山梨県はどうやって「地方病」を終息させたのか|日本住血吸虫症との100年の闘い

甲府盆地の用水路で行われたミヤイリガイ殺貝作業

甲府盆地では、田に入った人が皮膚から寄生虫に感染し、肝臓や腸を傷め、腹水に苦しむ病気が長く恐れられていました。山梨で「地方病」と呼ばれた日本住血吸虫症です。

病原体が発見されたのは1904年。感染のしくみが解明されても、流行はすぐには止まりませんでした。山梨県は患者の検査と治療、学校教育、便の処理、ミヤイリガイの駆除、殺貝剤の散布、農業用水路のコンクリート化を重ねます。1950年から1985年までに整備されたコンクリート水路は2,179.1kmに達しました。

感染したミヤイリガイは1976年を最後に見つからなくなり、人の便から虫卵が確認されたのも1977年の3人が最後でした。それでも県は監視を続け、1996年2月19日に「地方病流行終息宣言」を出します。病原虫の発見から92年、行政が地方病対策に取り組み始めた時代から数えれば一世紀を超える闘いでした。

「地方病」とは何だったのか

地方病の正体は、日本住血吸虫という寄生虫による感染症です。成虫は人や牛、犬などの血管内に寄生し、産み出された卵が腸壁や肝臓などに障害を起こします。慢性化すると肝臓の線維化、肝脾腫かんひしゅ、腹水などにつながりました。

日本住血吸虫の鉄ヘマトキシレン染色標本
日本住血吸虫の染色標本。雄の抱雌管に細長い雌が収まっている。撮影:グランピィ/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons

この病気には、感染をつなぐ小さな巻貝が必要です。患者や感染動物の便とともに虫卵が水へ入り、卵から出た幼生がミヤイリガイに寄生します。貝の体内で増えた幼生は再び水へ出て、人や動物の皮膚を通って体内に入ります。

感染環は「人・動物 → 便 → 水 → ミヤイリガイ → 水 → 人・動物」と一周します。山梨の対策は、この輪の各所を長い時間をかけて切っていく仕事になりました。

原因不明の水腫から、寄生虫の発見へ

山梨で地方病を思わせる症状は古くから記録されています。1811年の『翻訳断毒論』には「中郡の水腫」の記述があり、1874年には流行地域の村々から県令へ病気への対応を求める嘆願が出されました。1881年に春日居村から提出された「御指揮願い」は、地方病行政史を語る代表的な文書として知られています。

1897年には、春日居村の農婦・杉山なかが、病気の原因解明のため自分の死後に遺体を解剖するよう願い出ました。解剖で採取された肝臓は保存され、のちに日本住血吸虫の卵が確認されます。病名も原因も分からない時代に、患者自身が研究へ道を開いた出来事でした。

転機は1904年です。病理学者の桂田富士郎かつらだ ふじろうが山梨で得た標本から新しい寄生虫を確認し、日本住血吸虫と命名しました。広島県の片山地方で同じ病気を研究していた藤浪鑑ふじなみ あきららの研究も進み、病気の正体が寄生虫であることが固まっていきます。

1909年には、幼生が皮膚を通って体内へ入る経皮感染けいひかんせんが実験で確認されました。

1909年に行われた日本住血吸虫の感染経路実験
1909年6月20日の日本住血吸虫感染経路実験。経皮感染の解明につながった。パブリックドメイン/Wikimedia Commons

1913年、寄生虫学者の宮入慶之助みやいり けいのすけと鈴木稔が佐賀県で中間宿主となる巻貝を突き止めます。同じ種類の貝は山梨でも確認され、のちにミヤイリガイと呼ばれるようになりました。病原虫、感染経路、中間宿主がそろい、対策の標的が具体化します。

近代日本で感染症研究が研究所・大学・病院へ広がった背景は、当サイトの「日本の医学・病院の歴史と系譜」でも詳しく紹介しています。

1911年、69,131人を調べて分かった流行の大きさ

原因究明と並行して、山梨県は流行の規模を測り始めました。1911年の調査では45町村、69,131人を調べ、7,893人に肝臓や脾臓の腫れ、腹水など地方病を疑う所見が確認されています。割合は11.4%でした。

甲府盆地の農村では、水田や用水路に入ることが日常の労働でした。感染する危険がある水辺と、生計を支える農作業を切り離せないことが対策を難しくします。人だけを治療しても、便から水へ虫卵が戻り、ミヤイリガイを介して次の感染が始まります。貝だけを減らしても、残った生息地から再び広がりました。

1914年には山梨県医師会側から、虫卵の処理、ミヤイリガイ対策、幼生への対策、皮膚からの感染防止、便所改良、田畑での便の処理などを組み合わせる予防策が提案されています。地方病対策は早い段階から、治療と環境対策を組み合わせる公衆衛生事業として考えられていました。

学校で検便し、子どもに『俺は地方病博士だ』を配った

1917年ごろから、学校を通じた対策が本格化します。児童の便を集めて虫卵を調べる集団検査が行われ、地方病の感染方法や予防を伝える副読本『俺は地方病博士だ』も作られました。

水に入るときの注意、便を水へ流さないこと、ミヤイリガイへの理解を子どもの段階から広める狙いがありました。地方病は家庭や農作業の習慣と直結していたため、学校教育は地域全体へ知識を運ぶ経路にもなりました。

感染症を抑えるには、医学的な発見に加えて、検査、記録、行政、住民への情報伝達を組み合わせる必要があります。天然痘やポリオなど別の感染症で同じ構造がどう現れたかは、「ワクチンの歴史」でもたどれます。

貝を拾い、石灰をまき、それでも地方病は残った

中間宿主が分かると、対策の中心にミヤイリガイが据えられました。1910年代後半から住民を動員して貝を集め、1920年代には薬剤を使った殺貝さつばいが大規模に行われます。

1924年から1938年までの石灰散布では、23,518トンが使われ、作業員は延べ110,688人に達しました。散布後に感染貝が減る効果は確認されましたが、時間がたつと貝が戻る場所もありました。1942~43年の調査でも、8,093人中1,256人から虫卵が検出されています。

1931年には寄生虫病予防法が公布され、日本住血吸虫症も法に基づく予防の対象となりました。検査や予防を地域任せにせず、制度として進める土台が作られます。

戦後の甲府駅に「寄生虫列車」がやってきた

戦後、地方病研究には米軍も加わりました。フィリピンなどで日本住血吸虫症に直面していた米軍は、占領下の日本でも調査を進めます。1947年12月には米軍406医学総合研究所の研究設備を載せた4両編成の列車が甲府駅に入り、便検査などを行いました。研究史では「Parasite Train(寄生虫列車)」として紹介されています。

日米の研究者は流行地で疫学調査を行い、殺貝剤、診断法、感染防止法などを試験しました。戦争で停滞した対策が再び動き、戦後の大規模事業につながっていきます。

山梨県で使われたミヤイリガイ殺貝器具の展示
山梨県で使用されたミヤイリガイ殺貝器具。山梨県立博物館所蔵。撮影:Sakaori/CC BY 3.0/Wikimedia Commons

決定的だった2,179kmのコンクリート水路

戦後の対策で大きな役割を果たしたのが、ミヤイリガイが生息する土の用水路をコンクリートへ置き換える事業でした。1948年に試験が行われ、1950年には国の事業として整備が始まります。

土の水路には泥や草があり、ミヤイリガイが生息しやすい環境が広がっていました。コンクリート化すると貝が定着しにくくなり、水路の清掃や薬剤散布も行いやすくなります。薬でその場にいる貝を殺す対策から、貝が暮らしにくい環境へ変える対策へ比重が移りました。

1956年には国会で対策の法的・財政的な強化が議論され、国の負担による溝渠こうきょ整備が加速します。計画は延長を重ね、1950年から1985年までに造られたコンクリート水路は2,179.1km。地方病対策事業費は同期間で112.7億円に達しました。

感染症対策が、診察室や研究室から農業土木へ広がった瞬間です。水路を作り替える発想は、安全な水を都市へ送る近代水道とは目的が異なりますが、「水の経路を設計し直すことで感染リスクを下げる」という点で公衆衛生とインフラが交わります。水と感染症の関係は「東京水道の歴史」でも紹介しています。

強力な殺貝剤Na-PCPと、その代償

コンクリート化と並行して、戦後は化学薬剤による殺貝も続きました。1950年代に本格投入されたNa-PCPはミヤイリガイに強い効果を示し、広い地域で使われます。

一方で、魚類など水生生物への毒性が問題になりました。山梨県でも魚の死亡が起き、使用方法への警告が出されています。1970年代初めにはNa-PCPの使用が終わり、別の薬剤へ移行しました。

1950~85年に記録された使用量は、Na-PCP 328トン、ユリミン173トン、B-2粒剤98トンなどに及びます。地方病対策は成功へ向かう一方、水辺の生態系へ大きな負荷をかけた時期もありました。

1955年、対策中なのに有病地は最大規模になった

長年の対策を経ても、戦後の甲府盆地には地方病が残り続けました。1955年の再調査では、それまで流行地と考えられていなかった場所でも患者や感染貝が見つかり、県の指定有病地は約19,603haに広がりました。

対策が失敗して突然流行が拡大した数字というより、調査範囲が広がり、感染地域の実像がより細かく把握された結果を含みます。戦後10年の時点で、地方病が甲府盆地の広い範囲に残る大きな公衆衛生問題だったことは確かです。

病気を減らしたのは、農業そのものの変化でもあった

地方病が減った時期には、農村の姿も変わりました。1958年には、水田を野菜畑や果樹園へ転換して水との接触を減らす案が県から示されています。その後、甲府盆地では果樹や野菜の比重が高まり、農業機械や化学肥料の普及も進みました。

人が裸足で水田へ入る機会が減り、耕作に使う牛馬も減少します。牛や犬なども日本住血吸虫の宿主になり得るため、農業形態の変化は感染環を弱める方向に働きました。宅地化や水路整備も重なり、ミヤイリガイが生息できる場所そのものが縮小します。

1971年ごろには活動性患者が1,000人未満、虫卵陽性率が1%未満まで低下しました。犬の感染率も1957年の25.5%から1962年には5%、1971年には0%となり、牛では1964年以降に感染が確認されなくなります。

1970年代に感染の指標が消え、それでも20年近く監視した

1976年、25,333個のミヤイリガイを調べた調査で感染した貝が3個見つかりました。これが山梨で感染貝が確認された最後の記録です。人では1977年の便検査で3人から虫卵が確認され、その後は陽性者が見つからなくなりました。

県は1984年に新たな流行はないと判断しましたが、そこで監視を終えませんでした。ミヤイリガイ自体は残っており、再流行への不安もありました。貝の生息調査、人や動物の検査などを続け、感染が戻っていないことを確かめます。

1996年2月19日、山梨県は地方病の流行終息を宣言しました。感染貝が最後に見つかってから約20年、人の虫卵陽性者が最後に確認されてから約19年後でした。

ミヤイリガイは今も山梨にいる

終息宣言後も、ミヤイリガイそのものは山梨から消えていません。1996年以降の定点調査では、生息が確認される地点や密度が増えた年もありました。それでも調べた貝から日本住血吸虫は検出されていません。

山梨で断ち切られたのは、寄生虫が人や動物、便、水、貝をめぐって次の感染へ進む連鎖でした。ミヤイリガイは現在も生息しています。患者の発見と治療、便の衛生管理、教育、殺貝、コンクリート水路、農業の変化、長期監視が重なり、感染環が維持できなくなりました。

2026年は流行終息宣言から30年にあたります。山梨県と山梨県立博物館では記念事業や展示が行われ、かつて県民生活を長く脅かした病気の記録が改めて紹介されました。

地方病対策の重要年表

出来事
1811年『翻訳断毒論』に山梨の「中郡の水腫」の記述
1874年流行地域の村々から県令へ嘆願
1897年杉山なかの遺体を病理解剖
1904年桂田富士郎が日本住血吸虫を発見
1909年経皮感染を実験で確認
1911年69,131人を調査し、7,893人に地方病を疑う所見
1913年宮入慶之助・鈴木稔が中間宿主の貝を発見
1917年ごろ学校検便、副読本『俺は地方病博士だ』などの啓発を展開
1924~1938年石灰による大規模な殺貝
1931年寄生虫病予防法公布
1947年米軍の研究列車が甲府へ入り日米共同研究
1948年コンクリート水路の試験
1950年水路コンクリート化が国の事業として進む
1955年指定有病地が約19,603ha
1976年感染したミヤイリガイを最後に確認
1977年便検査で3人の虫卵陽性者を最後に確認
1985年コンクリート水路事業終了。累計2,179.1km
1996年2月19日山梨県が地方病流行終息を宣言

よくある質問

地方病とは何ですか?

山梨県の甲府盆地を中心に長く流行した日本住血吸虫症の呼び名です。日本住血吸虫の幼生が水中から皮膚を通って感染し、慢性化すると肝臓や腸などに障害を起こしました。

山梨県はミヤイリガイを絶滅させたのですか?

ミヤイリガイは現在も山梨県内に生息しています。感染した貝は1976年を最後に確認されておらず、貝を完全に消すことより、寄生虫の感染環が続かない状態を作ったことが終息につながりました。

地方病はいつ終息したのですか?

山梨県は1996年2月19日に「地方病流行終息宣言」を出しました。感染貝は1976年、人の便からの虫卵陽性者は1977年を最後に確認されなくなっていましたが、県はその後も長期間の監視を続けてから終息を宣言しました。

参考文献・参考資料