日本の試し斬りの歴史|山野永久・山田浅右衛門・御様御用から全国諸藩、明治の禁止まで

1927年刊資料に掲載された生き胴処刑の図

刀の切れ味は、どうやって確かめたのでしょうか。

現在なら素材試験や計測機器があります。江戸時代の日本では、巻き藁や竹などに加え、刑死者の身体も刀剣の性能を確かめる対象になりました。そこで行われたのが「試し斬り」「試刀」「据物斬り」と呼ばれる技術です。

この世界で最もよく知られるのが山田浅右衛門家です。しかし、山田家が突然この仕事を始めたわけではありません。戦国末期には据物を斬る試剣術が発達し、江戸初期には複数の流派が生まれ、山田家以前には山野加右衛門永久という専門家がいました。

さらに江戸だけを見ても全体像はつかめません。尾張では一藩士の日記に刑死体を使った据物斬りが記録され、紀州では「御ためし者」として刑死体を下付する仕組みがあり、弘前では刑罰の種類によって死後に様斬りへ使えるかどうかが分かれていました。加賀前田家は刀を江戸へ持ち込み山田家に試刀を依頼し、会津では新刀を検査する専門家と「新刀役場」が確認できます。

刀を斬って終わりにする文化でもありませんでした。結果は刀身の銘に残され、経験は秘伝書へまとめられ、多数の試刀結果は刀工を「業物」などに分類する評価へ発展します。

試し斬りの歴史を追うと、日本刀、武術、刑罰、刑場、医学、出版が同じ場所でつながっていきます。

試し斬りとは何だったのか

近世の試し斬りには、大きく二つの目的がありました。

一つは刀そのものの性能を確かめることです。刃がどこまで通るか、どの程度の対象を切断できるかを試します。

もう一つは斬り手の技術を確かめることです。刀が優れていても、姿勢、踏み込み、刃筋、対象の据え方が違えば結果は変わります。

このため江戸時代の試し斬りは、刀剣評価と剣術の双方にまたがる技術として発達しました。

対象も一種類ではありません。巻き藁や竹などを使う場合がある一方、近世には処刑後の刑死体を土壇へ据えて斬る据物斬りが行われました。辞書・刀剣史資料では、天正年間ごろから死体を土壇に置いて刀を試す方法が確認され、江戸時代には鵜飼流、中川流、山野流など複数の試剣術が知られています。

試し斬りは一人の名人だけが行う特殊な芸ではなく、武術として学ばれ、幕府や藩の制度にも接続した技術でした。

戦国の実戦から、江戸の「試す技術」へ

戦乱が続いた時代、刀の性能は実戦の中で確かめられました。太平の江戸時代に入ると、刀を実戦で使う機会は大きく減ります。

一方、武士は刀を帯び続け、刀工は新しい刀を作り続けました。刀の性能を評価する必要も残りました。

そこで発達したのが、対象を固定し、一定の条件で斬る据物斬りです。

試剣術では、刀の振り方だけでなく、どの位置へ対象を据えるか、どの方向から斬るか、複数の胴をどう重ねるかまで技術として扱われました。

戦場で偶然生じる切断から、条件を整えて性能を確かめる試験へ。江戸時代の試し斬りは、刀の評価方法を専門化していきます。

山野永久――山田浅右衛門以前の試し斬りの専門家

山田浅右衛門やまだあさえもん家の前に、試刀史で大きな存在だったのが山野加右衛門永久やまのかえもんながひさです。

永久が実際に刀を試したことを伝える強い物証が残っています。

東京富士美術館所蔵の虎徹には、寛文5年(1665)12月16日、68歳の山野加右衛門永久が「四ツ胴」を截断したことを示す金象嵌銘があります。

四ツ胴は、複数の胴を重ねて切断する高難度の試験です。試刀を行った人物、年月日、年齢、切断結果が一本の刀に残されたことで、17世紀の試し斬りを現在まで確認できます。

山野永久には、刑死者供養の伝承も残ります。

台東区三ノ輪の永久寺について、『御府内寺社備考』などを調べた台東区立中央図書館のレファレンスでは、江戸期の永久寺形成に山野永久が深く関わった由緒が確認されています。

寺院由緒では、永久が多数の刑死者を斬ったため供養を行い、堂宇や土地を寄進したこと、その実名「永久」が寺号に結び付いたと伝えられています。「一千人に及んだ」という数字も伝わりますが、数字の性格は実績を集計した統計というより寺院由緒に属します。

永久寺そのものには山野永久より古い寺院の系譜があります。山野永久は、江戸期の再興と寺院形成に大きく関わった人物として位置づけられます。

東京都台東区三ノ輪の永久寺
永久寺(台東区三ノ輪)、2020年。撮影:あばさー(Abasaa)/Wikimedia Commons/Public Domain。

刀を試す仕事と、斬った人々を供養する行為が、同じ人物の履歴の中に残っています。

山田浅右衛門家はどう生まれたのか

山野家の試剣術の系譜を受け、江戸時代に「首斬り浅右衛門」として知られる存在へ発展したのが山田浅右衛門やまだあさえもん家です。

初代山田浅右衛門貞武から代々「浅右衛門」の名を継ぎ、幕府の御様御用、刀剣の試し斬り、刑死者の斬首などに関わりました。

山田家は浪人身分を保ちながら、幕府の公的な仕事を継続して担う特殊な専門家の家でした。

国立公文書館の『恩賜例』には、将軍家の刀剣の試し斬り「御様御用」を務めた山田浅右衛門と弟子たちへ褒美が与えられた記録があります。

山田家の存在を「死刑執行人」だけで説明すると、仕事の半分が抜け落ちます。

彼らは刀を振るだけでなく、刀剣の性能を評価し、その結果を記録し、試剣術を弟子へ伝え、後には刀工の評価体系まで作り上げました。

御様御用――幕府の仕事として刀を試す

御様御用おためしごよう」は、将軍家の刀剣を試す仕事です。

国立公文書館は、山田浅右衛門やまだあさえもんとその弟子たちが御様御用を務めたことを『恩賜例』の記録から紹介しています。

ここで山田家は、個人的な武芸者として刀を試していたのではなく、幕府との関係の中で試刀を行っていました。

試し斬りに使われる刑死体も、自由に入手できるものではありません。処刑、検視、晒し、埋葬など刑場の手続きと結び付いており、遺体を試刀に使うかどうかも行政的な処理の中にありました。

この点は、全国の藩を比較するとさらに明瞭になります。

山田家の秘伝書――二ツ胴・三ツ胴から槍、介錯まで

試し斬りは経験だけで継承された技術でもありません。

西尾市岩瀬文庫には「山田家秘伝巻物」として13軸がまとまって残っています。

文政6年(1823)成立の『当流一流免前之巻』には、二ツ胴を片手で斬る方法、三ツ胴の据え方と斬り方、夜の土壇、矢の試し、槍での突き方、十文字突き、介錯、刀や脇差の扱いなど14項目が記されています。

寛政8年(1796)の『当流一流試者極秘伝之巻』にも、刃による試し、斬る方向、片手打ち、足の運び、姿勢などが記録されています。

対象を固定する。

斬る位置を決める。

姿勢を整える。

結果を比べる。

技法を文書で継承する。

山田家の試剣術は、こうした細かな手順を持つ専門技術でした。

「二ツ胴」「三ツ胴」という言葉も、単なる誇張表現ではありません。複数の胴を据えて切断力を試す方法が秘伝書の項目として記録されています。

刀に試験結果を刻む――試し銘と四ツ胴

試し斬りの結果は、刀そのものにも残されました。

刀身の茎に、試した年月日、試した人物、切断した位置、結果などを金象嵌や切付で記す例があります。

山野永久の虎徹に残る「四ツ胴截断」は、その代表例です。

幕末にも同じ文化は続きました。東京富士美術館には元治元年(1864)、伝馬町で山田吉豊が試したことを記す刀も所蔵されています。

この記録文化によって、刀の切れ味は口伝や評判だけでなく、個々の刀に付随する履歴として残るようになりました。

現代の刀剣鑑賞で目にする試し銘は、江戸時代の性能試験の記録でもあります。

『懐宝剣尺』と業物――試し斬りが刀工の格付けになる

個々の刀の試験結果が蓄積されると、次に可能になるのが比較です。

寛政9年(1797)に成立した『懐宝剣尺』は、試刀経験を背景に刀工を切れ味で分類した書物として知られます。文化2年(1805)の版も国立国会図書館に残っています。

評価では「最上大業物」「大業物」「良業物」「業物」などの区分が用いられました。

重要なのは、一本の刀を「切れた」「切れなかった」と評価する段階から、多数の結果を蓄積し、刀工ごとの評価へ展開したことです。

試す。

記録する。

比較する。

分類する。

出版して共有する。

試し斬りは、江戸後期には刀剣の評価情報を社会へ流通させる仕組みにまで発展しました。

この系統は天保元年(1830)の『古今鍛冶備考』へ続きます。山田浅右衛門やまだあさえもん吉睦がまとめた同書には、多くの刀工や刀剣の情報が収録されています。

山田浅右衛門吉睦『古今鍛冶備考』に収録された人間無骨の押型
『古今鍛冶備考』(1830年)六之巻に収録された「人間無骨」の押型。国文学研究資料館所蔵資料より/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

現在も刀剣の説明で使われる「業物」という言葉の背景には、江戸時代の試刀と記録の蓄積があります。

試し斬りは江戸だけだったのか――全国諸藩の違い

試し斬りは江戸の山田浅右衛門やまだあさえもん家だけの文化ではありません。

各藩の史料を比べると、刑死体の扱い、試刀を担う人物、実施方法に違いがありました。

地域確認できる特徴
江戸幕府山田浅右衛門家が御様御用を担い、試剣術を体系化
尾張藩藩士・朝日重章の日記に刑死体を使った据物斬り体験が残る
紀州藩「御ためし者」として刑死体を下付した記録が残る
弘前藩刑罰の種類によって死体を様斬りに使えるかが分かれていた
加賀前田家刀を江戸・小塚原へ持ち込み山田家に試刀を依頼
会津藩藩内に新刀を検査する専門家と「新刀役場」があり、試し斬り帳簿も現存
福井藩武術師役制度は確認できるが、1792年の師役調査では据物・試剣は独立分野として整理されていない

尾張藩――普通の藩士の日記に残った据物斬り

尾張藩士・朝日重章は、『鸚鵡籠中記』という長大な日記を残しました。

元禄5年(1692)12月14日、重章は師の猪飼忠蔵・忠四郎に従い、星野勘左衛門の下屋敷で「様し物」を見物しています。

そこへ運ばれたのは、前日まで広小路で晒されていた惣七、新六、三郎衛門の3人の遺体でした。

浅井孫四郎が惣七の「一の胴」を斬り、重章自身も股の肉を切り落としたことを日記に記しています。

この記録は、据物斬りが山田家のような専門家だけに閉じた技術ではなく、地方藩士が武術の一つとして学ぶ場合もあったことを伝えます。

紀州藩――刑死体が「御ためし者」として下付される

紀州藩では、行刑実務を記録した「紀州藩牢番頭家文書」が残っています。

和歌山大学の研究によると、正徳6年(1716)、粉河牢に収容されていた小畑村の助三郎が名手川原で処刑されました。

記録では助三郎が「御ためし者」とされ、死後の身体が御使番へ下付されています。

ここから、試し斬りに使う身体が行政的な判断を経て与えられる仕組みを確認できます。

弘前藩――同じ斬首でも、死後の扱いが違う

弘前藩では刑罰の種類と死後処分が細かく区別されていました。

弘前市立弘前図書館が公開する『新編弘前市史』では、「斬罪」「下手人」「死罪」はいずれも斬首を伴いますが、様斬りへの利用には違いがあります。

「斬罪」と「下手人」の死体は様斬りに使わず、「死罪」の死体は様斬りに用いるとされています。

刑死体なら一律に試し斬りへ回されたのではなく、刑名と死後処理が結び付いていました。

加賀前田家――刀を江戸へ送り、山田家に試させる

寛政4年(1792)8月19日、加賀前田家の刀剣が江戸の小塚原で試されました。

福岡県立図書館の調査は、この記録を静嘉堂文庫所蔵『山田氏記録』まで遡って確認しています。

『山田氏記録』は「公私控」「万日記」「御様御用控帳」「年中行事」の4冊からなり、天明6年(1786)から天保10年(1839)ごろまでの山田家の記録を伝えます。

1792年の前田家の試刀では、加賀藩側から刀が持ち込まれ、山田家による試験結果が記録されました。

ここでは、藩内で独自に試刀する仕組みとは別に、江戸の山田家へ専門評価を依頼するネットワークが見えます。

会津藩――新刀を検査する専門家と「新刀役場」

会津藩は、江戸の山田家とは異なる独自の仕組みを確認できる重要な例です。

会津若松市の会津藩士データベースに残る『諸士系譜』では、長坂家が「居物業」に優れ、弟子の育成でも成果を挙げたことから、天明8年(1788)に「芸者」として召し出されたと記録されています。

さらに長坂造酒勝英には、寛政11年(1799)に甲胄製作所で「新刀刃先吟味」、文化2年(1805)に「南町口新刀役場」で「刃先吟味」を命じられた履歴があります。

会津藩内に、新しく作られた刀を検査する専門家と専用の役場が存在したことが分かります。

明治大学博物館には、さらに『誅伐者道具試帳』という史料が所蔵されています。同館はこれを「会津藩による新刀試し斬りの記録」と紹介しています。

会津では、刀剣の検査と試し斬りが藩内の仕組みとして展開していました。

福井藩――公認武術体系から見える別の姿

福井藩では、寛政4年(1792)、幕府の命令を受けて藩内の武術流派と師範家の由緒が調査されました。

福井県文書館の研究によると、確認できる公認武芸は槍術、兵学、居合、剣術、柔術、弓術、炮術、馬術の8分野です。

この師役体系では、据物や試剣が独立した部門として整理されていません。

会津で「居物業」の専門家や新刀役場が確認できるのに対し、福井の公認武術制度では別の整理が行われていました。藩ごとに試刀技術の制度化の形が異なっていたことを考える材料になります。

生きた人間を斬る「生き胴」は何だったのか

試し斬りの歴史では、死体を土壇へ据えて斬る据物斬りと、生きた人間を斬る行為を区別する必要があります。

「生き胴」は、近世の刑罰・刀剣史で、生きた身体を斬る行為を指す言葉として記録されています。

1927年刊資料に掲載された生き胴処刑の図
「生き胴処刑の図」。平凡社『大百科事典』第2巻(1927年)掲載/Wikimedia Commons/Public Domain。※江戸時代の現場を同時代に描いた図ではありません。

掲載画像は1927年刊の百科事典に収録された後世の図です。江戸時代の現場を同時代に描いた記録画ではなく、「生き胴」という歴史用語を視覚化する補助資料として使用します。

刑死体を誰が使うのか――試し斬りと腑分けが交差する

18世紀以降、刑死体は刀剣試験だけでなく医学解剖にも使われるようになります。

1754年、山脇東洋が京都で人体内部を観察しました。1771年には杉田玄白、前野良沢らが小塚原で腑分けを見学し、西洋解剖書の図と実物を照合しました。

刑死体が医学解剖にも使われた経緯は、日本の腑分け・人体解剖の歴史で詳しくたどっています。

江戸後期になると、同じ刑死体を試刀と医学解剖が利用する状況が生じます。

日本大学の医学史研究では、幕末に試し斬り用の刑死体と蘭方医による解剖用遺体の確保が同じ刑死体処理の中で調整されていたことが論じられています。

これは、試し斬り史と医学史が直接交差する場面です。

小塚原刑場はその象徴的な場所でした。ここでは刑罰が行われ、山田家の試刀に関する記録が残り、同時に杉田玄白らの腑分け見学も行われています。

南千住の小塚原刑場跡に残る首切地蔵
小塚原刑場跡の首切地蔵、2007年。撮影:taketarou/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

現在の史跡については、小塚原刑場周辺の史跡を歩くで紹介しています。

刑死体をどう扱うかという問題は、刀剣評価、医学研究、刑罰制度が一つの身体を介して接続していたことを物語ります。

吉田松陰の最期と山田浅右衛門

山田浅右衛門やまだあさえもんの名は、幕末史の有名人物とも交差します。

安政の大獄で処刑された吉田松陰です。

幕末の思想家・教育者、吉田松陰の肖像
吉田松陰像。山口県文書館所蔵「絹本着色吉田松陰像(自賛)」肖像部分/Wikimedia Commons/Public Domain。

松陰神社の史料解説では、安政6年(1859)、吉田松陰の斬首を山田浅右衛門が担当したと伝えています。

さらに浅右衛門が、松陰の最期の態度について非常に立派だったと後に語ったという逸話も伝わります。

ここで山田家が担っていた二つの役割が同時に見えます。

一方では刀の性能を確かめる試刀家。

もう一方では、幕府の刑罰において斬首を担う人物。

山田浅右衛門家の歴史は、刀剣史だけでなく江戸幕府の刑罰史とも深く重なっています。

明治政府は刑死体を使う試し斬りを禁止した

江戸幕府が終わると、人体を使った試刀も制度的な転換を迎えます。

国立公文書館には、明治3年(1870)の太政類典に、

「刑余ノ骸ヲ以刀剣ノ利鈍ヲ試ミ及人胆霊天蓋陰茎等ヲ密売スルヲ禁ス」

という件名の公文書が残っています。

同年4月、明治政府は刑死体を使って刀剣の利鈍を試す慣行を禁止しました。

刑部省側の文書では、旧来、死罪者の遺体で刀剣の利鈍を試してきたことに触れ、その慣行を改める方向が示されています。

ここで、刑死体を使った刀剣性能試験は制度的な終点を迎えます。

ただし、刀による死刑そのものが同じ年に消えたわけではありません。

明治13年(1880)に公布された旧刑法は死刑を絞首刑とし、明治15年(1882)1月1日に施行されました。

したがって近代化は二段階で進みました。

1870年

刑死体を使った刀剣試験の禁止

1882年

旧刑法施行により死刑を絞首刑へ統一

山田浅右衛門家が担ってきた試刀と斬首は、それぞれ制度上の基盤を失っていきました。

現代の試し斬りは何を試しているのか

現在も「試し斬り」という言葉は使われています。

しかし、対象と目的は大きく変わりました。

現代の武道では、巻き藁や畳表、竹などを斬り、刃筋、姿勢、間合い、身体操作を確かめる稽古として行われます。

巻き藁を用いて行う現代の試し斬り
現代の試し斬り、2006年。撮影:renfield/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0。

江戸時代の試刀では、刀そのものの性能を評価する意味が大きく、刑死体が使われる場合もありました。

現代では人の身体を使う試刀制度はなく、試し斬りは武道の技量確認として続いています。

同じ「試し斬り」という語でも、そこに含まれる意味は歴史の中で大きく変化しました。

年表でたどる日本の試し斬り

時期出来事
戦国末期据物を使って刀剣性能や斬り手の技量を確かめる試剣術が発達
17世紀中川流・山野流など試剣術が専門化
1665年山野加右衛門永久が虎徹で四ツ胴を截断した銘が残る
元禄期尾張藩士・朝日重章が刑死体を使った据物斬りを日記に記録
1700年代山田浅右衛門家が幕府の御様御用を担い、技術を継承
1716年紀州藩で刑死者が「御ためし者」とされた記録
18世紀弘前藩では刑名により様斬りへ使える死体を区別
1788年会津藩で長坂家が「居物業」の技量を理由に登用される
1792年加賀前田家の刀剣が江戸・小塚原で山田家により試される
1797年『懐宝剣尺』成立。試刀経験が刀工の格付けへ展開
1799年会津藩で長坂家が新刀の刃先吟味を担当
1805年会津藩の南町口新刀役場で刃先吟味。『懐宝剣尺』増補版も刊行
1823年山田家秘伝『当流一流免前之巻』成立
1830年『古今鍛冶備考』成立
1859年吉田松陰が安政の大獄で処刑。山田浅右衛門との接点が伝わる
1870年明治政府が刑死体を使った刀剣の利鈍試験を禁止
1882年旧刑法施行。死刑を絞首刑へ統一
現代巻き藁・畳表などを用いた武道としての試し斬りが続く

刀の切れ味を知るために、人は実際に斬りました。

やがて、その結果は刀に刻まれ、秘伝書に整理され、多数の結果が比較され、刀工の格付けとして出版されました。

同時に、試し斬りに使われた刑死体は医学解剖にも利用され、幕末には刀剣史と医学史が同じ刑場で交差します。

1870年、刑死体による試刀は明治政府によって禁止されました。

現在に残る「業物」「試し銘」「試し斬り」という言葉の背後には、刀、武術、刑罰、身体、記録をめぐる長い歴史があります。

参考文献・資料