大正東京・本所区を古地図で徹底解説|両国・本所・錦糸町

大正期の東京市本所区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

本所区は現在の墨田区南部にあたり、両国、本所、錦糸町周辺を含みました。江戸時代に隅田川東岸へ拡張された市街地は、明治・大正期になると工場と住宅が密集する東京有数の工業地域へ変化します。

本所区は「川・運河・工場」を読む

地図には隅田川に加えて、縦横に走る水路と細かな街区が描かれます。水運で原料や製品を運びやすく、都心にも近かったことから、大小の工場が集まりました。住宅地と工場が近接していた点も本所の特徴です。

江戸の本所は明暦の大火後に開発された

本所は1657年の明暦の大火後、江戸市街の拡張先として本格的に開発されました。武家屋敷、町屋、寺社、水路が整えられ、両国橋によって江戸中心部と結ばれます。この江戸期の都市骨格が近代工業化の基盤になりました。

両国は交通と興行の町

両国橋周辺は江戸時代から見世物や飲食、相撲などでにぎわいました。近代には鉄道の両国駅が東側地域への玄関口となり、人と物資が集中します。現在の両国に相撲・歴史文化のイメージが残る一方、大正期には鉄道交通の拠点でもありました。

錦糸町方面へ工業と市街地が拡大

鉄道の発達とともに本所の東部にも工場・住宅が増え、錦糸町周辺は交通と商業の拠点へ成長しました。工場労働者とその家族の生活圏が形成され、商店や学校も増えていきます。

関東大震災は本所区を壊滅させた

1923年9月1日の関東大震災では、本所区の広い範囲が火災に襲われました。墨田区の資料では、本所地区は甚大な被害を受け、多くの工場も焼失しています。旧陸軍被服廠跡では多数の犠牲者が出ました。震災は本所の都市構造を根本から変える転機でした。

震災復興で道路・橋・公園が整えられた

復興事業では幹線道路の拡幅、橋梁の架け替え、区画整理、公園整備などが行われました。一部の大工場は郊外へ移転し、その後は中小工場が密集する地域として再形成されます。大正期の地図は復興前の本所を知る重要な基準になります。

現在の墨田区に残る本所の骨格

両国の文化・交通、錦糸町の商業、ものづくりの集積など、本所区の特徴は形を変えて現在も続いています。埋め立てられた水路も道路や街区境界として痕跡を残しており、古地図と現地を比較すると見つけやすい地域です。

参考資料