なぜ庄内藩は戊辰戦争で強かった? 本間家・酒田商人・洋式兵器

庄内藩二番大隊を率いた酒井了恒(酒井玄蕃)

戊辰戦争の東北戦線で、庄内藩は清川口、天童、新庄などで勝利を重ね、秋田領へ深く進みました。周辺の旧幕府側諸藩が苦戦するなか、庄内藩の戦いぶりは際立っています。

その強さを「本間家が金を出したから」「最新兵器を持っていたから」と一つの理由にまとめると、実態を見失います。庄内藩には江戸での警備経験、組織化された大隊、優れた指揮官、酒田の商業資本、洋式兵器の調達網、町兵・農兵・人足まで動員する地域社会がありました。

庄内藩は戦争終盤、椿台・刈和野で大きな損害を受け、越後側の関川も新政府軍に占領されました。戦場で勝利を重ねても、周辺諸藩の降伏と新政府軍の増援によって戦略的な孤立が深まっていきます。

シリーズ「本間家から見る東北史」|現在地:第4回 戦争編

  1. 総合編:酒田本間家の260年
  2. 物流編:最上川・北前船・紅花と酒田
  3. 金融編:上杉鷹山・米沢藩と豪商
  4. 戦争編:庄内藩・戊辰戦争と酒田商人(現在地)
  5. 地主編:大地主本間家・小作争議・農地改革

庄内藩はどんな藩だったのか

庄内藩しょうないはんは、現在の山形県庄内地方を治めた酒井家の藩です。1622年に酒井忠勝が入部し、鶴ヶ岡城を藩政の中心としました。幕末には庄内の幕府領を加増され、石高は17万石となっています。

庄内藩の居城だった鶴ヶ岡城跡の水堀
鶴ヶ岡城跡の水堀(撮影:掬茶/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

庄内は米どころであり、酒田湊を通じて日本海交易にもつながっていました。最上川流域の米や商品が酒田へ集まり、北前船などで各地へ運ばれます。藩の城下町である鶴岡と、巨大な商業都市である酒田が並び立つ地域でした。

この経済構造は戊辰戦争でも意味を持ちます。庄内藩は酒田商人の資金、港を通じた調達、町人や農民の労働力まで戦争へ動員できました。酒田の物流については、「なぜ酒田は栄えた? 最上川・北前船・紅花がつないだ山形」で詳しく紹介しています。

戦争前から江戸で実務経験を積んでいた

庄内藩の軍事力を考えるうえで重要なのが、幕末の江戸市中取締です。1863年、庄内藩は幕府から江戸の治安維持を命じられました。1865年からは庄内藩が一手で市中取締を担うようになります。

庄内藩の指揮下には新徴組しんちょうぐみも入りました。将軍警護のために集められた浪士組の後身で、約160人規模に再編され、庄内藩士とともに江戸の繁華街を巡回しました。別系統の砲術集団は、のちに新整組となります。

鶴岡市の歴史ハンドブックは、この江戸市中取締で庄内藩士が実地の警備、武装集団への対応、幕府との交渉を経験し、戊辰戦争で他藩を圧倒する力を養ったと説明しています。戦争が始まってから急に兵士を仕立てた藩とは、経験の蓄積に差がありました。

薩摩藩邸焼き討ちから戊辰戦争へ

1867年12月、江戸では薩摩藩と幕府側の緊張が高まりました。庄内藩は幕府の命を受け、薩摩藩邸焼き討ちに参加します。庄内藩側では中老石原倉右衛門いしはら くらえもんらが作戦に関わりました。

直後の1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが始まり、旧幕府軍は敗北します。新政府は会津藩と庄内藩を討伐対象とし、東北諸藩へ出兵を求めました。仙台藩・米沢藩などは会津・庄内の救済を求め、やがて奥羽越列藩同盟へつながる動きが生まれます。

庄内藩は江戸市中取締と薩摩藩邸焼き討ちを通じ、戊辰戦争以前から幕末政治の最前線へ深く入り込んでいました。

庄内藩の主力は四つの大隊に編成された

戊辰戦争で庄内藩の本隊は一番から四番までの大隊に編成されました。一番・二番大隊は山形内陸から新庄、秋田内陸方面へ、三番・四番大隊は秋田沿岸方面へ進みます。松山藩隊、町兵、農兵が主力部隊を支援しました。

一番大隊を率いたのが松平甚三郎まつだいら じんざぶろう、二番大隊を率いたのが酒井吉之丞さかい きちのじょうです。酒井吉之丞は玄蕃の通称で知られ、のちに酒井了恒と名乗ります。酒田市の資料では、連戦での活躍から新政府軍に「鬼玄蕃」と呼ばれたと紹介されています。

三番大隊には酒井兵部、四番大隊には松平権十郎らが立ち、複数の進撃路を分担しました。隊長の判断が前線で大きな意味を持ち、庄内藩は山形内陸・秋田内陸・秋田沿岸・越後国境という広い戦線で戦います。

清川口――181人が新政府軍を退けた最初の戦い

庄内藩と新政府軍が最初に直接戦ったのが、1868年4月24日の清川口の戦いきよかわぐちのたたかいです。清川は最上川沿いにあり、新庄方面から庄内へ入る重要な入口でした。

新政府軍は薩摩・長州・新庄などの兵で清川口へ進みます。庄内側では松平甚三郎が181人を率いて防備に当たり、早朝から銃撃戦となりました。酒田市資料には、狩川の農民が応援に駆けつけて大声を上げ、新政府軍に大援軍が来たと思わせたという記録も紹介されています。

新政府軍は撤退し、庄内藩は初戦に勝利しました。モルチール砲やミニエー系の銃、弾丸などが戦利品として記録されています。武士の組織力と地域住民の支援が最初の戦闘から重なっていました。

天童・新庄を突破し、庄内軍は秋田へ進んだ

清川口の勝利後、庄内軍は山形内陸へ動きます。二番大隊の酒井吉之丞さかい きちのじょうらは三番大隊と合流し、天童方面へ進軍しました。天童城を占領したものの、庄内藩首脳は他領への積極的な侵攻を認めておらず、部隊へ撤退を命じています。

その後、新庄藩が新政府側へ転じると、一番・二番大隊は進路を変更しました。新庄では一番大隊が正面攻撃で混乱する場面もありましたが、二番大隊が側面から奇襲し、激戦の末に新庄城は開城します。庄内藩側も討死9人、負傷33人を出しました。

新庄を越えた庄内軍は秋田領へ進み、横手城を落とし、大曲、花館、椿台方面へ戦線を広げました。庄内藩の強さが最も鮮明に見えるのが、この山形内陸から秋田へ続く進撃です。

本間家が出した10万両の軍資金

庄内藩の軍事力を資金面から支えた最大級の存在が、酒田の豪商本間家ほんまけです。6代本間光美ほんま こうびは戊辰戦争で庄内藩へ10万両の軍資金援助を行いました。

戦争には兵士の給養、銃や弾薬、輸送、馬、人足など大量の現金と物資が要ります。長期間にわたる広域戦は17万石の庄内藩財政に大きな負担をかけ、酒田に蓄積された商業資本がその不足を補いました。

本間家は江戸時代から商業、金融、地主経営を広げ、庄内藩や米沢藩などへの大名貸にも関わってきました。本間家がどのように巨大商家へ成長したかは、「酒田本間家とは? 北前船・米沢藩・戊辰戦争から見る豪商の260年」で詳しくたどっています。

スネル兄弟から洋式兵器を買う商人のネットワーク

本間家の役割は現金の提供に加え、兵器調達にも及びました。本間家文書には、武器商人のスネル兄弟から武器や弾丸を買い付けた記録が残っています。

兄ヘンリー・スネル、弟エドワード・スネルは、会津藩や長岡藩など旧幕府側へ武器を供給した外国商人です。本間光美と親族の本間耕曹ほんま こうそうが交渉に関わり、庄内藩へ洋式兵器を供給しました。

幕末の兵器市場では、銃を持つことと継続的に弾薬を調達することが同じくらい重要でした。江戸や港を通じて外国商人と取引できる本間家の商業ネットワークは、戦時には軍需調達網として機能しました。

庄内藩が新政府軍から奪った兵器も使用しながら戦ったことが、清川口の戦利品記録から分かります。購入、既存装備、戦場での鹵獲を組み合わせて火力を整えていました。

酒田の豪商が銃を持った「黄金隊」

戦争終盤の1868年8月、酒田では町人による部隊が組織されました。一番隊から六番隊までが銃隊、七番隊は大工町出身者による工兵隊です。副隊長にあたる半隊司令には、酒田の伝統的な有力商人層である三十六人衆さんじゅうろくにんしゅうが就きました。

五番隊は豪商を中心に編成され、「黄金隊おうごんたい」と呼ばれました。56人で構成され、武器も自費で購入しています。酒田の商人が軍資金を出す段階から、自ら銃を持って戦場へ向かう段階まで進んだのです。

町兵は秋田戦争や関川防衛戦へ送られました。商業都市の組織が、そのまま戦時の軍事組織へ組み替えられた例です。

農民も兵士・運搬人として戦争を支えた

庄内藩の総力戦を支えたのは町人に限りません。農村でも大砲組、農兵隊などが編成され、銃を持つ農民が戦場へ送られました。

さらに大量の人手が物資輸送へ動員されます。酒田市の資料によれば、1868年7月16日から8月10日までの約1か月に、7851人が人足として借り出されました。農民は藁や肥料も軍需物資として提供し、村には番屋や篝火が置かれました。

この負担は地域経済を圧迫します。酒田では船の入港や船員の上陸が規制され、祭礼も縮小されました。戦時の商業停滞、徴兵、軍資金、輸送労働が重なり、戦後には物価高や凶作も加わって民衆の生活を苦しめました。

「鬼玄蕃」酒井了恒の指揮力

兵器や資金があっても、それを戦場で使う指揮官が必要です。二番大隊を率いた酒井了恒さかい のりつねは、当時は酒井吉之丞、通称玄蕃として知られました。戊辰戦争時は26歳でした。

新庄城攻略では側面から攻撃し、秋田戦線でも進撃を続けます。酒田市資料は、連戦での活躍から新政府軍に「鬼玄蕃」と呼ばれたと伝えています。庄内藩には松平甚三郎、松平権十郎、酒井兵部、水野藤弥ら複数の指揮官がおり、各戦線を分担しました。

庄内藩には前線で判断できる隊長層が複数おり、大隊単位で別々の進路を動けたことが広い戦場での機動力につながりました。

秋田戦争で久保田城近くまで進んだ

秋田藩が新政府側へ転じると、庄内藩は秋田領へ進撃しました。一番・二番大隊は内陸を進み、横手城を攻略。大曲・花館でも戦闘を重ね、久保田城に近い椿台つばきだい方面まで迫ります。

しかし、新政府軍には増援が続々と到着しました。神宮寺周辺では戦線が長期化し、椿台では秋田藩と新政府軍が最終防衛線を構築します。庄内軍は攻略に苦しみ、討死43人を出しました。酒田の町兵・農兵にも14人の戦死者、24人の負傷者が出ています。

刈和野でも激戦となり、庄内藩は大きな損害を受けました。戦争前半から続いた勝利はここで止まり、軍は庄内へ撤退します。

庄内領にも新政府軍は入った――関川の激戦

庄内藩について「新政府軍を領内へ一兵も入れなかった」という語りが見られますが、酒田市と鶴岡市の資料からは越後国境の関川せきがわで激しい侵攻を受けたことが分かります。

北越戦争で長岡城と新潟港が新政府軍の手に落ちると、越後から庄内へ圧力が強まりました。9月11日、新政府軍は関川村を占領します。酒田市資料では、関川を庄内領で唯一占領された地域としています。

関川の防衛戦では庄内側が死者62人、負傷50人を出し、酒田町一番隊にも死者7人、負傷7人が出ました。庄内藩の防衛力は強固でしたが、戦争末期には新政府軍の兵力と補給力が国境へ集中していました。

強かった庄内藩は、なぜ降伏したのか

庄内藩の降伏を決めた最大の要因は、個々の戦闘の勝敗より東北全体の戦局でした。仙台藩や米沢藩が新政府へ降伏し、奥羽越列藩同盟の連携は崩れていきます。北越戦争でも旧幕府側が敗れ、新政府軍は秋田・越後の両方向から庄内へ圧力を強めました。

9月14日、秋田戦線の庄内軍に仙台・米沢降伏の報が届きます。16日、鶴ヶ岡城の重臣会議で旧藩主酒井忠発が降伏を決断し、17日から各部隊が撤退を始めました。

庄内藩は米沢藩の仲介も受けながら新政府との謝罪交渉を進め、9月27日に新政府軍が鶴岡へ入り、鶴ヶ岡城は開城しました。庄内藩の軍隊が戦場で強くても、周辺の味方を失った状態で戦争を継続することはできませんでした。

降伏後、本間家は再び巨額の金を出した

戦後、庄内藩には転封処分が命じられました。6代本間光美ほんま こうびは転封回避のため、さらに5万両を献金したと酒田市の戊辰戦争資料は記しています。結果として転封は中止され、庄内酒井家は地域に残りました。

庄内と新政府側の関係も戦後に大きく変化します。降伏処理に関わった西郷隆盛の対応を庄内側が高く評価し、藩主酒井忠篤や旧藩士が鹿児島へ学びに行きました。菅実秀らは西郷の言葉をまとめ、のちに『南洲翁遺訓』として伝えます。

戊辰戦争は庄内に大きな損害を残しましたが、旧藩士は明治期に松ヶ岡開墾などへ移り、新しい地域経営へ向かいました。幕末の軍事組織は、廃藩後には開墾や産業へ形を変えていきます。

庄内藩の強さは「地域の総力」で生まれた

庄内藩が戊辰戦争で勝利を重ねた背景には、複数の条件が重なっていました。

  • 江戸市中取締と新徴組を通じた実務・警備経験
  • 四つの大隊と複数の指揮官による組織的な運用
  • 本間家をはじめとする酒田商人の資金力
  • スネル兄弟などを通じた洋式兵器・弾薬の調達
  • 黄金隊などの町兵、農兵、輸送人足まで動員した地域社会
  • 庄内領の入口を押さえながら外へ展開できる地理と防衛体制

酒田の商業資本と国際的な武器市場、藩士の経験、農村の労働力が同じ戦争の中で結びつきました。江戸時代の藩は、武士に加えて地域経済と社会そのものを戦争へ組み込む存在でした。

本間家を起点に見ると、北前船で栄えた酒田の資本が幕末には兵器と軍資金へ姿を変え、その戦争を町人と農民まで支えていたことが分かります。庄内藩の強さは、幕末の東北で商業・軍事・地域社会がどれほど深くつながっていたかを示す事例です。

主な参考資料