腑分けの歴史|日本人は人体の中をどう知ったのか――『頓医抄』から『解体新書』、献体まで

1774年に刊行された『解体新書』

狩猟や屠畜、戦闘、刑罰、遺体の処理などを通じ、人間が身体の内部を見る機会は江戸時代よりはるか以前からありました。

それでも、日本の医学史では1754年の山脇東洋による観臓、1771年の杉田玄白・前野良沢らによる小塚原での腑分け見学、1774年の『解体新書』刊行が大きな転換点として扱われます。

変わったのは「内臓を見たかどうか」より、見たものをどう知識にしたかでした。

中国から伝わった人体図を学ぶ。実際の骨や臓器を見て書物と比べる。観察した結果を図と文章に残す。西洋の解剖書とも照合する。さらに後世の医師が、その翻訳書を原書と突き合わせて修正する。やがて解剖は医学教育の制度に組み込まれ、刑死者を対象とした腑分けから、本人の意思による献体へと大きく姿を変えました。

『解体新書』は、何世紀にもわたる「人体の中をどう確かめるか」という試行錯誤を受け継ぎ、次の検証へつなげた一冊でした。

人は昔から内臓を見ていた――腑分けが医学史になる条件

腑分けふわけとは、江戸時代の史料で人体を切り開いて内部を調べる行為を指して使われる言葉です。現代の「解剖」に近い場面で登場し、実施方法や目的は時期や場面によって異なりました。

人体の中を見ること自体と、解剖学を作ることには距離があります。

動物を解体すれば心臓、肺、胃、腸などを目にできます。戦傷や事故でも人体内部が露出することがあります。刑死者や遺体を扱う人々には、医師より多く身体内部を見た経験を持つ者もいました。1771年の小塚原の腑分けを回想した『蘭学事始』には、執刀を担当した老齢の男性が若い頃から複数の遺体を腑分けしてきたと語る場面が残っています。

医学史上の変化は、その経験を次の人が確かめられる形にしたところにあります。

段階人体内部との向き合い方知識として何が変わるか
目にする内臓や骨を経験的に見る個人や職業集団の経験になる
図にする臓器の位置や形を描く遠くの人や後世へ伝えられる
書物と実物を比べる古典・中国医学書・西洋解剖書と実物を照合する権威ある記述も検証対象になる
記録・出版する観察結果を文章・図版として共有する他の医師が批判・修正・教育に利用できる
再検証する原書、別の医学書、新たな解剖結果と比較する一度出版された知識も更新される

この積み重ねが、日本の人体解剖史の骨格です。

中国の解剖図が日本へ届く――宋代の実見から『頓医抄』へ

日本の中世医学は、中国の医学書から大量の知識を受け取っていました。その中には、実際の人体観察を背景にした解剖図の系統も含まれます。

北宋の1045年には、処刑された欧希範おうきはんらの身体をもとに内臓図が作られたと伝わります。さらに12世紀初頭、医家の楊介ようかいは刑死者の身体を調べ、先行する臓腑図を補正し、1113年に『存真環中図』をまとめました。後世の中国では原本が失われましたが、その図の系統が日本の医書に残りました。

鎌倉時代の僧医梶原性全かじわら しょうぜんが1302~1304年ごろにまとめた『頓医抄とんいしょう』は、日本の医学史を考えるうえで重要な位置を占めます。全50巻の大部な医学書で、中国の隋・唐・宋の医学書を広く利用しながら、漢文だけではなく仮名交じりの日本語で医術を伝えました。

巻43・44には人体内部を描く彩色図があります。文化遺産データベースは、この臓腑図・経脈図を宋代の楊介『存真環中図』にもとづくものとして紹介しています。

『頓医抄』の人体図は、中国で形成された身体知識が医学書を通じて日本へ伝わった例です。鎌倉時代の日本で直接行った人体解剖の記録としてではなく、中国医学由来の人体内部の知識を受容した史料として位置づけられます。

鎌倉時代の医書『頓医抄』に描かれた人体内部の図
梶原性全『頓医抄』の人体内部図。鎌倉時代の日本で、中国医学由来の人体知識が図として伝えられていました。京都大学附属図書館所蔵資料系統/Wikimedia Commons/Public Domain

梶原性全は1266年に生まれ、鎌倉で活動した僧医です。『頓医抄』の後には、中国から新たに入った医学書を利用して『万安方』を編纂しました。中世の日本医学は、中国から入る新しい医学情報を継続的に取り込んでいました。

日本の人体解剖史の出発点を1754年だけに置くと、この数百年にわたる知識の移動が消えてしまいます。日本の医師はまず「書物と図から人体の中を知る」という長い段階を経験していました。

室町・桃山期の人体図――人・馬・五行・宗教が同じ身体図に並ぶ

中世から近世初頭へ進むと、日本に残る身体図はさらに多様になります。

『桃山時代解剖之図』と呼ばれる絵巻には、人間の彩色臓腑図だけでなく、馬の臓器、五行説、密教の五輪、身体にいると考えられた虫などが一つの体系の中に描かれています。医学史家・真柳誠の研究では、中国の臓腑論、内景図、馬医、針治療、仏教的な身体観などが重なった資料として分析されています。

現代の解剖図とは目的が異なります。臓器の形を写実的に記録するだけでなく、肺と大腸、心と小腸、肝と胆といった対応関係や、五行・宗教的世界観の中で身体を理解する図でもありました。

1568年の『針聞書』など、人体内部と病気を引き起こす「虫」を図示する資料も残っています。人間の身体をどう説明するかという問いには、解剖学だけでなく、治療論、宗教、宇宙観まで重なっていました。

18世紀の医師たちが実物と比較したのは、何世紀にもわたり医学の中で受け継がれてきた臓腑説と身体図でした。長く共有された知識体系を、実際の人体によって検証する段階へ進みます。

17世紀、西洋の人体図が日本へ入る――本木了意は『解体新書』より約90年前

西洋解剖学との接触は、1774年の『解体新書』より約1世紀さかのぼります。

17世紀には長崎を窓口として南蛮流・紅毛流の外科が伝わり、オランダ通詞は医学知識の仲介者にもなりました。その一人が本木了意もとき りょういです。本木は1628年生まれのオランダ通詞で、医学にも通じていました。

1682年、本木はドイツ人医師ヨハン・レムメリンの解剖図譜をもとにしたオランダ語版を翻訳しました。東京大学は、この仕事を「わが国で翻訳された最も古い西欧解剖図譜」と紹介しています。『解体新書』刊行の92年前です。

レムメリンの図譜には仕掛けがあります。男女の身体に紙片で作った臓器が重ねられ、一枚ずつめくると身体の内部が現れます。平面の絵を眺めるだけでなく、身体の層を順にたどれる構造でした。

本木了意が翻訳した西洋解剖図譜の原典系統にあたるレムメリンの人体解剖図
ヨハン・レムメリン『Catoptrum microcosmicum』の人体解剖図。本木了意が17世紀末に訳した西洋解剖図譜の原典系統にあたります。Wellcome Collection/Wikimedia Commons/CC BY 4.0

本木の翻訳はすぐには出版されませんでした。写本のまま約90年を経た1772年、周防の医師・鈴木宗云すずき そううんが校正し、『和蘭全躯内外分合図』として刊行します。国際日本文化研究センターは、これを日本で初めて刊行された解剖書と紹介しています。『解体新書』のわずか2年前です。

1682年には西欧解剖図譜の翻訳が存在し、1754年には山脇東洋の観臓が行われ、1772年には本木了意の翻訳系統が刊行され、1774年に『解体新書』が出ました。西洋解剖学の受容も一本の階段を上るように進んでいます。

徳川吉宗の洋書政策――医学だけでなく情報の入口が広がる

8代将軍徳川吉宗とくがわ よしむねは、西洋の学術書が広く読まれる環境を整え、後の蘭学発展に影響を与えました。

幕府はキリスト教禁制のため洋書の輸入を厳しく制限していました。吉宗は1720年、キリスト教に関係しない書物について禁書令を緩和しました。国立国会図書館は、この時代を「徳川吉宗と蘭学の萌芽」として紹介しています。

吉宗は海外の動植物や実学にも強い関心を持ち、1740年ごろから青木昆陽あおき こんよう野呂元丈のろ げんじょうにオランダ語を学ばせました。政策は実学全般に及び、西洋の学術書を読み解く環境を広げました。

本木了意の翻訳が1682年に存在したことからも分かるように、西洋知識の流入は吉宗以前からありました。吉宗期の変化は、その入口を広げ、長崎の通詞だけに閉じにくい学問環境を作った点にあります。

1770年代に前野良沢や杉田玄白たちがオランダ語の医学書を本格的に翻訳できた背景には、こうした半世紀にわたる政策と学習の蓄積がありました。

書物から骨へ――根来東叔が刑死者の遺骨を見る

山脇東洋の1754年より前にも、実物の人体を医学知識と結びつけた例があります。

京都の眼科医根来東叔ねごろ とうしゅくは、1732年に火刑となった罪人の遺骨を観察し、1741年に『人身連骨真形図』を作りました。臓器の腑分けとは異なり、対象は骨格です。それでも「人体の骨を実際に見て、その形を図にする」という行為は、書物だけで身体を学ぶ段階から一歩進んでいます。

この図には、江戸時代を代表する思想家三浦梅園みうら ばいえんとの接点もあります。帝京短期大学の医学史研究によると、梅園は根来家を訪れた際にこの図を写し、その写本が『造物余譚』として伝わっています。

梅園は天地や自然の仕組みを独自に考察した思想家として知られます。その人物が、実物観察にもとづく人骨図に関心を持って写したという事実は、18世紀前半に「自然を実物から考える」関心が医学だけに閉じていなかったことを伝えます。

人体解剖史を山脇東洋から始めると見えにくい人物ですが、根来東叔は「本にある骨格」から「実際の人骨」へ移る重要な橋渡し役です。

古方派と山脇東洋――なぜ実物を見る必要が生まれたのか

山脇東洋やまわき とうようは1705年に生まれ、京都で活動した医師です。師は古方派の後藤艮山ごとう こんざんでした。

古方派は、後世に積み重なった理論をそのまま受け入れるより、古い医学典籍や実際の治療経験へ立ち返ろうとした医師たちです。後藤艮山は一気留滞説を唱え、灸、温泉、食事なども重視しました。門下から山脇東洋や香川修庵らが育ちます。

山脇は中国医学の五臓六腑説に疑問を持ちました。動物の内部と書物の記述を比べても納得できず、西洋の解剖書にも触れていました。問題は、人間の身体そのものを確かめていないことでした。

1754年閏2月、山脇は京都所司代酒井忠用さかい ただもちの許可を得て、京都の六角獄舎で刑死者の人体解剖を観察します。京都大学はこれを「わが国ではじめて人体解剖を観察した」と位置づけています。

この「初めて」は、人間の内臓そのものが初めて日本人の目に触れたという意味で捉えるより、医師が公的な許可を受け、医学上の疑問を確かめる目的で人体解剖を観察し、成果を記録・公刊した転換点として捉えると、前後の歴史がつながります。

山脇はオランダのヘスリンギウスの解剖書と実物を見比べました。弟子の浅沼佐盈あさぬま さえいが図を描き、その成果は1759年、『蔵志』として刊行されます。

山脇東洋の『蔵志』に描かれた九臓の図
山脇東洋『蔵志』の九臓図。1754年の観臓をもとに、1759年に刊行されました。WolfgangMichel/Wikimedia Commons/CC0

『蔵志』は現代の解剖学から見れば観察範囲も限られています。それでも、古い臓腑説と実際の人体が違うことを印刷物として示した効果は大きく、出版後には批判も起こりました。批判が出ること自体、人体の構造が書物の権威だけで決まるテーマから、観察結果をめぐって議論できるテーマへ移り始めたことを物語ります。

山脇東洋から『解体新書』へ――河口信任がさらに進めた解剖

1754年の山脇東洋から1771年の小塚原までには17年あります。その間にも人体解剖は進みました。

古河藩医の河口信任かわぐち しんにんは、長崎で南蛮・紅毛系の外科を学んだ医師でした。藩主の土井利里どい としさとが京都所司代になると京都へ移り、医師荻野元凱おぎの げんがいに学びます。

1770年4月25日、河口信任と原田維祺らは土井利里に許可を願い、京都の刑場で人体解剖を実施しました。東北大学医学分館の資料によると、山脇東洋の観臓では執刀を別の者に任せたのに対し、外科の経験を持つ河口らは自ら執刀しました。9人が参加し、より詳しい観察を行っています。

河口はその成果を1772年に『解屍編かいしへん』として刊行しました。『蔵志』に続く、日本で2番目に刊行された解剖書と位置づけられています。

河口信任の解剖書『解屍編』に収められた人体解剖図
河口信任『解屍編』の解剖図。1770年の人体解剖をもとにまとめられ、1772年に刊行されました。National Library of Medicine/Wikimedia Commons/Public Domain

『解屍編』では観察範囲が広がり、五臓六腑説の誤りを指摘する一方、膀胱については旧来説を残すなど、新旧の知識が同居しています。

医学知識の更新は段階的に進みました。実物を見るたびに従来説の一部が修正され、別の部分は残り、次の観察へ持ち越されました。

河口信任の1770年の解剖は、1754年の山脇東洋から1771年の小塚原へ至る17年間にも実見解剖が発展していたことを示します。

1771年、小塚原で西洋解剖図と実物が重なる

1771年春、江戸の小塚原刑場こづかっぱらけいじょうで行われた腑分けに、杉田玄白すぎた げんぱく前野良沢まえの りょうたく中川淳庵なかがわ じゅんあんらが立ち会いました。

玄白は小浜藩医、良沢は中津藩医、淳庵も小浜藩に仕えた医師です。特に前野良沢は長崎でオランダ語を学び、『ターヘル・アナトミア』を入手していました。翻訳事業では、良沢の語学力が中心的な役割を担います。

蘭学者・杉田玄白の肖像
杉田玄白の肖像。石川大浪画。早稲田大学図書館所蔵資料より/Wikimedia Commons/Public Domain

この日の様子を後年の玄白が記した『蘭学事始らんがくことはじめ』は、人体解剖史だけでなく、江戸社会の知識の分業を知る史料でもあります。

当初、腑分けは「虎松」という熟練者が担当する予定でした。虎松が急病となり、代わりに高齢の祖父が現れます。玄白の回想では、その人物は若い頃から何度も腑分けを行い、複数人の身体を扱った経験があると語っています。

この記述から、1771年以前にも腑分けが繰り返され、身体内部について医師とは別の実地経験を持つ人々がいたことが確認できます。当時の身分制の下で差別された人々が実際の解剖作業を担い、その技術と経験が腑分けの現場を支えていました。

老齢の執刀者は、心臓や肝臓などを示すだけでなく、名前は知らなくても「どの身体にも同じ場所にある」と経験的に把握していた構造を示しました。玄白たちは持参したオランダ解剖図と実物を照合します。玄白の回想では、図と実物が非常によく一致し、中国医学の旧説と異なる点が次々に確認されました。

玄白たちは西洋の本を権威として受け入れる前に、解剖図を実際の人体に当てて確かめました。書物の記述は、実物との一致によって評価されました。

腑分けの帰り道、玄白、良沢、淳庵は翻訳を決意します。その翻訳の苦闘は、内部記事「『蘭学事始』の内容と『解体新書』翻訳の経緯」で詳しく扱っています。

南千住の小塚原刑場跡に残る首切地蔵
小塚原刑場跡の首切地蔵、2007年。撮影:taketarou/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

小塚原刑場の跡は現在の東京都荒川区南千住周辺です。回向院など、この場所に残る刑場・解体新書関連史跡は「小塚原刑場周辺の史跡を歩く」で現地目線から紹介しています。

1774年『解体新書』――前野良沢・杉田玄白らの共同事業

1774年、『解体新書』が刊行されます。ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの解剖書をオランダ語に訳した『ターヘル・アナトミア』を中心に、複数の西洋医学書も参照して作られた日本語の解剖書です。

『解体新書』は、前野良沢まえの りょうたく杉田玄白すぎた げんぱく、中川淳庵ら複数の医師・蘭学者による共同作業から生まれました。

人物主な役割
前野良沢オランダ語読解・翻訳作業の中心
杉田玄白翻訳参加、全体の推進、出版へまとめる役割
中川淳庵校訂を担当
石川玄常参訂に加わる
桂川甫周閲覧・確認を担当
小田野直武解剖図の原画を担当

国立国会図書館所蔵本には、前野良沢の訳、杉田玄白の訳、中川淳庵の校、石川玄常いしかわ げんじょうの参、桂川甫周かつらがわ ほしゅうの閲、小田野直武おだの なおたけの画という役割が記録されています。

前野良沢は翻訳の中心人物でありながら、『解体新書』の刊本には名前が前面に出ません。玄白は後年の『蘭学事始』で良沢の働きを記しました。玄白を「翻訳者」、良沢を脇役と覚えるより、語学力に優れた良沢と、出版まで事業を前へ進めた玄白が異なる力を持ち寄った共同事業として見る方が実態に近づきます。

平賀源内がつないだ小田野直武

解剖書では図版が決定的に重要です。『解体新書』の図を描いた小田野直武は、秋田藩角館出身の若い藩士でした。

直武の人生には、平賀源内ひらが げんないが登場します。1773年、鉱山開発のため秋田を訪れた源内から直武は西洋画法を学び、その年の暮れに江戸へ出ます。東北大学医学分館は、翌年、杉田玄白から『解体新書』付図の制作を依頼された経緯を紹介しています。湯沢市の文化財解説では、直武が平賀源内の紹介で図版原画を描いたとされています。

直武は陰影や遠近法を取り入れた秋田蘭画の重要人物にもなりました。『解体新書』は医学史だけでなく、西洋画法の受容史とも交差する一冊です。

「エレキテルの平賀源内」と「人体解剖の解体新書」が、小田野直武という画家を介してつながります。

新しい医学用語を日本語で作る

西洋解剖学を日本語へ移すには、対応する言葉が存在しない問題もありました。『解体新書』では「神経」「軟骨」「動脈」など、後世まで使われる解剖学用語が生まれたことで知られます。

翻訳では、外国語を日本語へ移すと同時に、新しい概念を日本語の知識体系へ組み込みました。

『解体新書』の後――翻訳書そのものが検証対象になる

『解体新書』刊行後も解剖学の検証と改訂は続き、出版された本そのものが次の世代の検証対象になりました。

玄白自身、『解体新書』には急いで翻訳したため不十分な点があることを認識していました。改訂を託されたのが弟子の大槻玄沢おおつき げんたくです。

玄沢は1757年に一関藩医の家に生まれ、江戸で杉田玄白と前野良沢に学び、長崎でもオランダ語と医学を深めました。江戸には蘭学塾「芝蘭堂」を開き、多くの門人を育てます。

杉田玄白から改訂を任された玄沢は、原書を読み直し、他の医学書を参照し、自身の解剖経験とも照合しながら長期間にわたって訂正を進めました。『重訂解体新書』は、初版『解体新書』を再検証して更新する仕事でした。

さらに、近年の医学史研究は『解体新書』の読者側にも同じ動きがあったことを示しています。京都の医家・究理堂に伝わった書き入れ本では、初期には中国医学との対応を考え、その後は図の細部を検討し、さらに原書との突き合わせによる誤訳の指摘、原書そのものの誤りの指摘へと進みました。

『解体新書』は、比較・批判・修正を繰り返すための共通の土台になりました。

これは、1754年の山脇東洋が書物と実物を見比べた流れの延長でもあります。今度は『解体新書』自身が、実物や原書によって確かめられる側に回りました。

解剖は医学教育へ――個人の観察から学校の知識へ

江戸後期になると、人体解剖は特定の医師が一度だけ行う珍しい出来事から、医学を教えるための知識へ近づいていきます。

大槻玄沢の芝蘭堂では蘭学・オランダ語の教育が行われ、宇田川玄真ら次世代の蘭学者が育ちました。解剖書も『解体新書』一冊に固定されず、『医範提綱』をはじめ新しい西洋医学書・解剖書が次々に紹介されます。

江戸時代には漢方医学、蘭方医学、両者を組み合わせる医師が併存しました。解剖学の知識も、それぞれの医師・藩・医学校の環境の中で受容されます。

幕末から明治にかけて医学教育の制度そのものが再編され、大学・医学校で人体構造を学ぶ解剖学が教育課程の一部になります。日本の医学部・病院制度がどのように形成されたかは、内部記事「日本の医学・病院制度の歴史」で詳しく整理しています。

山脇東洋の時代には、解剖を一度実施するために京都所司代へ許可を求めました。近代になると、解剖を医学教育の中で継続的に行うための制度、施設、遺体提供の仕組みが必要になります。人体解剖史はここで「誰が最初に切ったか」という人物史から、教育制度の歴史へ広がります。

刑死者の腑分けから献体へ――美幾が自分の身体を医学へ託す

江戸時代の著名な人体解剖では、刑罰制度の中で生じた刑死者の遺体が使われ、解剖する側の医師が観察の機会を得ていました。

明治初期、その関係に大きな変化を示す人物が現れます。美幾みきです。

千葉大学医学部の献体史によると、美幾は1868年、不治の病で死期が迫る中、自分の死後の遺体を医学のために提供することを希望しました。1869年に34歳で亡くなり、日本初の篤志献体者とされています。

この出来事では、解剖技術の高度化より「誰の意思で身体を医学に提供するのか」が変わっています。

山脇東洋や杉田玄白らの時代には、刑罰制度の中で生じた遺体を医師が観察しました。美幾の事例では、本人が自らの身体を医学教育へ役立てたいという意思を示しました。人体を知識の対象として扱う医学の発展と、遺体を提供する人の意思をどう位置づけるかという倫理・制度の歴史が、ここで接続します。

美幾の生涯は後世の文学にも取り上げられています。千葉大学は、渡辺淳一『白き旅立ち』、吉村昭『梅の刺青』が美幾を題材にした作品として紹介しています。医学史上の一人の女性が、文学の題材にもなった例です。

現代の解剖学――法律と献体制度の中で学ぶ

現代の医学で行われる解剖は、目的によって大きく正常解剖、病理解剖、法医解剖に分けられます。献体によって医学部・歯学部の教育で人体構造を学ぶのは正常解剖です。

日本では1949年に死体解剖保存法したいかいぼうほぞんほうが公布されました。法律は、死体の解剖・保存、死因調査の適正を図り、公衆衛生と医学教育・研究に資することを目的に掲げています。

1983年には「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」が制定されました。同法は「献体の意思」を、死後に自己の身体を正常解剖の解剖体として提供することを希望する意思と定義し、その意思を尊重することを明記しています。

ここまで来ると、1754年の腑分けとは社会的な仕組みが大きく異なります。

人体内部を知りたい医師が刑死者の身体を観察するところから、本人が生前に意思を示し、法律・大学・献体組織の制度の中で医学生が学ぶところまで、約270年をかけて解剖を取り巻く関係が変化しました。

現在の医学部の解剖実習では、臓器名に加え、二次元の図や3Dモデルでは把握しきれない個体差、組織同士の位置関係、人体の立体構造を自分の目と手で学びます。同時に、提供者の意思と遺族の協力の上に教育が成り立つことも、現代の解剖学教育の一部です。

日本の人体解剖史を年表でたどる

年代出来事発展した点
1045年北宋で『欧希範五臓図』につながる人体観察刑死者の人体観察を臓腑図へ反映
1113年楊介『存真環中図』先行する人体図を実見によって補正
1302~1304年ごろ梶原性全『頓医抄』中国の臓腑図を含む医学知識を日本語で広く編纂
室町~桃山期人・馬・五行・宗教観を含む身体図が伝わる日本で身体を図像化する伝統が継続
1682年本木了意が西欧解剖図譜を翻訳『解体新書』より約90年前に西欧解剖図を日本語化
1720年徳川吉宗が禁書令を緩和非キリスト教洋書の輸入環境が広がる
1732年/1741年根来東叔が刑死者の遺骨を観察し『人身連骨真形図』を作成書物の骨格から実物の人骨観察へ
1754年山脇東洋が京都で人体解剖を観察公許の観臓で従来の臓腑説を実物と比較
1759年『蔵志』刊行実見結果を図と文章で公刊
1770年河口信任らが京都で人体解剖外科医自身が執刀し、より詳細に観察
1771年杉田玄白・前野良沢らが小塚原で腑分けを見学西洋解剖図と人体をその場で照合
1772年『解屍編』『和蘭全躯内外分合図』刊行実見解剖と17世紀の西洋解剖知識がともに出版物になる
1774年『解体新書』刊行西洋解剖学を体系的な日本語の医学書として共有
18世紀末~19世紀大槻玄沢らが『解体新書』を再検討翻訳書そのものを原書・実物・別資料で再検証
1869年美幾の篤志献体本人の意思による遺体提供という新しい関係が生まれる
1949年死体解剖保存法公布解剖・保存を近代法制の中で規定
1983年献体法制定医学・歯学教育への献体意思の尊重を法制化

まとめ――変わったのは「人体を見ること」より「確かめ方」だった

人体の内部を見る経験は、医学書より古く存在します。日本の人体解剖史で大きく変化したのは、その経験を知識へ変える方法でした。

宋代の人体観察から生まれた図が日本へ伝わり、『頓医抄』に残る。17世紀には本木了意が西洋解剖図譜を訳す。根来東叔が実物の人骨を見る。山脇東洋が人体を観察して『蔵志』を刊行する。河口信任らが自ら執刀して観察範囲を広げる。杉田玄白・前野良沢らが『ターヘル・アナトミア』を実物の人体と照合し、『解体新書』へ進む。

その『解体新書』も完成形として固定されず、大槻玄沢や各地の医師によって読み直され、原書や新たな知識との比較を受けました。

そして近代には、解剖は医学教育の制度に入り、刑死者を対象とした腑分けから本人の意思にもとづく献体へと関係が変わります。

「権威ある本に書いてあるから人体はこうなっている」から、「実物を見て確かめ、記録し、別の人がもう一度検証する」へ。日本の腑分けと解剖学の歴史は、人体そのものの発見史というより、医学が知識を確かめる方法を変えていった歴史です。

参考文献・確認資料

  1. 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ『頓医抄 50巻』
  2. 文化遺産データベース『頓医抄』
  3. 真柳誠「『桃山時代解剖之図』について」『日本医史学雑誌』64巻2号(2018)
  4. 東京大学附属図書館「和蘭全躯内外分合図」
  5. 国際日本文化研究センター『和蘭全躯内外分合図』オンライン展示
  6. 国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流」
  7. 帝京短期大学紀要 No.22(2021)人体解剖図史に関する論考
  8. 京都大学附属図書館「蔵志」解説
  9. 順天堂大学 日本医学教育歴史館「山脇東洋」
  10. 東北大学附属図書館医学分館「解屍編」「解体新書」
  11. 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ『解屍編』
  12. 国立国会図書館『蘭学事始』
  13. 国立国会図書館『解體新書』書誌
  14. 文化遺産オンライン『解体新書』
  15. 文化遺産データベース 小田野直武関連資料
  16. 秋田市立千秋美術館 小田野直武収蔵品解説
  17. 文化遺産データベース「大槻玄沢関係資料」
  18. 村松洋「書入れ本に見る『解体新書』の受容」『日本医史学雑誌』70巻1号
  19. 千葉大学医学部「献体とは」
  20. e-Gov法令検索「死体解剖保存法」
  21. e-Gov法令検索「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」