嘉永7年(1854)の「巣鴨絵図」は、現在の巣鴨、西巣鴨、駒込北部周辺を描く切絵図です。江戸から板橋宿へ向かう中山道、寺社、武家地、村落、植木で知られた染井が連なり、都市から街道沿いの郊外へ移る景観を読み取れます。
巣鴨絵図の基本情報
尾張屋清七刊行の江戸切絵図で、国立国会図書館所蔵本は1854年の資料です。現在の豊島区巣鴨・駒込と北区寄りの地域を中心に、中山道とその周辺の寺社・屋敷・村を描きます。

地図の見方――中山道を一本の軸として追う
江戸から北西へ延びる中山道を見つけると、巣鴨の位置関係をつかみやすくなります。道は板橋宿へ続き、その沿道に町場や寺院が形成されました。現在の巣鴨地蔵通り周辺にも旧街道の流れが残っています。
中心部の切絵図に比べると、屋敷や寺社の間に広い土地があり、江戸市街と近郊農村の境界に近いことがわかります。
江戸六地蔵と眞性寺
中山道沿いの眞性寺には江戸六地蔵の一つがあります。豊島区の資料では、高さ約2.7メートルの地蔵が、中山道を旅する人々の安全を祈る存在として紹介されています。
街道の出入口に近い寺社は、旅人にとって信仰と休息の場所でした。現在の「おばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨地蔵通りの寺社参詣のにぎわいにも、街道と信仰が結びついた歴史が重なります。
染井の植木文化
巣鴨と駒込の間にある染井は、江戸後期に植木職人が集まった地域です。幕末にはここでソメイヨシノが育成され、当初「吉野桜」として販売されたと豊島区は紹介しています。
江戸近郊では園芸が大きな文化となり、植木屋の庭は植物を求める人々の見物場所にもなりました。都市の需要を受けて郊外に園芸産業が発達したことが、巣鴨・染井の地域性を形づくります。
武家地と農村が接する場所
巣鴨周辺には大名・旗本の屋敷地と村落が混在しました。江戸中心部の武家地とは違い、屋敷の周囲に畑や植木地が広がる郊外的な環境です。
大名の抱屋敷や下屋敷は、広い土地を必要とする庭園や避難・休養の機能を持ちました。明治以降、その大区画が墓地や公共施設、住宅地へ転用されます。
染井霊園――旧大名屋敷から近代墓地へ
豊島区によると、明治政府は明治5年(1872)、旧播州林田藩建部家の抱屋敷跡を神葬祭地とし、明治7年に共葬墓地として染井霊園を開きました。
江戸の広い武家地が、近代東京の公共墓地へ転用された例です。現在はソメイヨシノの名所としても知られ、江戸の植木文化と明治の墓地制度が同じ地域に重なっています。
明治から現在へ――鉄道が巣鴨を変える
山手線の駅が開業すると巣鴨は住宅・商業地として市街化が進みました。旧中山道の商店街は参詣客を集め、現在の巣鴨地蔵通りへ発展します。街道の線と寺社が残ったことで、江戸の交通軸が近代商業の軸にもなりました。
関連する古地図:駒込絵図では六義園・染井を、根岸谷中辺絵図では東側の谷中・日暮里方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。
