嘉永3年(1850)の「芝高輪辺絵図」は、現在の芝・三田・高輪から品川宿手前まで、江戸の南玄関を描いた切絵図です。海沿いを東海道が走り、その西側には寺院、大名の中屋敷・下屋敷、坂道が連なります。江戸を出入りする街道と、幕末史の舞台が一枚に重なっています。
芝高輪辺絵図の基本情報
正式題は「芝三田二本榎高輪辺絵図」。景山致恭が著し、金鱗堂尾張屋清七が刊行しました。東京都立図書館所蔵本は嘉永3年(1850)。現在の港区三田・芝・白金・高輪と、品川区北部にまたがる範囲を描きます。

地図の見方――海岸線と東海道を軸にする
この図では、まず海岸線と東海道を探すと位置関係をつかみやすくなります。現在は埋立で海岸線が東へ移っていますが、江戸時代の東海道は海に近い場所を通りました。沿道には高輪北町・中町・南町などの町人地が続き、その背後に寺院と武家屋敷が広がります。
白地は武家地、灰色は町人地、赤は寺社です。高輪は街道町であると同時に、大名の中屋敷・下屋敷と寺町が並ぶ江戸外縁の住宅地でもありました。
高輪大木戸――江戸の南の境界
高輪大木戸は、江戸府内の南側の出入口を示す施設でした。東海道を往来する人々はここを通って品川宿へ向かいます。木戸は夜間の通行管理や都市境界の役割を持ち、現在も石垣の一部が残っています。
地図上で高輪大木戸から南へ進むと、江戸の中心市街から宿場へ移る感覚がわかります。現在の国道15号と重なる部分もあり、街道の線は近代以降の幹線道路へ引き継がれました。
泉岳寺――赤穂浪士の墓所
泉岳寺は曹洞宗の寺院で、赤穂藩主浅野家の菩提寺です。元禄15年(1702)12月、吉良邸へ討ち入った赤穂浪士は、事件後に泉岳寺へ向かい、主君浅野長矩の墓前に報告したと伝わります。
芝高輪辺絵図で泉岳寺を確認すると、討ち入りの舞台だった本所から遠く離れた江戸南部まで移動した距離感がわかります。事件を地点ではなく都市の中の移動として理解できるのが切絵図の強みです。
大名屋敷と三田・高輪の武家地
東京都立図書館は、この地域に大名の中屋敷・下屋敷が多いことを指摘しています。上屋敷が江戸城近くに置かれるのに対し、中屋敷・下屋敷はより周辺部に配置され、家族の住居、避難、庭園、物資保管などに用いられました。
高輪の台地と海岸低地には坂が多く、現在も伊皿子坂や魚籃坂など地形に沿った道が残ります。武家屋敷の大区画と寺院群を坂道が結ぶ景観は、現代の港区の道路網にも痕跡を残しています。
薩摩藩邸と江戸城無血開城
地図南側の東海道沿いには薩摩藩の下屋敷がありました。東京都立図書館は、西郷隆盛と勝海舟による江戸城無血開城に関する会談が、この薩摩藩邸で行われたとされることを紹介しています。
慶応4年(1868)、新政府軍の江戸総攻撃が迫る中で交渉が進み、江戸城は大規模な市街戦を経ずに引き渡されました。街道沿いの下屋敷が、幕府から明治政府へ政権が移る局面の舞台になりました。
明治の海岸線と鉄道
明治5年(1872)に新橋―横浜間の鉄道が開業すると、高輪付近では海上に築堤を設けて線路が通されました。近年発掘された高輪築堤は、当時の海岸線と鉄道建設の関係を具体的に伝えます。江戸切絵図の海を見た後に近代地図を見ると、海だった場所に鉄道と市街地が伸びた変化が明瞭です。
現在に残るもの
泉岳寺、高輪大木戸跡、旧東海道の道筋、寺院群、坂道は現在も確認できます。高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発によって景観は大きく変わりましたが、地形と街道の線を基準にすると江戸の位置関係を重ねやすい地域です。
関連する古地図:芝愛宕下絵図では東海道を北へ、麻布絵図では三田・高輪西側の武家地と寺町を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。
