大久保絵図を徹底解説|鉄砲百人組・百人町・大久保を古地図で読む

嘉永7年(1854)の「大久保絵図」は、現在の大久保、百人町、新大久保周辺を描く切絵図です。江戸中心部から西へ離れたこの地域には、幕府の鉄砲組百人隊の組屋敷が置かれました。現在の「百人町」という地名の由来から、江戸の軍事組織と郊外の土地利用を読み解けます。

大久保絵図の基本情報

尾張屋清七刊行の江戸切絵図で、国立国会図書館所蔵本は1854年の資料です。現在の新宿区大久保・百人町周辺を中心に、武家地、村落、街道や農地を描きます。

尾張屋版江戸切絵図「大久保絵図」
『大久保絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――組屋敷と郊外を見分ける

大久保絵図では、江戸中心部のように町人地が密集せず、武家の組屋敷と村落的な土地が広がります。現在の新大久保駅や大久保駅の位置を重ねると、鉄道開通以前の郊外景観との違いが際立ちます。

注目したいのはまとまった武家地です。個々の旗本屋敷だけでなく、同じ役目を担う幕臣たちが集団で住む「組屋敷」が地域の性格を決めました。

鉄砲組百人隊――百人町の名の由来

新宿区史年表では、慶長7年(1602)に後の大久保鉄砲百人組が大久保に組屋敷を与えられたとされています。鉄砲組百人隊てっぽうぐみひゃくにんたいは幕府の鉄砲部隊で、現在の百人町という地名はこの集団に由来します。

百人組は江戸城の警備などを担い、将軍の寛永寺・増上寺・日光参詣にも随行しました。江戸城から離れた大久保にまとまって居住しながら、必要に応じて城や行列の警護へ出動する軍事組織でした。

なぜ鉄砲隊が大久保に置かれたのか

大久保は江戸城西側の郊外に位置し、まとまった屋敷地と訓練・生活の空間を確保しやすい地域でした。甲州街道や周辺道路を通じて城下へ移動できる一方、市街中心部ほど土地が密集していません。

江戸の軍事力は城内だけに置かれたのではなく、四谷、青山、大久保など周辺部の組屋敷にも分散していました。切絵図を複数枚並べると、江戸城を取り巻く幕臣配置を広域で見ることができます。

大久保のつつじは百人隊の内職から

新宿区は、大久保地区のつつじ栽培を鉄砲組百人隊が内職として始めたと紹介しています。戦のない時代、火薬材料の木炭などを肥料に利用し、つつじを栽培したと伝えられます。

大久保のつつじは明治以降も名物となり、見物客を集めました。軍事集団の副業が地域の園芸文化へ変わり、現在も新宿区の花がつつじであることに歴史がつながります。

村と武家地が接した大久保

組屋敷の周辺には農村的な土地が広がり、江戸市中へ野菜や農産物を供給しました。武士だけの町ではなく、農民や寺社、街道利用者が共存する都市周縁でした。

この低密度な土地利用は、明治以降に鉄道や住宅地が入り込む余地にもなります。現在の高密度な大久保・百人町とは対照的です。

明治から現在へ――鉄道と国際色のある街へ

明治以降、山手線や中央線の駅が開業し、大久保は急速に市街化しました。軍事組織の屋敷地は住宅や学校などへ転用され、20世紀には人口密集地となります。

現在の新大久保は多文化的な商業地として全国的に知られます。一方、百人町の地名や皆中稲荷神社周辺には鉄砲百人組の記憶が残り、毎年の鉄砲隊行列などで地域史が継承されています。

関連する古地図:内藤新宿千駄ヶ谷絵図では南側の内藤新宿と甲州街道を、市ヶ谷牛込絵図では東側の牛込・市ヶ谷方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。

参考資料