嘉永6年(1853)の「今戸箕輪浅草絵図」は、浅草寺の周辺から花川戸、猿若町、今戸、山谷、新吉原、三ノ輪、小塚原方面までを描いた尾張屋版の江戸切絵図です。浅草の信仰と盛り場、隅田川の水運、芝居町、遊郭、窯業、銭座、被差別身分支配の拠点、寺町、武家地、刑場、街道口が同じ一枚に収まります。
今戸箕輪浅草絵図の基本情報
尾張屋清七刊行の江戸切絵図で、国立国会図書館所蔵の対象図は嘉永6年(1853)の資料です。CODH「江戸マップ」では、この図から520地点の地名・施設情報が整理されています。切絵図には現代地図と異なる方位設定があり、距離にも歪みがあります。浅草寺の北東には猿若町の芝居小屋群があり、その北側に新吉原、日本堤、山谷、今戸、浅草新町が続きます。隅田川沿いには渡し、今戸焼・瓦焼、銭座があり、北側には三ノ輪、小塚原、千住大橋、西側には入谷、根岸、寺院群、武家屋敷が広がります。

浅草寺とその北側
浅草寺は、CODHで「金龍山浅草寺坂東第十三番目聖観世音」として登録されています。周囲には寺社名と町名が密集し、北側へ複数の盛り場と生活空間が続きます。

浅草寺の北側には、現在の道路名や町名からは把握しにくい細かな寺院、門前、町地が連続します。切絵図では大寺院の境界と小さな町区画が同じ画面に並ぶため、浅草寺を単独の名所として見るより、周囲の町を引き寄せる都市核として捉えられます。
花川戸と隅田川沿岸――橋、渡し、町地
浅草寺の東側には「浅草花川戸町」があり、川岸には「竹町渡シ」と「大川橋 長サ七十八間 東橋ト云」が記されています。さらに内側には姥ヶ池もあります。花川戸周辺には、町地、渡河地点、橋、池が近接していました。

「長サ七十八間」という数量まで書き込む点は、切絵図が観光名所の案内に加えて、移動に必要な情報を持つ都市地図だったことを示します。花川戸から北へ川沿いをたどると、今戸、橋場、渡船場へつながります。浅草東側では、陸路と水路を別々に見るより、町地と河岸交通を一体として追う方が地図の構造を理解できます。
聖天町・聖天横町と北新町――猿若町の隣で進んだ新道計画
花川戸の北側には「浅草聖天町」「聖天横町」があり、原図には聖天横町付近について「里俗ニ北新町ト云」と記されています。正式町名に加えて地域の俗称まで書き込まれているため、幕末の浅草で実際に使われた細かな地名を確認できます。
天保15年(1844)の『市中取締類集』には、浅草聖天町で新道を設ける計画が記録されています。猿若町二丁目で家屋が建て込み、火災など非常時の退避が難しかったため、家屋の模様替えに合わせて新道を設けるという出願でした。芝居町として発展した猿若町の周囲では、隣接する聖天町でも人口と建物の集中に対応する道路整備が課題になっていました。
猿若町――江戸三座が集まった芝居町
浅草寺の北東には猿若町があります。CODHには川原崎座、猿若三丁目、猿若二丁目、市村座、中村座、猿若町、薩摩座、結城座が個別に採録されています。台東区の解説では、天保末期から明治にかけて一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座があり、芝居町を形成したとされています。
地図上では劇場名が町名と同じ密度で書き込まれています。猿若町は、複数の興行施設がまとまる計画的な盛り場として読むことができます。浅草寺の参詣客、芝居町、隅田川沿岸が近い距離に並ぶため、浅草北部の人の流れを考える際の重要地点です。
今戸町・山谷堀・今戸焼――原図に「此辺瓦焼ナリ」とある
今戸周辺では「浅草今戸町」「今戸橋」「◯山谷堀ト云」が確認できます。今戸町、山谷堀、隅田川側には町地と水路が近接していました。

山谷堀は台東区の公式観光情報で、王子の音無川から隅田川へ注ぎ、江戸期には猪牙舟で吉原方面へ向かう水路として利用された歴史が紹介されています。現在は埋め立てられ、山谷堀公園として地形の記憶を残しています。
今戸焼と「此辺瓦焼ナリ」
今戸焼は、台東区の文化財資料によれば、江戸時代から明治時代を中心に今戸と周辺で製造販売された焼き物です。瓦、日常生活道具、土人形、工芸品などが作られ、幕末には製造家が50軒余りあったとされています。今戸神社の石造狛犬台座には宝暦2年(1752)に寄進した今戸焼職人らの名が刻まれ、火鉢屋、土器屋、焙烙屋などの所属も確認されています。
この切絵図には、橋場・今戸側に「此辺瓦焼ナリ」という注記があります。個々の窯位置を示す記号や名称を伴わず、この一帯で瓦焼が行われていたことを示す地域注記です。国立国会図書館の橋場・今戸解説も、今戸焼の人形や瓦を江戸名物として挙げ、錦絵に窯と煙が描かれた例を紹介しています。
橋場の渡し、銭座、都鳥
今戸の北東、浅草橋場町の川岸には「船渡場向島エ渡ル」とあり、隅田川を横断する渡船場が明記されています。その近くには「銭座」と「都鳥ノ名所ナリ」も並びます。物流、生産、貨幣、名所が同じ川岸に重なり、橋場が複数の都市機能を担う河岸だったことが分かります。
東京都立図書館の調査では、浅草橋場で寛永13年(1636)に寛永通宝の鋳造が始まり、明暦2年(1656)にも浅草で鋳銭が行われ、天保6年(1835)には橋場町に鋳造所が増設されました。銭座は需要に応じて期間を限って設けられる仕組みでした。1853年の切絵図に「銭座」とある事実と、その年の操業状況は分けて扱う必要があります。
浅草新町と弾左衛門――地図に刻まれた近世身分制
今戸町の近くには、原図に「穢多村 俗ニ新町ト云」と記された地点があります。「穢多」は近世史料に現れる歴史的な身分呼称で、本文では史料引用として扱います。地域名は浅草新町、住民については近世身分制のもとで被差別身分とされた人々として扱います。CODHも学術・研究目的で原資料の表記を保持しています。
新町の周囲には長昌寺、勝雲寺、遍照寺、安盛寺、瑞泉寺、源寿寺などが並びます。地図上の新町は、今戸町や寺院群と連続する都市空間の中に位置します。近世都市の身分秩序が、町地や寺社と同じ地理空間の中に組み込まれていたことを具体的に示す地点です。
塚田孝の研究では、浅草新町は幕府から「穢多頭」に任じられた弾左衛門の行政的拠点で、関東の被差別身分支配と結びついていました。新町には少なくとも10の宿泊施設「新町宿」があり、その半数以上が行政的な機能を担ったとされます。訴訟時の文書作成や代理、内済の取り扱いなども行われ、江戸と関東各地の支配関係をつなぐ場として機能しました。浅草新町を理解する際は、皮革生産に加えて、この行政・司法的な機能も重要です。
山谷町――町地、寺社、新吉原への接続
CODHでは浅草山谷町が複数の区画に記録され、その北側には山谷浅草町、小塚原町、仕置場へ続く地名が配置されています。山谷は、浅草寺と今戸、新吉原、小塚原の間に位置する町地でした。

山谷町周辺には寺院が連続し、北側の小塚原には刑罰施設、南西側には新吉原、西側には龍泉寺町が位置します。現在の町境だけで地図を切り分けるより、周囲の施設名と道筋を追う方が、江戸北東部の機能配置を具体的に把握できます。
新吉原――日本堤、五十間道、大門から内部の町割へ
この切絵図は新吉原の入口から内部まで細かく記録しています。CODHには五十間道、衣紋坂、惣名新吉原町、江戸町一丁目・二丁目、角町、揚屋町、京町一丁目・二丁目、市場、大門、中ノ町、日本堤が採録されています。

国立国会図書館の解説では、新吉原へは日本堤から衣紋坂を通り、堤からの見通しを遮るよう曲がった五十間道を経て大門から入りました。切絵図上の道筋と町割を追うと、入口、導入路、門、中央通り、複数の町で構成された都市空間として読めます。
待合辻・西河岸・市場――新吉原内部の細かな空間
原図には大門や中ノ町、江戸町、角町、揚屋町、京町に加えて、「待合辻」「西川岸ト云」「市場」という細かな名称も記されています。待合辻は大門を入った側の場所、西河岸は遊郭西側の堀沿い、市場は新吉原の生活と営業を支える物資供給に関わる場所でした。
新吉原は中央の中ノ町だけで均質に構成されていたわけではなく、表通り、各町、河岸側、出入口周辺で空間の性格が異なりました。原図に残る待合辻・西河岸・市場は、遊郭内部に接客、居住、流通を支える複数の機能が配置されていたことを具体的に示しています。
新吉原の外側に記された「非人」――車善七と浅草溜
新吉原の部分図を廓外まで見ると、図上の左側に「非人」の文字があり、その近くに「溜」と記された場所があります。「非人」は近世身分制の史料に現れる歴史的呼称です。ここでは原図表記として示し、その後は非人頭・車善七と浅草溜という制度史上の名称で説明します。
車善七は、江戸浅草の非人頭が代々名乗った名です。寛文6年(1666)以降、新吉原の西南に隣接する約900坪の替地を与えられ、配下の人々が暮らす小屋を含む支配拠点を構えたとされています。切絵図に「非人」と記された区画が新吉原の外側に接する配置は、この善七支配の空間と重なります。
「溜」は、病気の囚人や無宿人などを収容・療養させる施設で、浅草では車善七が管理を担いました。研究では、浅草溜に町医師が置かれ、毎朝の巡回診察や投薬が行われたことも確認されています。さらに天保14年(1843)には浅草溜の背後に無宿非人寄場が設けられ、東京大学史料編纂所が紹介する『市中取締類集』には嘉永6年(1853)6月までの記録が残ります。切絵図の刊行年と同じ1853年にも、この一帯では溜と寄場をめぐる行政実務が続いていました。原図の「非人」表記は居住・支配空間、無宿非人寄場は浅草溜背後に置かれた施設として区別して読むと、地図と制度史の対応が明瞭になります。
善七配下の人々には、物乞い、紙くず拾い、牢屋人足などの生業や役務があり、無宿人・野非人の取締りや都市の治安維持にも関わりました。浅草溜の管理もその役務の一部です。新吉原の外側に記された「非人」と「溜」は、遊郭の周囲に治安、収容、救療を担う制度が配置されていたことを具体的に示します。
文化9年(1812)の火災について、国立歴史民俗博物館の研究報告は火元を「龍泉寺村非人頭善七小屋」と整理し、新吉原全町が焼失したと記録しています。1853年の切絵図より約40年前の出来事で、善七の支配地と新吉原が実際に近接していたことを示す具体的な事例です。
今戸側の浅草新町では弾左衛門が被差別身分支配の拠点を構え、新吉原の外側では車善七が非人頭として配下を統轄しました。近世の「穢多」と「非人」には支配組織や役務の違いがあり、享保6~7年(1721~1722)の訴訟後、車善七は弾左衛門の支配下で活動しました。この切絵図では、浅草新町と新吉原脇の「非人」・「溜」が別々の場所に描かれています。二つの地点を見比べることで、江戸の身分秩序が都市空間の中にどのように配置されていたかを具体的に追えます。
五十間道と蔦屋重三郎
台東区の蔦屋重三郎資料によると、蔦重は20代で五十間道に書店「耕書堂」を開きました。1853年の地図は蔦重の時代より後ですが、五十間道という場所そのものが残り、出版文化と新吉原の地理を同じ地点で結びつけられます。遊郭史に加え、黄表紙、浮世絵、出版流通の舞台としてこの道を読むことができます。
三ノ輪――江戸北端の町場、武家地、寺社
三ノ輪について、CODHは「下谷三ノ輪町[ ]」と翻刻し、原本の継ぎ目のため一部を判読不能としています。近くには下谷三輪町のほか、宗対馬守、大関信濃守、加藤大蔵少輔、石川日向守の屋敷地も並びます。

台東区の都市計画資料は、江戸期の三ノ輪を奥州街道の江戸の玄関口の一つとして整理しています。切絵図では町場と道筋に加えて武家屋敷や寺院が近接し、江戸北端は町、武家地、寺社、交通路が混在する複合地域として描かれます。
長国寺鷲明神と現在の酉の市
三ノ輪の南側、龍泉寺町周辺には長国寺鷲明神、竜泉寺、千束稲荷が記されています。現在、台東区の酉の市は鷲神社と長國寺で毎年11月の酉の日に開かれます。切絵図上の「長国寺鷲明神」は、現在の酉の市につながる場所の歴史的な位置を示します。
浄閑寺――1853年の地図と1855年の記憶
三ノ輪近くには浄閑寺も記されています。現在の浄閑寺は、安政2年(1855)の大地震で亡くなった新吉原の遊女たちが葬られたと伝わり、「投込寺」の名でも知られます。この切絵図は嘉永6年(1853)なので、その大地震より2年前の浄閑寺を描いています。1853年の寺院表示と、1855年以後に形成された歴史的記憶は年代が異なります。
小塚原――千住大橋と仕置場、『解体新書』の背景
さらに北へ進むと小塚原町、千住大橋、仕置場が現れます。街道交通の要衝と刑罰施設が近い範囲に描かれています。
荒川区の資料によると、明和8年(1771)、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らは小塚原で行われた腑分けを見学し、オランダ語解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳へ進みました。安永3年(1774)には『解体新書』が刊行されます。1853年の切絵図に記された「仕置場」は、刑罰史と日本の近代医学史の双方につながる場所です。
火葬寺群――仕置場とは別にあった小塚原の葬送施設
小塚原付近には、原図に「火葬寺」と記された区域があります。これは仕置場とは別の葬送施設で、近世の地誌では複数の寺院が火葬に関わる区域を形成していたことが確認できます。東京都公文書館が公開する『東京市史稿』には、寛政3年(1791)の「天台宗火葬堂場小塚原安楽院再建助成願」が収録され、18世紀末にも小塚原の火葬堂場が行政記録に現れます。
小塚原には刑罰施設だけでなく、一般の葬送と火葬に関わる施設も集まっていました。切絵図の「仕置場」と「火葬寺」を分けて読むことで、同じ地域に異なる性格の施設が並存していたことが分かります。
藤堂家抱屋敷・入谷・根岸――西側の複合的な土地利用
地図の西側には「藤堂家抱屋敷」が記されています。その周囲には真源院鬼子母神、「此辺入谷ト云」、小野照崎社、さらに西寄りに「此辺一面根岸ト云」が並びます。大規模な屋敷地の周囲に寺社と地域名が重なり、下谷・入谷・根岸側の複合的な土地利用が見えます。

入谷では現在、鬼子母神と朝顔市の組み合わせがよく知られます。台東区によると、入谷で植木屋が朝顔作りを始めて評判になったのは明治初期です。1853年の地図には真源院鬼子母神と「此辺入谷ト云」がすでにありますが、後世の朝顔名所化はこの地図より後の出来事です。現代の名物を江戸期へそのまま投影せず、地図の年代と地域史の年代を重ねて読むと変化が見えます。
御切手町――切絵図の町名を裏付けた豊住町遺跡
入谷側には「御切手町」の町名も記されています。台東区の豊住町遺跡発掘調査では、この一帯が江戸時代前期には寺院地で、中頃から幕臣「御切手同心」の敷地と拝領町屋になったことが確認されています。発掘では区画溝、建物基礎、地下室、井戸などの遺構が見つかりました。
出土した木製品の墨書には「御切手町二丁目」という町名も残っていました。さらに土製小仏像は、文政年間の『文政町方書上』にある下谷御切手町の記録と対応します。切絵図上の町名が、地下遺構と出土文字資料の双方から確認できる例です。
明治以降――今戸・入谷・三ノ輪の変化
明治以降、今戸周辺では都市化が進み、震災や戦災も重なりました。台東区によると、今戸焼を続けた職人の多くは隅田川東岸や中川・荒川流域などへ移転しました。現在も今戸では今戸焼の製作技術が継承されています。
入谷では明治初期から朝顔栽培が盛んになり、三ノ輪方面では鉄道、道路、住宅の増加によって景観が大きく変わりました。一方、今戸、山谷、入谷、三ノ輪などの地名は残り、CODHの現代位置合わせ地図を使うと江戸期の地名と現在の地域を対応させて確認できます。
関連する古地図
浅草御蔵前辺図では浅草南側の蔵前を、根岸谷中辺絵図では西側の谷中・根岸を続けて読めます。とくに「此辺一面根岸ト云」という記載は、隣接する切絵図との境界を考える手掛かりです。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から、ほかの地域の切絵図にも移動できます。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション「今戸箕輪浅草絵図」
- CODH「江戸マップ 今戸箕輪浅草絵図」
- CODH「溜」
- 東京大学史料編纂所『大日本近世史料 市中取締類集二十七』
- 塩見鮮一郎『江戸の非人頭車善七』
- 桑原治雄・板原和子「江戸時代後期の精神障害者の処遇(5)」
- 国立歴史民俗博物館研究報告「『梅本記』――嘉永二年新吉原梅本屋佐吉抱遊女付け火一件史料の紹介」
- 国立国会図書館「橋場・今戸」
- 国立国会図書館「新吉原」
- 台東区「今戸焼作り」
- 台東区「石造狛犬」
- 台東区公式観光情報「山谷堀」
- 台東区公式観光情報「江戸猿若町市村座跡碑」
- 台東区「蔦屋重三郎を知る」
- 東京都立図書館レファレンス「浅草橋場の銭座」
- 塚田孝「弾左衛門支配と新町宿」『史学雑誌』92巻7号
- ゆいの森あらかわ「回向院(小塚原回向院)」
- 荒川区「浄閑寺」
- 台東区「酉の市」
- 台東区「入谷朝顔まつり・ふるさと交流物産展」
- 台東区都市計画マスタープラン「根岸・入谷地域」
- 東京大学史料編纂所『大日本近世史料 市中取締類集十』
- 東京都公文書館『東京市史稿 産業篇第37』
- 台東区「豊住町遺跡出土資料 一括」
