大正東京・深川区を古地図で徹底解説|門前仲町・木場・清澄

大正期の東京市深川区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

深川区は現在の江東区西部にあたり、門前仲町、清澄、木場、深川周辺を含みました。大正期の深川は、江戸から続く門前町と水運の街に、工場・倉庫・労働者住宅が重なった東京東部の産業地域でした。

深川区図は「運河の都市」を読む

地図を見ると、道路と同じくらい水路が街を細かく区切っています。隅田川、小名木川、仙台堀川などの水路は物資輸送の幹線で、木材、米、石炭、工業原料などが舟で運ばれました。現在は埋め立てられた水路も多く、古地図だからこそ街の成立条件がよく分かります。

富岡八幡宮と門前仲町

富岡八幡宮や深川不動堂の周辺は、江戸時代から参詣客を集める門前町でした。飲食・商店・娯楽が発達し、近代になって工業化が進んでも地域の中心であり続けます。現在の門前仲町のにぎわいは、この門前町の歴史に根を持っています。

木場は江戸東京を支えた木材流通の拠点

深川木場には江戸市中で使われる木材が集積し、明治・大正期にも重要な木材市場として機能しました。水路に囲まれた土地は筏や材木の保管・運搬に適していました。現在の木場公園周辺の地名には、巨大な木材流通拠点だった記憶が残っています。

工場と住宅が水路沿いに増えた

近代化が進むと、輸送に便利な深川には工場や倉庫が増えました。工場の周囲には労働者住宅や商店が集まり、密集市街地が形成されます。都心の商業地区とは異なる、産業と生活が一体になった東京の姿を地図から読み取れます。

清澄周辺には庭園と大規模敷地があった

清澄庭園は三菱の岩崎家が整備した庭園を前身とし、震災後に東京市へ寄付されました。周囲の密集市街地の中で、庭園や大きな敷地は防災・避難の面でも重要な空間となります。

関東大震災と深川

1923年の関東大震災では深川区も大火災に見舞われ、街と資料の多くを失いました。江東区の資料によれば、震災時には編纂中だった『深川区史』の収集資料も焼失し、その後改めて資料収集が行われました。復興では道路・橋・運河沿いの市街地が再編され、昭和の深川へつながります。

現在に残る深川区の骨格

門前仲町の寺社・商業、木場の地名、清澄の緑地、縦横に走る運河は現在の江東区にも残ります。大正地図と現在を比べると、深川が「水辺の下町」であるだけでなく、東京の物流と工業を支えた都市だったことが分かります。

参考資料