨格だったことが分かります。
散歩で立ち寄った石垣周辺も、現在の街並みと江戸の土地利用を見比べる地点です。秋葉原周辺の歴史は、電気街が生まれるはるか前から、江戸城外郭と神田川、街道によって形づくられていました。
神田青果市場跡――江戸の「やっちゃ場」から秋葉原へ
神田の青物市場は江戸の食を支えた大市場でした。江戸初期から神田多町周辺に青物商が集まり、近郊から運ばれた野菜や果物が取引されます。威勢のよい競り声が飛び交う市場は「やっちゃ場」と呼ばれ、神田は日本橋の魚河岸と並ぶ食料流通の中心地になりました。
近代になると市場制度が整備され、昭和10年(1935)に東京市中央卸売市場の神田分場が開場します。市場は秋葉原駅に隣接し、鉄道を使って大量の青果を受け入れられる近代的な物流拠点となりました。
神田市場は平成元年(1989)に廃止され、大田市場へ統合されました。市場跡地では再開発が進み、現在は秋葉原UDXなどが建っています。高層ビルが並ぶ駅前は、かつて野菜や果物を積んだ貨車と荷車が行き交った場所でした。
神田旅籠町――旅人の町から問屋の町へ
昌平橋の北側には、かつて神田旅籠町がありました。中山道の板橋宿、日光御成街道の川口宿へ向かう街道筋にあたり、江戸初期には旅籠が並んだことが町名の由来とされています。
天和2年(1682)の大火後には町の移転や再編が進みます。幕末になると旅籠はほとんど姿を消し、米、炭、塩、酒などを扱う問屋が増えました。旅人を迎えた街道沿いの町が、江戸の商品流通を支える商人の町へ変わったのです。現在は町名由来板が旧町名と土地の記憶を伝えています。
筋違門跡と御成道――中山道と将軍の道が交わった場所
神田川に架かっていた筋違橋のたもとには、江戸城外郭の筋違門がありました。この付近では日本橋を起点とする中山道と、将軍が上野の寛永寺へ参詣する際に通った御成道が交差していました。江戸城の門であると同時に、北へ向かう交通の要所でした。
明治5年(1872)に筋違門は撤去され、その後、神田川には石造りの橋が架けられます。橋は萬代橋と名付けられ、やがて万世橋の名が定着しました。江戸の城門が消えた場所は、明治以降も橋と鉄道によって東京の交通拠点であり続けます。
万世橋駅跡――東京を代表するターミナルだった赤レンガ駅
明治45年(1912)、中央線のターミナルとして万世橋駅が開業しました。初代駅舎は東京駅などを手掛けた辰野金吾の設計による赤レンガ造りで、須田町一帯は路面電車も集まる東京有数の繁華街でした。
大正8年(1919)に中央線が東京駅まで延びると、万世橋駅は終着駅から途中駅へ変わります。大正12年(1923)の関東大震災では駅舎が焼失し、その後は簡素な駅舎で営業を続けました。利用者の減少により昭和18年(1943)に営業を休止します。
現在も中央線の高架下には旧万世橋駅の赤レンガ高架橋や階段、ホームの痕跡が残り、商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として活用されています。電車が通過するすぐ脇に、かつての駅の位置を体感できる空間が残っています。冬の夜に万世橋から駿河台へ歩くルートは、秋葉原~御茶ノ水・駿河台のイルミネーション散歩で紹介しています。
交通博物館跡――駅から鉄道文化の拠点へ
昭和11年(1936)、万世橋駅に鉄道博物館が移転しました。戦後の昭和23年(1948)には交通博物館と改称し、鉄道だけでなく自動車、船舶、航空機など交通全般を扱う博物館として親しまれます。
交通博物館は平成18年(2006)に閉館しました。鉄道を中心とする展示機能は、翌年にさいたま市で開館した鉄道博物館へ受け継がれます。万世橋では、駅としての役割を終えた場所が博物館となり、さらに商業施設へと姿を変えました。
秋葉原貨物駅と佐久間橋跡――駅の中まで船が入った時代
明治23年(1890)に開設された秋葉原駅は、当初は貨物を扱う駅でした。構内には神田川から掘割が引き込まれ、船溜が設けられます。鉄道で届いた荷物を船へ、船で届いた荷物を鉄道へ積み替えられる、水運と鉄道を結ぶ物流拠点でした。

掘割には佐久間橋と秋葉橋が架けられていました。水路が埋め立てられた後も佐久間橋の親柱が残り、現在の道路の下にかつて水路があったことを伝えています。秋葉原の貨物駅と運河については、岩本町から浜町川の暗渠を歩く記事でも、佐久間橋跡から浜町川へ続く水路の歴史を紹介しています。
なぜ秋葉原は電気街になったのか
戦後、神田小川町から須田町にかけての靖国通り周辺には、ラジオ部品や電気部品を扱う露店が集まりました。昭和25年(1950)頃、露店整理によって商人たちが秋葉原駅周辺のガード下などへ移り、ラジオ部品店が集積します。
高度経済成長期にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電販売が拡大し、秋葉原は全国的な電気街になりました。その後はオーディオ、パソコン、電子部品、ゲーム、アニメ、アイドル文化へと扱う商品と来街者を広げていきます。現在の街の個性は、戦後に突然生まれたものではなく、人と物が集まる交通・物流の拠点だった土地の歴史の上に育ちました。
散歩の途中で見つけた秋葉原らしい風景
歴史スポットの間では、秋葉原らしい変わった自動販売機にも立ち寄りました。江戸の街道や市場、明治の鉄道遺構をたどった直後に現在の街の風景を見ると、短い距離の中に異なる時代が同居していることがよく分かります。


秋葉原を歩くと江戸から現代までがつながる
筋違門を通った街道、神田川の舟運、神田の青果市場、秋葉原貨物駅、万世橋駅、戦後の電気街。秋葉原では、時代ごとに交通と商業の中心が形を変えながら受け継がれてきました。
駅前の高層ビルから神田川へ歩き、旧町名や橋の親柱、赤レンガ高架橋を見ていくと、現在の街並みの中に過去の都市構造が残っています。電気街として知られる秋葉原を、江戸の街道と物流からたどる歴史散歩です。
主な参考資料
- 千代田区「万世橋地域のまちづくり」
- 千代田区「町名由来板:神田旅籠町」
- 東京都中央卸売市場「市場の歴史」
- JR東日本「旧万世橋駅遺構整備・活用に関する資料」

