南千住・小塚原刑場から吉原遊郭跡へ|回向院・解体新書・浄閑寺「投込寺」を歩く

南千住の小塚原刑場跡に残る首切地蔵

南千住駅から小塚原刑場跡、山谷、吉原遊郭跡を通り、浄閑寺まで歩く歴史散歩です。南千住周辺には、江戸の刑罰と供養、日本の医学史、吉原の遊女たちの歴史が徒歩圏内に残っています。

主な見どころは、杉田玄白・前野良沢らと『解体新書』につながる回向院と観臓記念碑、吉原の入口を伝える見返り柳、吉原神社と新吉原花園池跡、樋口一葉ゆかりの一葉記念館、そして「投込寺」と呼ばれた浄閑寺です。史跡を順に歩くと、南千住と吉原が「刑場」「供養」「医学」「遊郭」という複数の歴史で結ばれていたことが分かります。

今回のコース概要|南千住駅から小塚原刑場・吉原・浄閑寺へ

  • 出発地:南千住駅西口周辺
  • 到着地:浄閑寺
  • 主要スポット:回向院(小塚原刑場跡)→山谷→見返り柳→吉原神社→新吉原花園池跡→鷲神社→一葉記念館→浄閑寺
  • テーマ:小塚原刑場と供養、『解体新書』と蘭学、山谷、吉原遊郭、樋口一葉、遊女供養
  • 所要時間・距離:当時の記録から確認できないため記載していません。

このコースでは玉姫稲荷神社と寶珠稲荷神社は立ち寄らず、南千住から吉原方面へ進みました。

小塚原刑場とは|南千住に残る江戸の刑場跡

現在の南千住駅周辺には、江戸時代の小塚原刑場がありました。荒川区は、品川の鈴ヶ森と並ぶ処刑場だった場所として小塚原刑場跡を区指定史跡としています。刑死者や牢死者を供養するため、寛文7年(1667)に本所回向院がこの地に回向院を開創しました。

回向院|吉田松陰・橋本左内と観臓記念碑

豊国山回向院には、安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内らの墓所があります。刑場跡という土地の歴史と、そこで亡くなった人々を弔う寺の役割を同じ場所で確認できます。

境内で特に見ておきたいのが観臓記念碑です。明和8年(1771)、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らは小塚原で刑死者の腑分けに立ち会いました。荒川区は、この経験がオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳と『解体新書』刊行につながったと紹介しています。観臓記念碑は、その出来事を記念する史跡です。

回向院には鼠小僧、高橋お伝など小塚原の歴史に関わる墓もあります。墓所や碑を見るときは、人物名だけでなく「なぜこの場所に墓や供養碑が集まったのか」を刑場と回向院の関係から見ると理解しやすくなります。

南千住の小塚原刑場跡に残る首切地蔵
小塚原刑場跡の首切地蔵、2007年。撮影:taketarou/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

首切地蔵は現在、回向院の南側にある延命寺境内にあります。刑死者など無縁となった人々を供養するために建てられた地蔵で、小塚原刑場の記憶を伝える重要な場所です。

山谷から吉原へ|街の性格が変わる境界を歩く

回向院からは、まりや食堂、山谷労働者福祉会館の周辺を通って吉原方面へ向かいました。途中の玉姫稲荷神社と寶珠稲荷神社は今回はスキップしています。

あしたのジョー像は、山谷をモデルにした「ドヤ街」を舞台とする作品と地域の結びつきを示すスポットです。さらに土手の伊勢屋付近を進むと、吉原遊郭跡へ近づきます。

吉原遊郭跡|見返り柳から吉原神社・花園池跡へ

吉原の歴史を現地でたどる起点にしやすいのが見返り柳です。遊郭帰りの客が名残を惜しんで振り返ったことから名が付いたとされます。かつては山谷堀脇の土手にあり、現在の柳は道路整備や震災・戦災を経て植え替えられたものです。

この先は旧吉原遊郭の範囲を歩きます。吉原の成立、現在の場所、見返り柳や大門跡などを詳しく知りたい方は、吉原遊郭跡を歩く|吉原の歴史・現在の場所・街歩きの注意点もあわせて読むと、現地の位置関係がつかみやすくなります。

吉原神社と新吉原花園池(弁天池)跡

吉原神社は吉原遊廓ゆかりの神社です。近くの新吉原花園池(弁天池)跡は、遊郭造成以前の湿地の名残と吉原の災害史を伝えています。台東区によると、明暦3年(1657)の大火後に日本橋の吉原遊廓が移転し、遊郭造成時に池の一部が残されました。関東大震災では池へ逃れた多くの人が亡くなり、現在は供養の観音像などが残ります。

吉原では華やかな遊郭文化だけでなく、遊女の生活や災害、供養の歴史も同じ地域に残っています。この後に訪れる浄閑寺まで歩くと、そのつながりがより明確になります。

鷲神社・一葉記念館|吉原周辺の信仰と文学

吉原周辺では長國寺と鷲神社を通り、台東区立一葉記念館へ向かいました。

一葉記念館がある竜泉は樋口一葉ゆかりの地域です。一葉の代表作『たけくらべ』は吉原に近い竜泉寺町を舞台とし、遊郭周辺で暮らす子どもたちの世界を描きました。吉原の史跡だけでなく一葉記念館まで歩くことで、明治期の吉原周辺が文学にどう描かれたかという視点も加わります。

その後、永久寺(目黄不動)を経て浄閑寺へ向かいました。

浄閑寺はなぜ「投込寺」と呼ばれるのか

浄土宗榮法山浄閑寺は、明暦元年(1655)に開創された浄土宗寺院です。新吉原の遊女らを供養してきた寺として知られています。

荒川区によると、安政2年(1855)の大地震で亡くなった新吉原の遊女たちの遺体が投げ込み同様に葬られたことから、浄閑寺は通称「投込寺」と呼ばれるようになりました。境内には遊女たちを慰霊する新吉原総霊塔があり、永井荷風の筆塚と詩碑も残っています。

南千住駅近くの小塚原刑場跡から吉原を経て浄閑寺まで歩くと、江戸・明治の都市の周縁で亡くなった人々を供養してきた場所が、この地域に重なっていることを現地の寺院や碑からたどれます。

荒川区南千住にある浄閑寺の境内景観
浄閑寺、2021年。撮影:Higa4/Wikimedia Commons/CC0 1.0。

南千住・千住宿・吉原を続けて歩く

南千住を別の歴史軸から歩くなら、江戸四宿の一つである千住宿の跡(北千住~千住大橋~南千住)を散策しようも参考になります。千住宿の交通史までつなげると、南千住が江戸の街道、刑場、寺院、吉原方面への動線と接する地域だったことを立体的に見られます。南千住から吉原を経て浅草まで歩くルートは、南千住から吉原・浅草を歩く歴史散歩で紹介しています。

解説付きの歴史散歩に参加する

ゆる歴史散歩会では、東京の史跡、神社仏閣、建築、地形などを現地で見ながら歩くイベントを開催しています。開催中の企画はイベント一覧から確認できます。歴史初心者や一人参加でも参加できる街歩きです。

TimeWalkで近くの歴史スポットを探す

TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。南千住や吉原周辺を自分のペースで歩くときの寄り道探しにも使えます。