大正10年(1921)5月6日第二版の「番地界入東京市拾五区区分図 深川区図」を、13枚の精細拡大図で読みます。現在の江東区西部にあたる深川区には、富岡八幡宮と深川不動堂の門前町、木場の木材流通、清住町のセメント工場、猿江・本村町のガス製造、東大工町の製綱・印刷、越中島の軍事・海運教育施設、洲崎の遊廓と養魚場が並んでいました。地図は関東大震災の約2年4か月前で、震災復興前の水路・工場・倉庫・町割りを具体的に確認できます。
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この地図は大正10年5月6日第二版
特別区協議会所蔵の「深川区図」は大正10年(1921)5月6日第二版です。ただし、この「番地界入東京市拾五区区分図」は明治44年(1911)9月30日初版の15枚組で、特別区協議会は明治後期の町名・番地を反映した地図と説明しています。図中にも「今後の変更については主管庁からの通報を受け、その都度訂正を加える」趣旨が記されており、第二版でも旧社名や旧施設名が残る場合があります。たとえば深川の東京製氷は1907年に日本製氷へ統合され、東京倉庫株式会社は1918年に三菱倉庫へ改称していますが、この地図では旧称が確認できます。したがって、図中の名称をすべて1921年5月現在の法人名とみなすのではなく、明治末から大正期に定着した施設名を含む地図として読む必要があります。
深川区の西側は隅田川、北側は本所区、東側は南葛飾郡方面に接し、区内には小名木川、大横川、仙台堀川、横十間川などの水路が縦横に通っていました。石炭、石油、木材、穀物、工業原料、製品を舟運で運べるため、水路沿いに工場、貯材所、貯炭所、倉庫が集中しました。
富岡八幡宮と深川不動堂の周辺は江戸以来の門前町です。富岡八幡宮は寛永4年(1627)に永代島へ創建され、その別当寺だった永代寺の門前町が発達しました。現在の「門前仲町」という町名は昭和期の町名整理後の名称で、1921年当時は黒江町、門前山本町など複数の町から成る地域でした。深川不動堂は成田山新勝寺の江戸出開帳を起源とし、明治11年(1878)に現在地へ境内を設けています。
この門前町には測量家・伊能忠敬の旧宅もありました。忠敬は深川黒江町に居住し、全国測量へ出発する際には富岡八幡宮へ参拝したと伝わります。寺社の門前、商家、町人住宅が集まる西部から、東側の木場の材木業、清住町のセメント製造、猿江・本村町の都市ガス、東大工町の製綱・印刷へと、深川区では宗教・商業・物流・工業が水路沿いに連続していました。
森下・猿江・東大工町の工業地帯
1. 森下・新安宅町周辺|硝子・製氷・専売塩局倉庫

北西部では「石田硝子製造所」「東京製氷会社」「専売塩局倉庫」などの文字が読めます。石田硝子製造所はガラスを製造する工場、東京製氷会社は機械で人工氷を大量生産する製氷施設です。家庭用冷蔵庫が普及する以前、氷は飲食だけでなく食品保存や医療にも欠かせませんでした。東京製氷は1905年に深川へ日産50トン規模の工場を建設し、1907年に機械製氷と合併して日本製氷となった後、深川工場は第2工場になりました。地図に旧称の「東京製氷会社」が残ることは、この図の名称に時間差があることを示す一例です。
「専売塩局倉庫」は国の塩専売事業に関係する保管施設です。現在の森下・常盤・新大橋周辺は隅田川と小名木川に近く、原料の搬入と製品の搬出に適していました。ガラス、氷、塩という性格の異なる物資が同じ地域に集まり、深川が製造と国家・民間物流の両方を担っていたことが分かります。
地図には深川小学校などの学校も描かれ、工場と倉庫だけで構成された地域ではなく、住宅街と教育施設が隣接していました。
2. 扇橋・猿江周辺|安田製釘所・内国通運・日本製粉

扇橋・猿江周辺には「安田製釘所」「内国通運会社支店」「東京製瓶会社」「川口染工所」などが記されています。安田製釘所は安田善次郎が1897年に深川区猿江町東町へ建設した工場で、洋釘の工業生産を進めました。1923年の関東大震災で工場が焼失し、設備は八幡方面へ移されました。東京製瓶会社はガラス瓶を製造する事業所、川口染工所は染色・染加工を行う工場と読めます。北西部の石田硝子製造所と合わせると、深川にガラス製造と製瓶の両方が存在したことも確認できます。
日本製粉は1896年に設立され、深川扇橋で近代的なロール式製粉工場を整備し、翌1897年に操業を始めました。小名木川周辺は原料の小麦や石炭を舟で運び込めるため、大規模製粉に適した立地でした。現在のニップンにつながる企業史の出発点の一つです。
内国通運は全国的な運送網を持つ物流会社で、深川の河岸・倉庫・工場を鉄道や他地域へつなぐ役割を担いました。水運と陸上輸送が接続する深川の性格が地図から分かります。
3. 本村町・猿江周辺|東京瓦斯会社と鈴木セメント

本村町周辺では東京瓦斯会社の施設が大きな面積を占めています。東京瓦斯は深川に製造所を置き、石炭から都市ガスを製造しました。猿江町・本村町にはガス製造と副産物精製に関わる施設が集まり、東京東部へのガス供給を支えました。
地図には「鈴木セメント工場」も記されています。鈴木佐兵衛は明治23年(1890)に深川区猿江町の小名木川沿いにあった工場を譲り受け、鈴木セメント製造所として操業を始めました。1904年には鈴木セメント合名会社となっています。深川ではセメント、ガス、製綱、製粉など重量物を大量に扱う産業が水路沿いに集中しており、石炭や原料を舟で運べる立地が工業化を支えました。
本村町の大規模な貯木関係施設は、江戸時代の猿江御材木蔵から明治以降の御料局・帝室林野行政へ引き継がれた土地利用とつながります。現在の猿江恩賜公園周辺にもその歴史が残っています。
4. 木場東部|製材所・木工所・木材倉庫が連続する

木場東部の高画質原図では、木材関係施設だけでなく「扇橋製薬会社」「山下鉱業貯炭所」「スタンダード石油倉庫」「府立化学工業学校」なども確認できます。扇橋製薬株式会社は深川区東扇橋町5番地にあり、1896年の創業後、「アルボース消毒石鹸」をはじめ消毒・防臭製品を製造・販売しました。江東区教育委員会には同社製の消毒石鹸容器と絵葉書も残っています。大正期の深川には、木材や機械工業だけでなく、衛生用品をつくる化学・製薬工業も立地していました。
「山下鉱業貯炭所」は石炭を大量に保管する施設、「スタンダード石油倉庫」は石油製品を保管する倉庫です。同じ地域で石炭と石油の保管施設が並ぶことから、深川が大正東京の燃料物流を支える場所でもあったことが分かります。「府立化学工業学校」は化学工業を担う技術者・技能者を育成する実業教育施設で、周囲の製薬、石油、木材防腐などの産業と合わせて見ると、工場と専門教育が近接する地域でした。
さらに「長島製材所」「東洋木材防腐会社工場」「東京木材倉庫合資会社」「杉田木工場」などが水路沿いに続きます。江戸以来の材木集積地だった木場は、大正期には丸太を保管するだけでなく、製材、防腐処理、木工加工、倉庫保管までを近接した地域で行う近代木材産業地帯へ発展していました。
木場は元禄14年(1701)に江戸市中の材木置場が移されたことを背景に成立し、元禄16年(1703)には木場町の町名が生まれました。市街地から離れ、水運を使いやすい場所だったことが材木集積地の形成につながりました。大正期の製材所や防腐工場は、江戸以来200年以上続いた材木流通が近代工業へ発展した姿です。
水路に直接面する敷地が多く、筏や艀で運ばれた木材をそのまま工場や貯木場へ入れられる構造です。木材を扱う「川並」と呼ばれた筏師たちは鳶口を使って材木を操り、共同作業の掛け声から木場の木遣が育ちました。学校や住宅地も隣接し、工業と生活圏が同じ水路網の中に組み込まれていました。
木場は人物史でも知られます。ジャーナリスト・思想家の長谷川如是閑は1875年、材木商の家に生まれ、深川・木場周辺で幼少期を過ごしました。材木商と職人が集まる町の生活は、のちに大正・昭和期の言論界で活動した如是閑の原風景となりました。
5. 東大工町周辺|東京製綱・東京印刷・東京紡績関係施設

東大工町周辺には「東京製綱株式会社」「東京印刷会社工場」「東京紡績会社寄宿所」に加え、「東京消毒所」「横浜石炭商会倉庫」「大倉組製材所」「日本木材会社」などが並びます。東京製綱は1897年に深川工場を設け、国内で初めてワイヤロープの製造を開始しました。船舶、鉱山、土木、鉄道など近代産業に不可欠な鋼索を製造した工場です。
「東京消毒所」は感染症対策のために物品などを消毒する公的施設です。東京市は深川区枝川町の消毒所本部の下に各地の支部を置き、本部には真空瓦斯消毒装置がありました。近くの扇橋製薬が消毒・防臭製品を製造していたことと合わせると、深川では民間の衛生用品製造と行政の消毒事業が同時に展開していたことが分かります。両者に直接の業務関係があったことまでは確認できません。
「横浜石炭商会倉庫」は石炭を保管する物流施設、「大倉組製材所」は木材を製材する施設です。東京紡績の「寄宿所」という表記も重要で、工場設備だけでなく労働者の生活施設まで工業地帯の内部に置かれていたことを地図から読み取れます。
東京印刷は1896年に成立し、深川区東大工町47・48番地の深川分社で印刷、製版、製本、写真、出版などを行いました。渋沢栄一も株主・相談役として関係しました。地図の大区画は、大量印刷を行う近代工場の規模を伝えています。
「東京紡績会社寄宿所」という地図表記も確認できます。東京紡績は1914年に尼崎紡績へ合併されており、1921年の地図には旧会社名に由来する施設名が残っています。工場周辺に寄宿施設が置かれていたことから、製造設備と労働者の生活施設が近接していたことも分かります。
清澄・木場・越中島北部
6. 清住町・伊勢崎町周辺|浅野セメントと岩崎家深川別邸

清住町には浅野セメントの工場がありました。所在地は深川区清住町1番地で、前身は官営のセメント工場です。1884年に浅野総一郎が払い下げを受け、近代セメント産業を拡大しました。後の日本セメント、現在の太平洋セメントにつながる系譜です。
近くの大規模敷地は岩崎家の深川別邸に由来します。この土地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、享保年間には関宿藩主・久世家の下屋敷となりました。岩崎弥太郎は1878年に土地を取得し、1880年に「深川親睦園」を開きました。その後、岩崎家が庭園を整備し、関東大震災では避難地として多くの人を収容しました。1924年に東半分が東京市へ寄付され、現在の清澄庭園へつながります。1921年の地図は、まだ岩崎家の庭園だった時期を記録しています。
7. 福住町・佐賀町・越中島北部|倉庫業と渋沢栄一旧邸地

福住町・佐賀町は隅田川と日本橋方面に近く、倉庫業が発達しました。渋沢栄一は1876年から深川福住町に居住し、1878年には二代清水喜助の設計施工による本邸を完成させました。1888年に兜町へ移り、住宅は1908年に三田へ移築されましたが、旧邸地では1897年に渋沢家の個人経営による渋沢倉庫部が開業し、1909年に澁澤倉庫株式会社となりました。1921年の地図が記録する福住町は、実業家の邸宅地から近代物流拠点へ転換した後の姿です。
周辺には安田倉庫のほか、「東京倉庫株式会社」と記された大規模倉庫もあります。東京倉庫は1887年に深川で創業し、1918年には三菱倉庫株式会社へ商号変更していました。それでも1921年第二版の地図に旧称が残っていることから、この地図では改版時にも以前から定着した施設名が残る場合があると分かります。河岸から貨物を直接取り込み、都心の商業地へ配送できる福住町・佐賀町は、渋沢倉庫を含む近代倉庫業の集積地でした。
越中島寄りには東京市電気局の出先施設や陸軍糧秣廠の大区画も見えます。民間倉庫、都市インフラ、軍の兵站施設が同じ水運網を利用しており、この一帯が東京の物資保管と配送を担う巨大な物流地区だったことを示しています。
8. 木場中心部|帝室林野行政と貯木・製材

木場周辺には民間の材木商や製材所に加え、帝室林野管理局や東京鉄道局などの貯材施設もありました。江戸時代の猿江御材木蔵は明治以降の御料林・帝室林野行政へつながり、豊住では帝室林野管理局豊住出張所が貯材の種類や数量を示して売払いを案内した資料も残っています。皇室関係の林野から供給された木材を東京で集積・管理し、市場へ出す実務拠点が深川に置かれていました。
「東京鉄道局貯材所」は鉄道当局が使用する木材を集積する施設です。鉄道では枕木をはじめ大量の木材を必要としましたが、この貯材所の木材がすべて枕木だったとまでは断定できません。周囲には製材所、木工所、防腐会社、倉庫が続き、丸太の受け入れと保管、製材、防腐処理、木工加工、出荷までの工程が同じ水路網の中でつながっていました。
9. 木場東部|長島製材所・東洋木材防腐・東京木材倉庫・大日本製紙

この範囲では「長島製材所」「東洋木材防腐会社工場」「東京木材倉庫合資会社」「大日本製紙」などの固有名詞が読めます。長島製材所は丸太を板材や角材へ加工する製材施設、東洋木材防腐会社工場は木材を腐りにくくする防腐処理施設、東京木材倉庫合資会社は木材の保管・流通を担う倉庫会社と理解できます。東洋木材防腐については東京大学経済学図書館に明治40年から大正期を含む営業報告書が残り、実在した木材加工企業であることを確認できます。
「大日本製紙」の大区画も明瞭ですが、この区画で紙そのものを製造していたのか、倉庫や原料置場など別の機能だったのかは地図だけでは確定できません。そのため、ここでは大日本製紙の事業用地が木材産業地帯に存在したことまでを確認します。木材関係施設が一帯に連続する配置そのものが、木場の産業が保管だけでなく加工・防腐・流通へ広がっていたことを示しています。
鉄道用枕木や建築材には大量の木材と防腐処理が必要でした。民間企業と官営施設が同じ水路網を利用し、深川東部は東京の木材加工拠点として機能しました。
洲崎・越中島
10. 洲崎・平久町周辺|洲崎遊廓・養魚場・藤倉電線

洲崎遊廓は根津遊廓の移転先として1888年に開設されました。大正10年の地図では洲崎弁天町に整然とした街区が並び、東陽小学校、洲崎病院、工場、養魚場が近接しています。遊廓は戦後まで続き、1958年の売春防止法施行で制度として終わりました。
南東側には地図上でひときわ大きな「養魚場」の区画があります。江東区が公開する渋沢栄一ゆかりの地の資料では、この周辺に「渋沢家洲崎養魚場」があり、魚を養殖する事業所であると同時に来客をもてなす場としても使われ、1900年には徳川慶喜らが釣りを楽しんだことが紹介されています。地図だけから魚種や経営主体の範囲を細部まで断定することはできませんが、洲崎に大規模な養魚用水面が存在したことは明瞭です。遊廓の街区と養魚場が隣接する景観は、当時の洲崎が歓楽街だけではない土地利用を持っていたことを示します。
平久町では藤倉電線が1920年に水運の利便性を理由として約2万2,000坪の土地を取得し、工場建設を始めました。1921年には熔銅工場が完成し、1923年1月に本社・工場の主要施設が整いました。同年9月の関東大震災では洲崎弁天町方面からの火災で工場が焼失し、1924年に復旧しました。現在のフジクラにつながる深川進出です。
11. 洲崎・浜園町周辺|鉄道省木材防腐工場と工業地

洲崎西側から浜園町方面には「鉄道省経理局木材防腐工場」が明瞭に記されています。鉄道では枕木や橋梁材など大量の木材を使用するため、防腐処理は保守に欠かせない工程でした。木場の木材集積地に近い深川に処理施設を置くことで、木材の調達、保管、加工を近い範囲で行えました。ただし、この工場で処理した木材のすべてが枕木だったとまでは地図から断定できません。
同じ画像には「東京市電気局発電所」「東京電燈倉庫」「藤倉電線工場」も確認できます。東京市は1911年に電気局を開局し、東京鉄道株式会社から引き継いだ品川・深川・渋谷の3火力発電所で電気供給事業を開始しました。藤倉電線は1920年、水運の利便性と広い工場用地を求めて深川平久町の約2万2,000坪を取得し、1921年に熔銅工場を完成させています。発電所、電線工場、鉄道用木材の防腐工場が近接するこの一帯は、電力・通信・鉄道という近代都市インフラを支える工業地帯でした。
12. 越中島|陸軍糧秣廠・商船学校・水産講習所

越中島には陸軍の糧秣施設、商船学校、水産講習所など国家機関が集まりました。陸軍中央糧秣廠は1897年に越中島へ設置され、1902年に陸軍糧秣廠へ改称しました。軍隊の食糧や馬糧の調達、製造、保管を担う施設です。
商船学校は海運を担う人材を育成し、水産講習所は水産業の教育・研究を担いました。水産講習所では1902年に越中島の標本室が整備され、関東大震災で焼失しました。これらの教育機関の系譜は現在の東京海洋大学へつながります。
地図には専売局の煙草製造所倉庫も見えます。越中島は軍事、海運、水産、専売行政が並ぶ官営施設地帯でした。
13. 洲崎弁天町拡大|憲兵派出所・洲崎病院・洲崎警察署

拡大図では洲崎弁天町の街区に「憲兵派出所」、東側に「洲崎病院」と記されています。憲兵は軍人・軍属の犯罪や軍事に関係する犯罪を取り締まる軍事警察でした。
洲崎の一般警察行政は洲崎警察署が担いました。1910年12月17日に洲崎分署が警察署へ昇格し、後の深川洲崎警察署は洲崎遊廓とその近隣を管轄しました。大正10年の洲崎には、遊廓を含む地域警察を担う警察署と、軍人・軍属を対象とする憲兵の施設が同じ地域に置かれていました。
「洲崎病院」は一般の地域病院とは性格が異なります。明治44年(1911)、吉原、洲崎、新宿、品川、八王子、府中の六つの遊廓所在地に警視庁病院が設けられ、深川区洲崎弁天町には警視庁洲崎病院が置かれました。遊廓街のすぐそばに医療施設が置かれていたのは、当時の遊廓行政と衛生管理の制度を反映した配置です。地図では病院、警察、憲兵派出所、学校、工場が近い範囲に並び、洲崎が歓楽街だけでなく行政・医療・工業が重なる市街地だったことが分かります。
1923年9月1日で深川の工業地帯は大きく変わった
この地図の約2年4か月後、1923年9月1日に関東大震災が発生しました。深川区では大火災が広がり、多数の工場、倉庫、住宅が焼失しました。安田製釘所は工場を失い、藤倉電線の深川工場も洲崎方面からの火災で焼失しました。水産講習所の標本室も被災しました。
清澄の岩崎家庭園は避難地として機能し、多くの避難者を収容しました。震災後は道路・橋・区画整理が進み、深川の町割りと工場配置は大きく変化しました。大正10年の地図は、その再編前の工業都市を記録しています。
水路・木材・工場が結び付いた深川区
現在の江東区には、富岡八幡宮、深川不動堂、清澄庭園、木場の地名、小名木川や仙台堀川などの水路が残ります。猿江恩賜公園周辺には御材木蔵から貯材所へ続いた土地利用の歴史があり、越中島には東京海洋大学のキャンパスがあります。
大正10年の深川区では、門前町や倉庫街に加え、貯材・製材・防腐・木工へ続く木材産業、石炭・石油・都市ガス・電力のエネルギー施設、製綱・印刷・製粉・製瓶などの工場、消毒所や製薬会社などの衛生施設、陸軍糧秣廠、商船学校・水産講習所、洲崎遊廓と警視庁病院、大規模な養魚場が水路網の中に並んでいました。深川は単なる工場街ではなく、物資を受け入れ、加工し、保管し、人材を育て、都市生活を支える機能が集積した地域でした。
関東大震災で工場や倉庫の多くが失われ、復興後に街路や区画は再編されましたが、水辺を軸に物流と産業が集まる構造は深川を特徴づけました。現在も水路、橋、木場の地名、大規模施設の跡をたどることで、大正期の産業都市の骨格を確認できます。
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参考資料
- 公益財団法人特別区協議会「番地界入東京市拾五区全図 深川区図 15」
- ニップン「沿革」
- 東京製綱「沿革」
- 安田工業「沿革」
- フジクラ「沿革」
- 渋沢栄一記念財団「浅野セメント株式会社深川工場」
- 渋沢栄一記念財団「東京印刷株式会社深川分社」
- 渋沢栄一記念財団「深川区ゆかりの地」
- 東京都公園協会「清澄庭園」
- アジア歴史資料センター「陸軍糧秣廠」
- 江東区「猿江御材木蔵跡」
- 警視庁「深川警察署の歴史」
- 昭和館デジタルアーカイブ「深川洲崎警察署」
- 昭和館デジタルアーカイブ「洲崎遊廓」
- 公益財団法人特別区協議会「二組の東京15区区分地図」
- ニチレイ「ニチレイ75年史」東京製氷・日本製氷
- 江東区教育委員会「アルボース消毒石鹸―深川・扇橋製薬の絵葉書と消毒石鹸の容器―」
- 東京都立図書館「東京市消毒所」
- 三菱倉庫「沿革」
- 国立国会図書館「長崎省吾関係文書目録」帝室林野管理局豊住出張所「貯材売払案内」
- 東京大学デジタルアーカイブポータル「東洋木材防腐」
- 東京都交通局「交通局のあゆみ―その他」
- 東京都立図書館「警視庁病院」
- 江東区「渋沢栄一ゆかりの地マップ」

